殺させない
ガクン、と肘が曲がる。
掛上の奇怪な笑い声でわずかに力が緩んでいた両手がストンと落ちた。
「え?……」
疑問を覚えた瞬間、俺の身体は玄関のドアに激しく打ち付けられる。
「ゲホッ!カハッ!」
掛上の咳き込む音と振動が自分の背中に、捻り上げられた右腕にあたる。
「ゲホッ!き、岸辺く……」
右腕が解放され、両肩を掛上がつかみ背中全体に温もりと、柔らかな感触と、咳き込む荒い呼吸が引っ付いた。
いったい何が起こった?
解放された右腕は、筋がひきつったように痛みを訴えている。
そんなことより、俺はなぜ、額を玄関のドアに擦り付けているのか。
「……っ岸辺、くん。安心して……ケホッ……私を岸辺くんに殺させない……」
「………」
「お父さんと、お母さんにも殺させなかったし……ひひ……」
「………」
「好きだなんて急に言うから、びっくりしたよ」
ゆっくり振り返ると、掛上が俺の背中から顔を上げ、涙とよだれで肌を光らせながら笑った。
いつもの嘘の笑顔。
身体の力が抜け、俺は座り込む。
「岸辺くん!大丈夫?」
掛上が俺に目線を合わすべく、しゃがむ。
「手が震えてる……」
膝の上にあった俺の手を掛上が両手で包む。
気がつかなかったが、俺の手は震えていた。
わなわなと、みっともないくらい。
「大丈夫だよ。私、生きてる。殺されてない。岸辺くんは何もしてない」
俺の後悔で震え続ける手を掛上がぎゅっと握る。
どうして、掛上は、どうして、殺そうとした俺を……
「岸辺くん、落ち着いて。大丈夫。私、護身術できるから、いつでも抜け出すことできたんだから。大丈夫。大丈夫。大丈夫」
掛上が橋の下でしたように、俺の背中をなだめるように撫でたり叩いたりした。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、大丈夫だなんて言うんだ?俺はおまえの首を……」
掛上の護身術がどれ程のものなのか、俺には全く分からない。
掛上が慰めようと言った言葉はつかみ所がなく、目は掛上越しに廊下を見ているはずなのに、まだ喉笛を親指を重ねて潰そうとしている光景が焼きついていた。
まだ、自分がしたことが実感として追いついていないから、ただ掛上の身体の匂いとか、感触に委ねることしかできない。
「……怒った方が岸辺くんはいいの?殴ってほしい?」
俺から身体を離して掛上が困ったように目を伏せる。
「……できれば……」
拳を打ち込まれたらチャラになるとか、全然思ってないけれど、そうしてくれたら俺は俺の行動を受け入れられそうだ。
「……だめ。岸辺くんを私の両親と同じなんかにしない」
自分の拳を苦しそうに見つめて掛上が拒否する。
両親と同じ、とは、掛上は自分の親を殴ったのだろうか?
「ほんとには殴ってない」と、掛上がすぐに否定して、続ける。
「でも、殴りたいくらい、苦しい。岸辺くんはそうじゃない。私を好きだって言ってくれたし、首を絞めてる時も、すごく優しかった」
「優しい?」
俺はあきれて乾いた笑いをもらす。
「おかしい?でも、そう感じたから……ちょっと逃げるの遅れた……」
「……変なやつ……」
自分を棚に上げて呟く。
「変じゃないよ」
「………」
俺は心臓が止まるかと思った。
死んでいるから、その表現は違うかもしれない。
でも、今は動いているから、この心臓に受けた衝撃は、止まるかと思った。
掛上の微笑んだ顔がとても大人びていて、まるで知らない女だった。
「岸辺くん、私を好きだって言ってくれてありがとう」
掛上が俺の手をまた握る。
「でも、桃果さんを悲しませて岸辺くんを選ぶ価値、あるのかな?」




