瞳の色
いつもより難しかったが、どうにか虚空の中に潜れた。潜った瞬間自分が感じていた痛みがすっと遠のく。代わりに斬られた下半身の感覚がなくなって変な感じだったけれど、それでも両手を使って這いずる。
少年は全身全霊で這った。
胸中で燃える感情に突き動かされて這い続けた。
第二埋め立て地の縁にたどり着いて、少年は機械の双眼で恩知らずのポンコツの姿をくまなく探す。
虚空の目はいともたやすく流空を見つけ、さらに少年にとっては運のいいことに、流空が追い回している少女の姿も捉えた。
忘れるはずがなかった。裂空を傷つけたおねえさんだった。
激情に残酷な喜びが加わる。なんだ、ちょうどいいじゃないか。ふたりまとめてお仕置きだ。人間の心臓なんて一個だけだし、部品が揃わなかったから、流空だって駆動しているメインエンジンは一つしかない。どっちもやっつけてやる。見てろ。
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下の階が、背筋が寒くなるほど唐突に静まった。
広瀬が憔悴した顔を上げる。崩れた屍山があった場所へと視線を向け、ほぼ無意識に埋め立て地の縁までよろぼい行く。見下ろすと、ゼンじぃのねぐらまでまんべんなくロボットの死骸が散らばっている。
その中にあって、こちらに背を向ける位置で流空に吊り上げられていたリトル・ミスがぼたりと落下した。流空が手を離したようだった。
遠目にもわかるひどい怪我だった。落ちた衝撃が体に応えたのか、咳き込んで肩が上下に揺れているのがわかる。その肩の裂傷も、広瀬が見た時より深くなっていた。
流空がぎこちない動きでリトル・ミスを見下ろす。その両目は未だ赤い。だが気のせいだろうか、遠くから見るからそう映るだけだろうか。血が凍りつくほど恐ろしいふたつの瞳が一度だけ、おぼつかなく揺れたように見えた。
全く不意に、金属が擦れ合うような音が聞こえた。
音の出所を向いて心臓が止まるかと思う。広瀬の位置からわずか数メートル横に、とどめを刺されたはずの虚空が腹ばい状態で身を反らしていた。腹のハッチが開いており、そこからきりきりと音を立てながら一本の鉄製の矢が飛び出してきている。矢といってもシャフトが腕並みに太く、矢尻は船の碇をそのまま取りつけたようにしか見えないデザインで、戦車とか装甲車相手に使っていたとしか思えない、武骨で残虐性の塊のような武器だった。
正気を疑うような凶器が定めた標的は、
『危ない!!』
広瀬の叫喚に反応して振り向いたリトル・ミスめがけて碇矢が放たれる。空気を切り裂く碇矢は、もちろん貫通のみに主眼を置かれているわけではない。広瀬の予想通り、この矢は装甲戦闘車両破壊を目的に作られたもので、矢尻の反対側には爆薬がぎゅう詰めに装填されており、発射後の衝撃を感知して導火線に着火される仕組みとなっている。
間違っても、人身に向けられるのを想定された武器ではないのだ。
爆発の瞬間、グラウンド・ゼロに全ての音が収束した。
凝縮された音が、闇を貫き目を潰す真っ白な光と共に弾ける。刃のような爆風がスクラップたちを切り刻みながら天に吹き飛ばしていく。スクラップの頭や足が回転しながらここまで飛んでくる。広瀬は無我夢中で水晶に走り寄り、少年を抱えたままの彼女を包むように抱いた。破片が腕や背中をかすり、まだ癒えていないやけど跡を容赦なく切り裂いていく。水晶の声なき叫びは広瀬の名だった。
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夜が雨音を取り戻すまでの記憶が、広瀬にはまったくなかった。気を失っていたのかもしれない。我に返った時に目の前にあったのは水晶の泣き顔で、広瀬が自分を見ているのに気づいた水晶は瞳の奥をきらめかせながらその首に飛びついた。
『怪我ないか!?』
水晶は何度も頷く。もはや意味はないのだが、少年にも外傷はないようだった。
『ゼンじぃ!! ゼンじぃは!?』
立ち上がる。直視はしなかったので完全に視力を失ったわけではないが、夜に弾けた光は確実に広瀬の視界を奪っていた。飛んできた残骸もあって何度もつまづく。落ちたら元も子もない、視力が戻るのを待つ。歯を食いしばって焦りで焼けつく胸の痛みを耐える。首筋を伝っているのが汗なのか雨水なのかわからない。
徐々に開けてくる視界の中、広瀬は信じられないものを見た。
足がないので踏ん張れなかったのか、虚空が再び地面を這って碇矢を発射した地点に戻ろうとしていた。まだあんな化け物を撃つ気なのかとおののく広瀬は、偶然見下ろした先にあった光景に、虚空の行動の理由を知った。
溶け、砕け、吹き飛び、爆発して、地面は再び丸裸になった。
息を吸うだけで肺が溶け落ちそうな熱気を、天泣が冷ましていく。雲のような蒸気が立ち昇る中、まだ元の原形を留めているものが四つある。
大槍。
それに刺し貫かれている紅暁。
目を見開いて碇矢の先端を見つめるリトル・ミス。
鳩尾を貫かれたままの状態で彼女に覆いかぶさる、戌―捌零式流空。
紅暁が淡く輝く光の玉に姿を変える。光の玉は一瞬の発光のあと、はぜた。光の代わりに現れたのは、刀身を真紅に染め上げた一振りの刀だった。
リトル・ミスの表情が驚愕に彩られる。
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『あ、ああぁああああぁぁあああぁああぁあああぁぁああぁあ』
度胆を抜かれる広瀬。慟哭にも似た叫びをあげながら、ゼンじぃが二発目を放とうとする虚空の腕にかじりついた。
『やめてくれ、やめてくれ……! あれでは、あれではあまりにも、流空が哀れだ、かわいそうだ……。やめてくれ、やめてくれ』
どこにそんな力がと思うほど、ゼンじぃはがっちりと虚空に組みついて離れなかった。虚空が威嚇するような唸り声をあげてゼンじぃを剥がそうとする。
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紅暁がまっすぐにリトル・ミスの手に飛んできた。リトル・ミスは血糊で滑りそうになりながらも柄を握るが、それから先どうすればよいかわからず、途方に暮れたようにその刀身を見つめている。
流空の右手が、リトル・ミスに向かって伸びてくる。
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『何してんだじいさん! さっさとそいつから離れろ!』
押しのけようとする虚空の爪に切り裂かれ、虚空から引き剥がそうとする広瀬に腕をもがれそうになるほど引かれても、ゼンじぃはやめてくれと懇願するのをやめない。なぜゼンじぃがこうも取りすがるのか、この場にいる誰も理解できていない。
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流空の右手が、刀の切っ先を直に握りしめた。刀を持ち上げるその手は小刻みに震えている。様々な音域のエラー音が流空の体内から鳴り響いている。リトル・ミスは瞳孔を開き、されるがままになりながらも、手だけは柄から離さなかった。
流空は、切っ先を掴んだ拳で、自らの左胸を叩いた。
何度も何度も叩いた。
赤い点滅の狭間に見える瞳の色は、金色だった。
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突然、虚空がある一点を凝視したまま動かなくなる。不意を突かれゼンじぃの力が緩んだ瞬間を広瀬は見逃さず、下腹部に腕を突っ込んで強引に虚空から引っぺがした。どけ放せと罵倒しながら殴りつけてくるゼンじぃを全力でぶん投げる。二転三転してようやく止まったゼンじぃのうめき声を聞きながら、広瀬は虚空の視線につりこまれるようにして水晶を見つめた。
水晶は、怯え、困惑しながらも、虚空を真正面から見つめ返した。その腕の中には、骨のように白く、細く、悲しいほど小さい少年が抱かれている。
ふたりを交互に見比べるように首を上下に振る虚空の動作に、なぜか広瀬は子供っぽさを感じて呆気にとられた。
その、ちょっと馬鹿っぽい広瀬の表情を、最後に虚空は食い入るように見つめた。
虚空が体をのけぞらせる。ぎょっと身を引く一同の前でかっきり四秒、その態勢でいた虚空の瞳が黒に塗りつぶされる。状況判断が追いつかない広瀬たちの前で、虚空はどうと仰向けに倒れ、そのままぴくりとも動かなくなった。
『な、なんだったんだよ一体……』
水晶が弾かれたように体を震わせた。胸に耳を当て、少年の頬を撫で、何かに気づいたらしく手をめちゃめちゃに振って広瀬を呼ぶ。どうした、と聞く前に、少年が伸びをするように身じろいだ。
驚きに安堵や喜びが追いついてくる前に、ある音が全員の心を震わせる。
不思議な音だった。
氷がガラスのコップの中でぶつかる音に酷似していたが、鈴の音にもよく似ていた。
一度きりしかならなかったその音が、なぜか呼んでいるような気がして。広瀬たちは寄せられるようにして、埋め立て地の縁まで歩いた。
見下ろす。
そして、それを見つける。
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「……わたしはリオでも、ましてやタケルでもないよ」
流空の耳元で、リトル・ミスはささやいた。
「それでも、これでよかったの?」
流空の瞳から、光が失せていく。
貫かれた左胸から記憶があふれ、空間を満たしていく。




