夢Ⅳ
遠くの方で、重い響きの鐘が鳴っている・・・・。
胸が痛かった。ずっとずっと堪えても堪えても、堪えれば堪えるほど、胸は痛みつづけた。
黒い服を纏った人が、自分も含めて十数人、大きな穴の周囲に立って、その穴の中を見ている。穴の中には黒色の棺桶が入れられ、皆が花を投げ込めば、重い翳はわずかに白色に染められる。誰かは泣き崩れながら、誰かは茫然としながら、その上に土が被さっていく様を、ただ見守っている。
「エヴァンズ?」
僕はじっと、埋められた穴を見ていた。棺桶が見えなくなり、埋められ終わってそこに一人きりになっても、じっとそこに立ち尽していた。
ボクも一緒に入りたい。
なぜ入れてくれないの?
ずっとずっとそう思って、泣くことすらもできずに、その場から離れられない。母を失って、その悲しみだけで胸がいっぱいだった。三歳の僕は、まだまだ母に甘えたい盛りで、だからこそ失った悲しみが大きすぎて、どうしたらいいのか分からなかった。
冬の冷気は段々と身体を凍えさせる。風が吹き、身体はひどく震えているのに、僕には何も感じることができなかった。
「・・・・?」
ある時ふわり、と暖かい空気を感じた。生きていた母と同じほどのぬくもりが、冷えた身体を温める。
「エヴァンズ・・・・」
置き去りにされた世界の中で、自分の名を呼ぶ人がいる。僕は思わず振り向いて、その人を見入った。見知らぬ老人だった。
老人は黙ってしゃがむと、ひとまず僕を抱きしめた。冬の冷え切った空気に凍えた身が、老人の暖かさに徐々に温まっていく。
「このままでは風邪を引いてしまうよ。さぁ、おいで」
優しく微笑みかける老人に、僕はただ首を振った。
「ボク・・・・かあさまといっしょにいるの・・・・」
「いいや、だめだよ。そんなことをしたら、アルシーナが泣いてしまうよ」
「・・・・・・」
「アルシーナが泣いてしまうよ」という言葉を聞いて、ただ不思議に思うより他なかった。僕はこの時、幼くとも死の意味は分かっていたつもりだったから。
「かあさまはもう、泣かないの。・・・・わらわないの」
「そんなことはないよ、エヴァンズ。お前のことを心配して、ひどく悲しそうな・・・・困った顔をしている」
「うそだよ。かあさま、もういないのに・・・・」
泣き出しそうに胸が苦しくなるのを、必死に堪えながら絞り出した声に、老人は静かに首を振る。
「いいや、そんなことはないよ。確かにアルシーナの身体は死んでしまったけれども、魂までは死んでいない。ほら、お前の側で・・・・お前を優しく抱きしめているよ。分かるかい・・・・?」
老人の言葉に、沈黙するよりなかった。
変なことを言う老人だと思った。死んだ母が側にいて、自分を抱きしめているはずなどない。自分に見えない母を、どこに見ているのだろうか。それでも、幼い僕は母が側にいるような雰囲気を感じて、思わず涙を留めた。それを必死に堪えて、首を振る。
「エヴァンズ、アルシーナを見てごらん。さぁ、目を閉じて・・・・」
「めをとじたら、かあさまといっしょにいける?」
「それはできない。けれど、アルシーナの言葉を聞いて、それから考えるといい。お前がこれからどうしたいか、どうしたらいいか・・・・」
「・・・・・・」
老人の大きめのコートの中に抱きしめられながら、言われるままに目を閉じる。閉じて・・・・母と本当に逢って話しをした気がしたのは、現実だったか夢だったかは憶えていない。ひょっとしたら老人の言葉に、幻覚を見ただけかもしれない。本当のところは、今となってはもう分からなくなってしまった。
老人は、僕の母・アルシーナの祖父にあたり、僕にとっては曾祖父となる人だった。その曾祖父と、僕は共に暮らすこととなった。
老人に屋敷へ連れられ、その広い中を老人と歩んでいくうちに、そこが母の思い出の場所なのだと真に思った。それは、屋敷の所々に母の香りを感じ、母を現した油絵が飾ってあり、母が愛されていたことをとてもよく感じられたからだ。
「エヴァンズ、今日からお前はこの家で住むのだよ」
「うん・・・・」
「何か分からないことや困ったことがあったら、私でもお祖母さんでもいいから言いなさい。いいね?」
「・・・・・・」
曾祖父・ローレンスの言葉に、僕は彼を見上げ、少々困ったような顔をした。言って良いのか悪いのか、幼い自分にはわからなかったのだ。それを察してくれていたようで、僕の頭を撫でて、微笑する。
「何も遠慮することはないよ。何か言いたいことがあるのだろう?」
「・・・・あのね・・あの・・・・」
「うん?」
「・・・・・・」
本当は言いたいのに、上手く言葉が出てこない。それでも何も言わずに、黙って待っていてくれる。
「おじいさまは・・・・ボクのこと・・・・キライなのかな?」
「・・・・どうして?」
「ボク・・・・」
自分でも周囲の状況を把握して言っているわけではない。ただ曾祖父や祖父母が、母の葬儀の前に言い合っているのをたまたま目撃してしまったというだけで、薄々は自分の存在が疎まれているようだと分かっていても、それを説明する言葉までは、この時はまだ持ち合わせていなかった。
「うまれてきちゃいけなかったのかな・・・・?」
「エヴァンズ、そんなことはない!」
僕の言葉にひどく泣き出しそうな表情をして、急に僕を抱きしめる。
後々分かった話ではあるが、曾祖父は母と父の交際をあまりよく思っておらず、それは祖父もそうであった、と。それ故その間に生まれた子供を祖父は認める気にはなれず、それに対してひいお祖父さまはひどく怒っていた。
「例え、二人の仲をよく思っていなくとも、生まれてきた子供には何の罪もないだろう!」
そう怒鳴っている曾祖父を僕は知っている。そしてその後、父と母との仲を認めるべきだったと・・・・認めて共に生活させてやるべきだったと、それが自分の犯した最大の過ちであったと、嘆いていた曾祖父を知ることになる・・・・。
「アルシーナはとてもとてもお前を愛していたし、私だとてそれは同じだ。ロワードが何を言おうと、お前は何も気にしなくていい! お前は、生まれて母に愛されるために生まれてきた。この世界を愛するために、お前は生まれてきた。この世界から・・・・愛されるために・・・・生まれてきたんだ・・・・!」
「・・・・・・」
「エヴァンズ・・そして神も・・・・お前を愛しておいでだよ・・・・」
大きな腕の中に抱きしめられたまま・・・・僕は、一人でも自分のためにそう言ってくれる人がいるのなら、その人のために、今は生きていこうと思った。その内に自分の道が見えてくれば、それはそれでいいだろうと。
「ひいおじいさまは・・・・きらいじゃないの?」
「当たり前だろう? エヴァンズ」
抱きしめられていた身体をゆっくり離される。温かい手が優しく僕の髪を撫で、頬を撫でた後、とても優しい優しい笑顔でひいお祖父さまは言った。
「私はお前が大好きだよ。例えお前が私を嫌いでも・・・・私はずっと、お前を愛し続けるよ。憶えておいで」
「・・・・うん」
「いい子だ」
僕にとってひいお祖父さまは、心の拠り所であったのかもしれない。この後の生活を、ひいお祖父さまとひいお祖母さまとに愛されて育たなければ・・・・きっと今の僕はいなかっただろう。二人に愛されて、必要とされて、自分がこの世界に居てもいいのだと確信できるようになったのは、引き取られてから早い時期だったと思う。だから、僕はそれだけでも幸せだったけど・・・・。
それから数年経ったある日、僕はひいお祖父さまと散歩に出かけていた。
ひいお祖父さまの館は、とても広い丘の上にあった。周辺は野原や樹木以外はほとんど何もなく、遠くを見れば彼方に海を望める、とてもいい場所にあった。まるで神の園にいるような、不思議と暖かい日差しの、始めと終わりを迎える場所。
いつからか野原に出っ張っている大きな石の上に、二人腰を下ろして景色を眺める。暖かい秋の日差しに心が和む。
「エヴァンズ」
「はい」
「お前・・・・自分の父親に逢いたくはないか?」
「父親に・・・・ですか?」
突飛なひいお祖父さまの言葉に少々驚愕を隠せず、反復して問い返せば、彼は小さなため息を吐いた。
「隠していたつもりではないが・・・・お前の父親は・・・・生きているよ」
「・・・・・・」
思わず言葉を失って、そのまま沈黙した。
言われるまで、あまり父親の存在を気にしたことはなかった。無論、幼い頃には何故自分の側にはいないのか、気にはしたが、生きているのか死んでいるのかも分からない存在を気にしても仕方なく、僕の中では『父親』自体、存在するものとは考えなくなっていた。
ひいお祖父さまに『父親は生きている』と聞いて、その言葉を何度か反復するが、何の感情も沸いてこない。
「別に・・・・逢いたく・・・・ありません」
「エヴァンズ。お前の父親が今までお前に会いに来られなかったのは、私やロワードが・・・・アルシーナとの交際を一切認めず、辛く当たっていたからなんだ」
「え・・・・?」
あまり信じられない話であった。
ひいお祖父さまは誰に対しても温和で、優しい老人だった。怒るよりも怒られる方で、それでもどこか憎めない・・・・そんな人なのだ。そういう姿しか見たことのない僕にとっては尚更、ひいお祖父さまの言葉は意外に満ちた言葉であった。
「私やロワードは、お前の父・エドワードがアルシーナを本当に幸せにしてくれるとは思わなかった。アルシーナは身体が弱かったし、エドワードは身寄りがなく貧乏で、その日をぎりぎり生活しているようなアパート暮らしの青年だ。いくらアルシーナを幸せにしてくれると約束されても、私にはどうしても許すことができなかった。アルシーナには、日々の生活においても何不自由なく暮らしてほしいという、私やロワードの想いがあったから、どうしても彼を受け入れることができずに、彼との仲を阻害することしかできなかった。アルシーナもエドワードも、とてもとても苦しんだよ。お互いに、心の支えになれるほどの強い絆をもっていたようだったからね。そんな二人を引き裂いたんだ。あんな男の所では苦労するだけだ、やめておけ・・・・とね。でもアルシーナは、真面目な青年であるし、彼以外の所には嫁ぎたくないという。それなら勝手にしろ、とロワードは怒り、私も・・・・まぁ、似たようなものだったな・・・・。けれど、アルシーナが病気になってからは、病院にエドワードには会わせないようにした。エドワードは何度もアルシーナに会いに来たが、私もロワードも会わせなかった。アルシーナが死んだ後、エドワードは何度もお前にも会いに来た。それでも私は心を鬼にして彼に辛く当たった。彼にはアルシーナが死んだことも言っていない。アルシーナが生きていると思って、今でも懸命になっている」
「ひいお祖父さま」
「今となってみれば、アルシーナがエドワードを求めて死ぬことになるのだったら、せめて最期の時だけでも会わせてやればよかった。無論、私やロワードがしてきたことだ。責められる覚悟もしている。けれど、今更ながら彼にそれを打ち明けるのが怖くて仕方がない。自分がしてきたことの報いかと思えば・・・・それも仕方のないことだがな」
ひいお祖父さまは額に手を当て、深く息を吐く。
いったいどうしてこんなことになってしまったのだろうかと、悩む老人の姿は、僕には胸が苦しくなるほどの圧迫感を覚えさせられた。
少し、ひいお祖父さま達が父であるエドワードに辛く当たっていた理由が、分かったような気がした。それと同時に、母と父の互いに引き寄せられる気持ちも分かったような気がして、僕にはひいお祖父さまに掛ける言葉を失わせた。
みんな、本当はただ幸せになりたかっただけなのに、幸せをより良いものとするために、皆違ったものを求めて、結局壊れてしまった。本当はこんなはずじゃなかったのに・・・・。
「済まない、エヴァンズ。こんな話をして・・・・」
「いえ・・・・」
「お前まで、こんな風にするつもりはなかったんだ」
「?」
「もっと幸せにしたかったのにな・・・・済まない」
「ひいお祖父さま!」
思わず叫ぶ。
「僕は今でも十分幸せです。どうしてそんな風におっしゃるのですか?」
「お前が・・・・不憫に思えて仕方ないのだよ、エヴァンズ」
「不憫?」
この時、何か不安を感じた。
あの時のひいお祖父さまはこんなことを言った? 僕を哀れむような瞳で見て、こんなことを言っただろうか?
不安が心の中を広がっていく。
「僕はひいお祖父さまと一緒にいられて、とても幸せです。そんな風に、憐れむのはやめてください。僕は不幸なんかじゃない!」
「エヴァンズ・・・・」
「でも・・・・一つ聞かせてください」
「何だ?」
「ひいお祖父さまは何故僕を引き取ったのですか? 僕が一人だと可哀想だから・・・・?」
「そうだったかもしれないな・・・・」
貧血を起こしたように、目の前が真っ暗になる。そして、ひどい頭痛を覚え始める。
「あなたは・・・・誰?」
「私は、私だよ。エヴァンズ」
「違う。あなたはひいお祖父さまなんかじゃない。本当のひいお祖父さまはそんなことおっしゃらなかった・・・・!」
「何を言っている?」
震えてくる身体を懸命に押さえながら、亡くなったはずの曾祖父を見る。伸ばされる手を思わず払いのけ、僕は走り出した。曾祖父の姿をした人影を残して・・・・。
僕は屋敷へ向かっていた。何故そこに行こうと思ったのかは分からない・・・・いや、この世界での僕の記憶がその屋敷しか逃げ場所として記録されていなかったからだ。周辺には森があったが、そこへ踏み込めば二度と帰ってこられないと、何かにインプットされている。
見覚えのある屋敷が次第に近づいてくる。正面の大きな扉を開け放てば、大きな音が建物内に響き渡った。
屋敷の中は不思議なほど静まりかえっていた。まるで自分一人がこの世界に残されてしまったような、異様な静寂。
「ひいお祖母さま? ジョッシュ?」
静まりかえる館の中を、自分の足音だけが響いていく。
白く陽に照らし出された壁と、陽の差し込む硝子の反射が綺麗に映っている。こんなにも幻想的なほど美しい光景を・・・・見たことがあっただろうか? 僕の中で奇妙な感覚が広がっていく。
二階へ続く幅広の階段を上りながら、不安を覚え始める。
カツッ‥カツッ・・・・。
ふと二階から犬の足音が聞こえた気がした。
「ジョッシュ?」
二階へ駆け上がって廊下を見渡すが、何の気配もない。
「気のせい?」
幻聴でも聞いたのだろうかと、歩き掛けると、不意に壁際にある台の上の電話がけたたましく鳴り響いた。一寸、ひどく驚いて身体を強ばらせたものの、誰かからの電話かと思い直し、それでも恐る恐る受話器を手にして、耳に当てる。
「もしもし?」
「・・・・・・」
返事はない。
悪戯だろうか? そう思い、受話器をわずかに耳から離した瞬間・・・・。
「お前は‥植物だ・・・・」
「!?」
脳裏に響く低い低い声が、自分の意に反して支配を始める。
目前が急に世界を回り始め、自分の手足が地に根を張る感覚が広がっていく。抗うすべもなく、自分の身体が植物となっていくのを止めることができない。
僕は人間だ!
『お前は植物だ・・・・』
違う、違う!
『手も足もお前の意に反して根を張っていく』
植物じゃない!
『そこで芽をつけ・・・・』
ただの幻覚だ!
『お前は完全な植物となる・・・・』
違う、僕は人間だ!
『そら、もうすぐ葉がでるぞ・・・・』
違う違う違うっ!
「僕は人間だ!!」
ようやく出すことのできた言葉に、世界は元に戻り、下ろされた手の中に握られていた受話器から一言・・・・。
「見事だ」
ガシャン!!
思わず受話器を投げつける。
震える身体を抱きしめ、自分の身体が何でもないことを確認すると、短く息を吐く。
「?」
見回すと、屋敷の中に違和感がある。
ここは本当に自分が過ごしてきた屋敷だったろうか?
「お帰りエヴァンズ」
曾祖母・アンナの声に後ろを振り向くと、いつも通りの優しい笑顔がそこにはあった。
「ただいま・・・・」
「ローレンスは?」
「ひいお祖父さまは・・・・」
ふと困惑した。
そういえば・・・・どうしたのだったか?
「何かあったのかい? 顔色が悪いね・・・・」
「え・・・・?」
頬に差し出される手が、頬に触れる瞬間・・・・。
「!」
今まで何ともなかったはずのその手が赤く濡れていることに気づく。それは・・・・。
「ひいお祖母さま・・・・どこかお怪我を?」
「いいや?」
そう言って微笑みかけるひい祖母さまに、思わず吐き気を覚えるほど気分が悪くなる。
「エヴァンズ?」
階下で曾祖父の声が響く。
「おや、ローレンスが帰ってきたね」
何事もなかったように声のする方を向くひいお祖母さまに、僕はその瞬間逃げだそうと走り掛けた。
「エヴァンズ、どうしたの?」
待ちなさい、と肩を掴まれたその手の力は、とても老人のものとは思えないほどのものだった。
帰りたい・・・・。
心のどこかで呟いた自分の言葉に驚く。いったい自分はどこに帰りたいのか?
「おぉ、エヴァンズ。こんな所にいたのか」
階下から上がってきたひいお祖父さまが近づいてくる。
「おじいさん、この子どうしたんでしょう? 顔色も悪いし」
「どれ・・・・?」
僕がいていいのはここじゃない。
「エヴァンズ?」
ここは僕の世界じゃない。
「どうして泣いているんだ?」
「何か哀しいことでもあったのかい?」
哀しいのは、二人が僕の好きだったひいお祖父さまとひいお祖母さまの姿をして心配するフリをしているから。僕が大切に想っていた二人は・・・・もういないのに・・・・。
「ジョッシュ?」
二人の後ろに、見知った大きな犬がいた。ふさふさの長い毛並みが特徴のゴールデンレトリバー。
「ジョッシュ?」
老夫婦が振り返った途端・・・・。
グルルルルルル・・・・。
低く唸るジョッシュが突然牙を剥く。
「ぎゃあああぁぁぁぁ!」
恐ろしい光景だった。あの温厚なジョッシュが、曾祖父に飛びかかる!
「ジョッシュ、やめて!」
曾祖母の悲鳴が上がる。曾祖父の振り払った手が空を舞い、ジョッシュが床に着地する。
「今だエヴァンズ、逃げるぞ!」
「え?」
大きな犬は僕のズボンの裾を噛み、走ることを促した。何がなんだか分からないまま、僕はジョッシュと共にその屋敷を逃げ出すこととなった。
「エヴァンズ大丈夫か?」
屋敷を出て、最初に曾祖父と話をしていた大きな石の側に来ると、ジョッシュは振り返った。
「・・・・・・」
僕はその不条理な光景を目前に、声を出せないでいる。
愛犬・ジョッシュが人間の言葉を話している。しかも、この声はどう考えても・・・・。
「エヴァンズ?」
「ひい・・・・お祖父さま?」
「そうだ。済まんな。お前を助けるのに時間がかかってしまったようだ」
「助ける・・・・?」
訳が分からず首を傾げる。
「お前は今、とんでもないことに巻き込まれているのだよ。詳しい話は、また戻ってからすることとしよう。それにしても・・・・」
「・・・・・・」
「お前があの電話の声に負けないでくれて良かったよ。もしあの声に負けて、本当に植物にされていたら、誰にもお前を助けることができなかった」
「・・・・・・」
「ん? どうした?」
そう、不条理なのだ。犬が悠長に人間の言葉を話していることも、曾祖父や曾祖母がおかしいことも、この世界が何かまやかしのような・・・・。
「エヴァンズ、早く戻らないと色々とやっかいなことになる。エヴァンズ、聞いているか?」
「は、はい」
「・・・・こんな姿で話ができるのは変だと、私だとて重々承知している。それでも・・・・これしか方法がなかったんだ」
「ひいお祖父さま・・・・本当のひいお祖父さま?」
「お前がこの世界で体験してきたことで、私を疑いたい気持ちはよく分かる。だが、詳しい話は今できない。分かっておくれ、エヴァンズ」
「・・・・・・」
「エヴァンズ・・・・おいで、一緒に帰ろう」
ジョッシュの姿をしたひいお祖父さまの声が、僕の耳に響く。優しい優しい、昔と変わらない曾祖父の声。
「どうすれば、帰ることができるのですか?」
「目を閉じて」
「目を・・・・?」
「それから・・・・そのまま、私の声に導かれておいで」
「どうやって?」
「耳をすませて・・・・ようく聞いて・・・・」
目を閉じた真っ暗な空間に、ひいお祖父さまの声が響いていく。ふわりと浮遊間が漂い、自分の身体がどこかへ流されていくように、ゆらゆらと揺れていく。
『こっちだ、おいで』
「どこ・・・・?」
『大丈夫だよ。ゆっくりでいい。耳をすませて・・・・』
「耳を・・・・」
『そう、耳をすませて・・・・』
優しい響きは暗闇を導き、段々と見えてくる光の世界へ誘っている。
僕は懸命にその光を、ひいお祖父さまの声を目指して、その方向へと漂っていく。
『もうすぐだ・・・・』
手を掴まれる感覚。眩しい世界。
掴まれる手を握り返すと、ぐい、と力強く引きずられる感覚がある。
『離すんじゃないぞ』
自分の身体が大きく震えたような気がした。
「ようし、よく戻ってきた」
間近でひいお祖父さまの声と、暖かく抱きしめられる感覚がある。
目を開いてみる。恐る恐る・・・・その目前にいるのが本当のひいお祖父さまとは、限らないかもしれない。
「エヴァンズ」
不安は一気に安堵感を生み出した。
「ひいお祖父さま・・・・」
「良かった良かった。お前が連れ去られた時はどうなるかと思ったよ・・・・」
「・・・・・・」
話が今一理解できない。
「ひいお祖父さま・・・・ですよね?」
「あぁ、そうだよ。お前には色々辛い思いばかりをさせて、本当に済まなかったな」
「そんな・・・・」
「エヴァンズ」
ぎゅう、と抱きしめられる身体は、本当に暖かい。昔と何一つ変わらない曾祖父の姿に、僕は知らずに・・・・頬に涙を落とした。
「ひいお祖父さま・・・・」
ようやく本当に安心できる。心の奥底から暖かい気持ちが蘇ってくる。
ふと気がつくと、ひいお祖父さまの傍らには、館の案内人である老人が、良かったとばかりに安堵の息をもらしている。慌てて自分の頬を乱暴に袖元で拭うと、ひいお祖父さまから離れた。
「どうしてひいお祖父さまがここに?」
「話すと・・・・長くなるが、アルシーナを捜している」
「母さまを?」
「困ったことにな・・・・アルシーナの魂が行方不明になったままだ。通常・・・・人が死んだ後は、身体と魂が離れ、魂はしばらく形而下を彷徨った後に、決まった場所に流れていく。だが、アルシーナはその決まった場所に行かなかった。だから、アルシーナを捜して・・・・彷徨っているのだよ」
「でも・・・・ここは神に見離された場所だと・・・・」
「そうだな。だが、その決まった場所・・・・『冥府』にいなければ、必然的にここしか考えられない。だから私もここへ来た。ここは館の主人に引きずり込まれることもあるが、自分の意志でくることも可能だ。だが『冥府』に戻ることは、ちょいと困難になることもあるがね・・・・」
困難になることも・・・・と言いつつ、ひいお祖父さまは別に困った様子は全く見せない。戻るアテでもあるのだろうかと、少々不安になる。ひいお祖父さまは昔からとてもおおらかな人ではあったけど、悪く言えば大雑把である。とうに死んでしまったひいお祖父さまの身だとはいえ、理の道を見失ってしまわないかと、不安を抱いてしまう自分がいる。
「さて、これからどうするか。館の主人殿の目を盗んで今まで来られたかとは思うが、主人殿が直接呼んだお前と一緒になったら・・・・私がここに来ていることはもう知られてしまったことになる。ふむ・・・・」
「でも、どうして母さまの魂が冥府に行っていないって・・・・?」
「・・・・お前を引き取ってから私が死ぬまで・・・・アルシーナは常にお前の傍にいた。けれど、私がアルシーナを冥府へ連れて行こうとする前に、行方が知れなくなってね。未だに捜し続けている」
「母さまが・・・・ずっと傍に・・・・?」
「あぁ。最愛の息子を一人にするのが、よほど心配だったのだろうよ。エドワードとの子であるお前に、何を言うか、何をするか・・・・気が気でなかったんだろうかと思うがね・・・・。それほどのことを・・・・私とロワードは、お前の父親にしてきてしまったからな・・・・今更謝りようもないがね・・・・」
「・・・・・・」
想像がつかない。
ひいお祖父さまやお祖父さまが、父であるエドワードに何をしてきたのだろうかと問いたくても、今は父を大切に想ってくれているひいお祖父さまに聞くのは・・・・とても胸が痛む。でもそれは・・・・逃げなのだろうか?
「エヴァンズ・・・・。取りあえずこの先々を案内して頂こう。何か見えてくるかも知れない」
「はい」
「災難も降りかかるがな・・・・。行けるか?」
「大丈夫です」
「よし」
ぽん、と頭の上に置かれる手の感触に、思わず涙が滲む。それを必死に堪えて、館の老人に案内を請う。
見知らぬ暗い部屋をあとに入り口をでると、先ほど青い月を見た廊下に出た。硝子越しに空を見上げるが、今はその青い姿はどこにもなく、月明かりほどの暗い廊下が続いている。どこにも光の元はないにも関わらず・・・・。
しばらく廊下を進んでいくと、今までの部屋の扉とは不釣り合いなほどの、大きな鉄製の扉が目前に見えてきた。そこだけ異空間でつながれたような扉。まるで教会の入口のように、一見神聖そうに見えて、他方、占領と奪回を繰り返し血に濡れた、中世イェルサレムの城のように、毒々しい過去の因縁を湛えているかのようにも見える。
軋んだ音を立てて開いていく扉の内側は、漆黒の空間の中に、左右等間隔におかれた燭台が、彼方永遠にまで導いているように見えた。
いやな・・・・場所だった。
「エヴァンズ?」
蝋燭の光は嫌いだ。まるで母の死んだ日を思い出させるかのようで・・・・。
震える肩を抱きしめて、歩を進めようとするけれど、身体がそれを拒んでいる。その後ろから、ひいお祖父さまの身体が僕を抱きしめる。
「誰にだって、恐いものや忘れたいものはある。だが、ゆっくりでもいい。落ち着いて、少しずつ・・・・少しずつ進んでごらん。進んでいこうと思う力があれば、人はもっと強くなれるよ、エヴァンズ」
「・・・・・・」
優しく微笑むひいお祖父さまの顔に、ただ静かに首肯く。
「お進みくださいませ」
どうぞ、と館の案内人に手で示されるままに、歩を進めていく。
燭台の周辺以外は真の暗闇だった。この異空間の中では、この蝋燭の道のみしか存在しない。どこまでも果てしなく続いている・・・・そう思える蝋燭の道だ。
「!」
不意に目前に扉が存在した。今まで永遠に蝋燭の道が続いているかのように思っていた矢先、瞬間に現れた扉は、木製で上部がアーチ型となっており、次に気がつけば、それは自分たちの四方を囲んでいた。
「ここは、鏡の間でございます」
「鏡の間?」
「これらの扉は、どれもが真実であり、偽りでございます。どれかが真実であり、また偽りであり・・・・それをお決めになるのは、進む方の意志でございます」
「・・・・・・」
四方の扉を一回り見、鏡の間である意味を、もう一度考えてみる。
この扉は、真実であり偽りである。鏡であり、偽りでもある。その定義は自分の中にしかない。どれを真実とも偽りとも、例えどれを選んでも、向かうのは一つだ。
「僕の中での真実は一つです。鏡であるなら、どれもが偽りでありながら、真実の姿を現します。僕が進むのは光の世界・・・・自分の生きる世界です。だから・・・・」
最初に現れた扉を指し示し、その先を進むことを決意する。
「お心変わりはございませんね?」
「はい」
「それでは・・・・」
老人の手が扉を開いていく。
「ご案内いたしましょう・・・・冬の世界を」
老人の声を聞いた瞬間、凍えた空気が肌を刺し、自分の身体が一つの氷の固まりになった気にさえなった。
そこは吹雪に閉ざされた白銀の世界であった。
切り裂かれそうな凍えた痛みに、思わず自分の身体を抱きしめると、ひいお祖父さまが僕の肩に手を掛け、こう言った。
「お前が思っている感覚は形而下のものだ。目を閉じて・・・・この雪を別のものだと思ってごらん?」
「別のもの?」
この極寒状況の中で、いったいどうやって思えばいいのか分からない。何か別のもの・・・・と考えて、ふと案内人である老人に、最初に言われたことを思い出してみると・・・・。
「ここは生きている世界じゃない。全て、自分の記憶してきたものが見せる幻覚で、感覚で、想いなんだ」
そう言葉にすれば、実に滑稽な世界へと変化した。
吹雪は止み、寒さを感じなければ、雪などただの綿飴の敷き詰められた世界だ。雪の結晶を見ても、それは綿飴になる前のザラメの結晶にすぎなかった。
自分でも思わぬ景色だった。
「・・・・・・」
自分でも呆気にとられるほど、奇妙な世界だ。
そして同時に、この館の世界観がどうなっているか、分かってきた気がした。
ここは過去・・・・即ち自分の生きてきた世界と同じ目線で物事を見てはならず、同じ価値のものだと思ってはならず、自分が目にしているものは全て、自分の基準で決まるのだということ。ただし、それだけの単純な世界だとは思わなかったけれども・・・・。
「大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
「それでは、先に進もう」
薄暗い雪景色・・・・昔まだ自分が幼い頃、母と一緒に町へ出かけて、手袋とマフラーを編むための毛糸を買いに行ったことを思い出す。
『エヴァンズは、何色が好きかしら?』
優しい微笑みを浮かべながら、ストレートの麗しい白金髪の女性が毛糸を手にしている。その横でまだ幼い僕が、毛糸の中からコレ、と指差すと、母親は笑顔を絶やさぬままそれを手にした。
『レモン色。これがいいの?』
『かあしゃまのいろね、とってもしゅきなの』
『わたしの?』
それは最愛の母の、麗しい白金髪のことだった。母は僕を抱きしめて、額にキスをする。
『わたしもエヴァンズのこと、とってもとっても大好きよ』
『ほんと? エルもね、かあしゃまだいしゅきよ』
そういって抱きしめ返した・・・・あの温かかった母の存在は、今はどこに・・・・?
『エヴァンズ』
優しい春の香を漂う母は、身体を失っても側にいてくれた。その事実が、真実であったかどうかは自分には分からないけれども、少なくとも、自分もいつも母の存在を側にいるように感じてきた。それが事実であれ幻であれ、母子はそれほどお互いを家族として愛し合ってきたのだ。
『エヴァンズ』
声・・・・聲・・・・?
「母さま?」
「エヴァンズ?」
偽りの雪原の中に、幼い頃のままの愛しい母親の姿を見つけた。昔と変わらぬ婉然とした微笑み。
ほんとうに?
一瞬の疑惑と真実の想い。
その両者がぶつかったとき、僕は目を醒ました・・・・。




