プロローグ
異世界の空気は、生臭かった。
平凡な中学生だった僕、上野幌 泰介はある日突然、雷に打たれた。
なぜかはっきりと覚えている。目が灼けるような光の中で、僕の全身は真っ赤に泡立ち弾け飛び、分解されたはずだった。
「臭っ!?」
鼻から頭を突き抜けるような強烈な生臭さ。濃密な草木と獣――圧倒的な生命の臭い。
失ったはずの体が跳ね起きた。
「え? 何!?」
そこはきめの粗い石造りの建物だった。
学生服を着てバス停に向かってたはずの僕は、なぜか薄汚れた粗末な布を巻き付けられ、硬いベッドの上にいた。
「〇×☆?」
そして、僕の傍らには若い女の人が座っていた。
「〇×、※△☆!」
日本語じゃない。英語や中国語でもない。およそ聞いたことのない言葉。
でも、何かをまくしたてる彼女の口元には喜びが浮かんでいて、不思議と心が落ち着いた。
これが小麦色と言うのだろうか、艶やかに日焼けした肌は活力がみなぎっているようだった。
綺麗に結われた髪は肌よりもやや色の淡い茶色で、とても日本人とは思えなかった。いや、それどころか――
ふさふさとした毛に覆われた長い耳と、ひくひくと動く細長い鼻孔をした三角形の鼻。そして金色に光る瞳。
(獣人?)
それはまるで、ファンタジーの世界で描かれる、獣と人が合わさったような姿だった。一見細身に見えるが、袖の無い貫頭衣(両横は紐で結ばれているだけで、少し目のやり場に困る)から見える肉体には無駄な肉が一切なく、しなやかに切れ上がった筋肉に覆われているのがわかる。
「ゼスタシア」
いくつかの言葉を発した後、彼女は自分の胸に手を当てて「ゼスタシア」と何度も繰り返すようになった。
僕はようやく、それが自己紹介であると気付いた。
「……ゼスタシア」
彼女を指さしてそう繰り返すと、満面の笑みが返ってきた。
だから僕も、自分の胸に手を当てて、名前を告げた。
「タイスケ」
ここはどこなのか。僕はどうしてここにいるのか。
目覚めてすぐの僕は、そんな疑問を確かに抱いていた。
でも、ゼスタシアとは言葉が通じない以上、すぐに答えを得ることはできなかった。
そして、すぐにそれどころではなくなった。
ここはどう見ても令和の日本ではなかった。それどころか、現代の先進国とは思えなかった。
昼間は蒸し暑く、夜は蒸し寒い。空調なんてものはなく、冷蔵庫も照明すらも存在しなかった。
飲み水は生ぬるく濁っていた。
僕はすぐに意識が混濁するほどの高熱を出した。断続的に押し寄せる強烈な腹痛に眠ることもできず、地獄のような数日を過ごした。
やがて体調が落ち着き、生死の境から逃れた僕が次に直面したのは命をつなぐための苦労だった。
生活のための何もかもが不便で不快だった。
水かスープに浸さなければ歯が立たないほど硬いパン、噛んでも噛んでも口に繊維が残るしなびた野菜、いくら煮込んでもやわらかくならないスジだらけの肉。どれもこれも生臭く、泥そのものの味の中に感じるかすかな塩気。
まさに生きるためだけの食事のために、僕は絶え間ないえずきと戦いながら顎を酷使しなければならなかった。
服や寝床でさえも、僕にとっては拷問器具のようだった。
目の粗い布はずしりと重くて、ちくちくした。肌とこすれた時などはやすりでも当てられたかと思うほど痛かった。
ようやくベッドから出て歩けるようになれば、でこぼこの床と硬い革のサンダルが僕の足を苦しめた。
僕がかつて暮らしていた場所が、どれだけ先人たちの技術の上に成り立っていたか、身をもって思い知った。
――そんな僕を支えてくれたのがゼスタシアだった。
彼女は大きな赤子も同然な僕の世話を、明るくこなしてくれた。特に、飲み水になかなか馴染めず腹を下してしまった僕の後始末を嫌な顔一つせずにしてくれるのには、ありがたくもあり申し訳ない思いでいっぱいでもあった。
だから僕は、ここの言葉を学んだ。僕自身が生きて行くためであることはもちろんだが、とにかく一刻も早く、ゼスタシアに感謝を伝えたかった。
当然、ここには辞書も教科書もない。そもそも、この世界に来て書物の類を見たことがない。
だから、とにかくゼスタシアと話をした。彼女の言葉を頭に刻むように覚え、繰り返した。
何とか外に出られるようになると、僕は体力が続く限り周囲を歩き回った。
僕がお世話になっていたのは、山の上に建てられた巨大な四角い建物だった。例えるなら、歴史の教科書で見た古代ギリシャのパルテノン神殿に似ているだろうか(後に、そこが実際に神殿だったことがわかったため、今後は神殿と呼ぶことにする)。
もっとも、その石の壁や柱は鮮やかな赤や金、緑色で彩られ、目がちかちかするほど派手だった。
神殿のある山はふもとが森で覆われており、その向こうに町並が見えた。
町と神殿の間には人の往来もあり、自分でも信じられないのだが、僕は出会う人に片っ端から声をかけた。
これも一種の死にものぐるいというやつだったのかもしれない。
町からやってきた人々は、まるでゲームの世界の住人のように多種多様だった。
手足がすらりと長くて、細長く尖った耳を持つエルフのような人。
背は低いけど、樽のような肩と胸板をしたドワーフのような人。
犬や羊のような動物と人間が合わさった獣人のような人。
手足に水かきがあり、顎の下に鰓のような器官を持つ魚人のような人。
身長50センチくらいで、背中に虫の翅、お尻に昆虫の腹のような尻尾を持つ妖精のような人。
そして、僕とあまり変わりのない人。
誰も彼もが格闘家やスポーツ選手のような引き締まった身体をしていて、(ゼスタシアも例外ではなく)つんと鼻を刺す汗と獣の臭いがした。
僕を見た人々の反応は様々だった。興味津々で話に応じてくれる人。困った顔をして逃げてしまう人。なぜか大笑いしながら僕の体を抱き上げたり肩や背中をバンバン叩く人(ものすごく痛かった)。
だけど、ありがたいことに、僕に敵意を向ける人は一人もいなかった。その理由は、ほどなくしてゼスタシアに教えてもらうことになる。
「タイスケに見せたいものがあります」
何とかこの世界の会話に不自由しなくなったころ、ゼスタシアは僕を連れて外に出た。
雲一つない晴天だった。
「タイスケはここで、雷と共に現れました」
神殿の前は開けた広場になっていて、中央には神殿同様、派手に彩られた祭壇があった。
祭壇に雷が落ちた夜。駆けつけた神官たちが焼け焦げた祭壇の上で倒れている僕を見つけたのだという。
「雷によって運ばれる異邦の人は、タイスケが初めてではありません。私のおばあちゃんの代にも雷の人が来ました」
ゼスタシアの家系は代々、この稀に落雷と共に現れる異邦人を守護する役目を担っているのだった。
「前の人は、残念ながらこの地に馴染むことができませんでした。ある日、もう一度雷に打たれれば故郷に帰れるはずだと言って、嵐の日に竿をもって外に飛び出して、そのまま……」
言いながら、彼女は僕に薄い紙を差し出した。
正直、この地に紙があることを僕は初めて知った。
「この紙を通して空を見てください」
ゼスタシアの瞳に、彼女と出会って初めて見る、不安の色があった。
言われるがままに空を見上げる。
薄紙を通したところで、見えるのは鮮やかな青一色。数秒して、僕はようやく彼女の言いたいことを察した。
太陽を見るのだ。
じりじりと肌を灼く、酷暑の日を思わせる強烈な熱源を。
「……え?」
だが、そこに太陽は無かった。
少なくとも、僕の知る光に包まれた丸い恒星は、そこには無かった。
そこにあったのは――いや、そこに居たのは――
「竜……?」
翼を広げた光の竜。そうとしか言いようのない、金色のシルエットがそこにあった。
「どうして……今まで気付かなかったんだ……?」
我ながら愚かな問いだった。
それどころではなかったからだ。その日その日を生きることで精いっぱいだった僕に、あって当たり前の存在に疑問を持つ余裕なんてなかった、それだけのことだ。
「ハッ……カッ、ハ――ッ!」
心臓が凄まじい勢いで脈を打ち、息が荒れる。
太陽が丸くない。それだけのことだ。この地は温かい光に照らされ、草木が茂り、人も動物も生きていられる。
結果は同じだ。
僕らちっぽけな存在にとって、太陽の形なんて、命さえ無事ならどうだって――
「ハァ、ハァ、ハァッ!」
膝が崩れた。
熱い砂利の上に四つん這いになる。
「どうして、今まで……」
ここは、地球じゃない。
その現実が今、津波のように僕の心を押し流そうとしていた。
「ハー!、ハー!、ハーッ!」
息を吸う。
この世界で初めて感じた、生臭い空気で肺腑を満たす。
僕は、そうしなければならなかった。
でなければ、僕の心が圧殺されてしまいそうだった。
母さんと出かけた時の、ほのかなお化粧の匂い。
父さんの運転する車に満ちる、芳香剤の匂い。
姉さん専用の、バニラのようなヘアオイルの匂い。
今の今まで忘れていた、忘れてはいけなかったはずの、思い出の匂い。
息を吸えと本能が命じる。
過去を忘れろ。さもなくば思い出に、望郷の念に心を殺される。
だが、理性はそれを拒む。
忘れてはいけない。大切な家族を忘れるなんてできない。
「どうして……僕が、こんな……」
突然、猛烈な憎しみが沸き上がり、僕ははるか虚空に居るであろう光の竜を見上げた。
「ダメ!」
ゼスタシアの体が僕の視界を遮った。
そのまま、彼女は僕の頭を抱きしめた。
「アレを直接見ては駄目。アレは光竜フランベネクス。私たちに光の恵みを与えてくれる主神にして、平等に死をもたらす死神……」
「神が……実在する……世界……」
「タイスケ、心を落ち着かせて。あなたをこの地に招いた光竜の真意は、私たちにもわからない。でも……確かなことがひとつある」
「……?」
「タイスケ、あなたは生きるためにここに来た。それだけは、決して忘れないで」
あの時のゼスタシアの言葉は、異邦人である僕の指針となっている。
それから、僕は彼女からこの世界のことを詳しく教わった。
この世界には光竜フランベネクスを含め四柱の神竜が信仰されていること。
天に在り、光と熱をもって恵みと死をもたらす光竜フランベネクス。
闇に在り、実体を持たぬ事象を司る闇竜ベルゼルディシュ。
大地に在り、天変地異を司る祟り神である星竜リリ・リーユ。
海に在り、命の営みを司る命竜アトラタナ。
この世界には魔力という概念があり、物に直接触れることなく様々な現象を起こす魔法があること。
魔法にはそれぞれ、火、水、風、雷の系統があること。
動植物も肉体に魔力を宿しており、それが暴走すると魔物と呼ばれる危険な存在と化すこと。
この世界には様々な種族がいること。
地上の大半を占め、高い学習能力と繁殖能力を持つ、おそらく僕と同じ人種である平地人。
森を主な住処とし、高い魔力と美しい外見を持つ長命な種族、森人。
岩場を主な住処とし、小さくも頑強な体と高い技術力を持つ種族、岩人。
様々な動物の特徴を持ち、高い身体能力を持つが短命でもある種族、獣人。
住処を選ばず、巨体にまかせた略奪を生活の基盤とする種族、鬼人。
他にも、特定の生活環境に特化した少数種族が存在すること。
火山の火口付近に住む火竜族。
水辺に住み水中でも呼吸ができる水妖族。
樹齢数千年の霊木の付近に住む、妖精に似た姿の風精族。
海の向こうの山脈に住むと言われる幻の種族、聖鳳族。
そして……。
この世界には魔物を手懐け、他種族の領土を奪おうと画策する存在、魔王がいること。
この地の人々は、僕が魔王に立ち向かう存在、勇者ではないかと噂していること。
僕をこの世界に呼んだ実在神、光竜フランベネクスの意思はわからない。
ゼスタシアいわく、フランベネクスの関心は星態系の管理であり、地上の人々などに興味はないとのこと。
「もしかしたら、タイスケたちがここに来たのは、ただの事故なのかもしれません」
彼女との生活にも慣れ、お互い軽口を言い合えるようになると、そんな身も蓋もないことをぶっちゃけられることもあった。世間の噂なんて気にするな、と。
でも、僕の心の中にはある確信があった。
僕はいずれ、魔王と対峙することになると。




