第十一章 祝福 chapter04
検察官・竜崎薫子による毅然とした論告求刑。その張り詰めた声が法廷の空気に溶けていくと、葉桜はゆっくりと弁護人席から立ち上がった。
「最終弁論を行います」
裁判長に向かって深く一礼した。
「検察官は、本件についてMTS法違反という重々しい罪名のもと、被告人の行為が我が国の経済安全保障を脅かしたと断じました。しかし、ここに座る被告人とその父は、この国の安全を脅かすために何かをしたのでしょうか」
葉桜は、傍聴席にいる木賊治に軽く視線を送り、そして被告人席、裁判官席、傍聴席へとゆっくり視線を移していった。硬い靴音が、聞く者に緊張感と心地よさ、相反する二つの感覚を呼び覚ます。
「彼らは、日々の暮らしを支え、技術を磨き、従業員や地域社会を守るために汗を流してきた、ごく普通の中小企業の経営者です。極めて優れた、真面目な技術者です。その彼らが、公安当局の作り上げたシナリオの中に強引に組み込まれ、今ここ、被告人席に座らされているのです」
「『戦争』『売国』といった刺激的な言葉でこの裁判を彩ろうとする世間や検察官の主張は、一部の者の欲を大義名分化したスローガンに過ぎません。刑事裁判とは、スローガンで人を裁く場ではない。裁くべきは冷静かつ客観的な証拠であり、聞くべきはそこから導かれる合理的な結論です」
葉桜の歩みは中央で止まる。証言台に軽く手をつき、法廷の空気に語りかけるように言葉を続けた。
「公安が行った実証実験のプロトコルは、一切開示されていません。突き詰めれば、民事裁判で明らかになったとおり『機器の改造を前提とする』という一文が削除されていました。ただ、罪に落とそうとする一心で。裁判所に提示されたものは『真実の断片』ではなく『都合の良い断片』だったのです。そう、この起訴は間違っていました。木賊の技術者2人は裁かれるべきではなかったのです」
「本件で最も重要な証拠とされたのは、被告人の供述調書でした。しかしこれは、長期勾留のもとで、外部との連絡を断たれ、弁護人の立ち会いもない状況で作られたものです。手錠で繋がれ、拘置所と留置場を行き来し、太陽も月も見えない石の壁の中で取られたものです。精神的に追い詰められた中での供述は、任意性に重大な疑義がある——弁護人として私は断固そう申し上げます」
彼女の声は願いとなる。それは時を越え、先人たち、未来の法曹へ。
「安全保障を盾にすれば、国家の利益を盾にすれば、どんな不都合も覆い隠せる——。もしそれが許されるなら、法治国家は容易に独善へと転落します。私たちが暮らすこの日本を、そんな国にしてはならないのです」
「この国は、戦後の歩みの中で、拷問や長期勾留による自白強要を、幾度となく恥として記録してきました。そしてその度に、司法の先人たちが闘ってまいりました。今もどこかで闘いは続いていることでしょう。それでもなお、法の理想をよそに、ごく一部ではありましょうが警察の留置場は代用監獄の性質を残し、古き〝糾問主義的運用〟は息づいています。今、私たちはそれを目の当たりにしている」
「人質司法——。果たして誰が呼んだのでしょう。この不名誉な名を冠した慣行が、現代も生きながらえているのです、国際社会から批判され続けているにもかかわらず——。今、この連鎖に向き合い、断ち切るべき時が来たのです」
葉桜は傍聴席の司法記者たちに視線を移し、その向こうにいるはずの聴衆へと語りかけた。
「人質司法は、日本の司法制度が産み落とした闇なのでしょうか」
「私たちは、無邪気です。善でありたいものです。それゆえ人を疑い、非難の声を上げ、断罪に喜ぶ……無邪気がゆえに。その無邪気さから生まれた感情は個人の手を離れ、空気のように広がっていきます。しかしその空気はすぐに澱み、人と人の隙間に澱となって沈み込む。そうして積もった澱が、やがて闇へと変わっていくのです」
「検察官は冒頭陳述で『わが国の平和』と言いました。そして民事裁判で、こうも言いました。『国家国民という言葉は抽象的に取られますが、それはたとえば葉桜先生ご自身や、隣の哲也先生かもしれない。もしくは傍聴席にいるいつも賑やかなお嬢さんたちかもしれない。普通に生きる普通の人の、普通の生活を指すのです』と。私もその思いをお借りしましょう」
「重ねて問います。果たして人質司法を生んでいるのは誰か。警察か? 検察官か? 裁判所か? 実は、そのどれもが闇の淵源ではありません。では、人質司法の淵源とは……。それは、被告人と私たち弁護人をも含む、この社会を生きる〝普通〟の人と人、その〝隙間〟に降り積もった〝善意だったもの〟の澱。その奥底で生まれた闇にこそ、人質は飲み込まれていくのです」
「そう。あなたが、私が、被告人を『悪人らしい』と思ったその瞬間から、人質司法は始まっているのです。今はただ、降り積もる澱は、是非もなく。けれど次に吹く風は、いつかその表面を撫で、新しい時代の波紋を描くことでしう」
葉桜は深く一礼した。それはこの石の城で、法の女神・テミスに捧げられた女王の祈り、司法への祝福だった。
法廷に静寂が訪れた。




