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第十章 女王陛下の攻城戦 chapter08

法廷の空気は重く張り詰めていた。葉桜と薫子の激しい論戦は、薫子の完璧な防御によって膠着状態に陥っている。葉桜は何度か質問を変えてみたが、薫子は常に冷静かつ揺るぎない態度で「守秘義務」と「正義」を盾に、葉桜の攻撃をかわし続けた。

葉桜は、額にうっすらと汗を浮かべている。沙耶香からの告発状の内容と、薫子の証言。その間にある見えない壁をどう打ち破るか。

哲也は手元の資料をもう一度見つめ直す。何かないか。針の穴程度でいい、何かないか。守秘義務。証拠申請見送り。耳に残る「青い封筒は、この法廷のどこにありますか」という薫子の自信に満ちた声。

法廷のどこにもない。法廷の……どこにも……。どこにも?

観客席の彩花とひかるも、不安げな表情で原告代理人石を見つめている。

「葉桜弁護士、こちらへ」

哲也が資料を指差し、一言二言、葉桜に耳打ちした。葉桜がいつものように、哲也の肩を叩いた。ばん。いつものように音が響く。


葉桜はもう一度、薫子に向き直った。

「……竜崎薫子検事」

薫子は「踏み込まれた」と直感する。

「あなたは、いえ検察は『守秘義務』を理由に、青い封筒の内容の開示を拒んでいる」

「ええ。私人としてここに立ち、公人として司法に従って」

「なかなか強固な盾でした。あなたの『守秘義務』は」

薫子はこの日、初めて先回りをしそこねた。

「しかし、その『守秘義務』が、あなた自身の言葉によって、否定されるとしたら?」

無言で葉桜の剣撃に備える。

「あなたは刑事裁判でこう言った。『そもそも私はその青い封筒とやらを証拠扱いしていない。さあ、この法廷のどこにありますか?』。覚えていますか? 覚えていなくても結構。うちの哲先生がメモを残しています」

「覚えています」

「証拠申請も補充捜査もしていないのであれば、それはもはや捜査に関わる情報ではない。法廷で採用されていない、単なる文書です。簡単に言いましょうか。裁判に関係のない青い封筒は、開示可能な情報なのです」

葉桜の主張が、法廷の空気を一変させた。

「あなたの言葉はとても強かった。けれど私の心を打たない。被告人の心も打たない。どこかの本、誰かの論文に書かれてきたものだから。竜崎検事、私が聞きたいのは、あなたの言葉です」

咄嗟に哲也の見つけた小さな隙に撃ち込まれた葉桜の剣。薫子の守秘義務という盾が打ち破られる。しかし薫子は法壇に向けて小さく首をかしげるだけだった。

裁判長は一瞬言葉を失い、陪席と短く協議を重ねた後、静かに口を開いた。

「……弁護人の主張は、法的に理にかなっています。証人、可能な範囲での証言を求めます」

薫子は、静かに息を吐き出す。誰もが息を飲み、主演女優の台詞を待った。

「……青い封筒には、木賊氏の技術がMTS法に違反する危険な技術で、輸出規制に抵触する可能性があると記されていました。木賊氏の管理体制の甘さの指摘、他の先進企業に吸収合併させ管理すべきという内容も。それは、木賊氏の技術を貶め、利益を享受しようとする意図が見え隠れするものでした」

「つまり?」

「九印側にもたらされた告発状と、極めて高い一致を見せています。また、公安七課の供述および東京地検公安部での検面調書には、強引な聴取の痕跡が複数見られました」

その言葉に、傍聴席からこの日一番のどよめきが起こる。裁判官が静粛を求める。

薫子の告白は、検察と公安の不備を認めるものだった。

「当職に届いた告発状は極めて正確だった。そして、この不当な取り調べや自白の強要があったと容易に推察される。木賊の調書の任意性は崩れたと捉えてよろしいですか」

葉桜の言葉が静かに響き渡る。

「……いいでしょう」

傍聴席の一部が無言ながら沸いている。葉桜は3人の観客を目の端に収めつつ、証人へと問いかけた。

「なぜ、この事件が起こったと考えますか? 守秘義務の範囲で結構です」

「欲です」

あまりにも簡単な答えに、司法記者たちの手が止まる。この日の主演女優は観客の耳目を集めることに長けていた。

「一部の者の欲です。組織の存続と出世、権力中枢へのおもねり。時流のスポットライトに当たる承認欲求。彼らは自らの存在意義を示すことに躍起になっていました。そのため国家の安全を脅かす新たな脅威を必要としていた。木賊工業の技術は、彼らにとって格好の材料だったのです。加えて経済安全保障が重視される時代。〝上〟の方からの象徴的摘発も求められ、その声に応えようとしたのです」

「誰が?」

「言えません。守秘義務です」

薫子はにっこりと笑う。

「当職に届いた告発状にもあった〝不当な取り調べや自白の強要〟にあなたも言及されました。竜崎薫子検事、あなたの言葉の根拠は?」

「それも言えません。守秘義務です。しかしあなたには戦利品が必要ね。……では、公安七課の内部ファイルを探すといいわ。木賊事件ファイルに眠っているであろう〝省内報告メモ〟を」

「省内報告メモ?」

「彼ら公安は議事録などは残さない。けれど〝メモ〟は残す。上からの指示がどう下りたのか、捜査方針はどう決まったか、誰が青い封筒を動かしたのか……断片的でも、その記録があるはずです。これらは公式、準公式なものとして事件ごとにファイリングされている。それが彼らのやり方よ。面白いわよね、議事録は残さないくせに」

薫子は葉桜を手招きし、耳打ちした。

「その省内報告メモの作り手が、必ず個人メモを持っている。内部からの告発だと考えているのなら——」

葉桜はまだ知らないが、そのメモの作り手こそ、三原沙耶香だった。最後の最後で、九印サイドに幸運が舞い降りていた。ここで薫子は声のボリュームを戻す。

「——急ぎなさい。いずれ整理の名目、あるいは紛失という形で、永遠に闇に葬られるでしょう。私に言えるのは、ここまででーす」

そう言い切ると、薫子は笑顔で法壇を見上げた。

「裁判長、こんなところです」

「被告代理人、反対尋問は」

「あ……ありません」

刑事事件の公判担当検事が認めてしまった以上、アイビー側に反論材料はなかった。

「証人尋問を終了します。証人は退廷して結構です」

薫子はこの日も身を浮かせるようにくるりと反転し、廷内を後にする。仕切り柵を越えたところで彼女は〝賑やかなお嬢さん〟を一瞬見た。が、立ち止まることなくそのまま弾むような足取りで出ていってしまった。観客たちは煙に巻かれた気分で、呆然と主演女優の退場を見送るしかなかった。付き従うように出ていく痩身の男。当然、マネージャーなどではない。竜崎薫子検事付きの検察事務官・石田だった。


「すなわち木賊を有罪にする法的な根拠は崩れました。言うまでもなく、この民事の要点、名誉毀損も明白です」

葉桜は、民事訴訟における名誉毀損の確定を告げると同時に、刑事裁判の行方をも同時にひっくり返した。カーテンコールはない。おそらくこの結果は、刑事事件の判決にも少なからぬ影響を与えるだろう。


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