第十章 女王陛下の攻城戦 chapter06
迎えた口頭弁論期日。裁判官が入廷する直前。傍聴席2列目の隅には彩花とひかる、そして四之宮が座っている。最前列では身を隠せないという不安があるため、彩花とひかるにとっては、ここが定位置なのだ。四之宮が腕の時計を見た。間もなく開廷だ。
「今日が三度目だっけ? この名誉毀損についてはそろそろ決着がつくのかな」
とはいえ、九印側が賭けに負けたことを知る彩花とひかるの気分は重い。この名誉毀損がどう判定されるかよりも大切な狙いが、この裁判にはあったからだ。
しかしこうして木賊の名誉を守るための声を上げたことは、間違いではない。この闘いの記録も、きっとどこかに残るのだから。たとえ小さな記録であろうとも。ひかるもそれを知っている。
「とにかく、九印の先生たちに頑張ってもらおう」
裁判所の厳粛な空気にアクセントを加えたのは、裁判官の入廷ではなく、彩花たちの後ろからやって来た傍聴人だった。小柄な女性が軽い足取りで進んでいく。
あれは?
うそだろ?
そうこなくちゃ。
瞬間、三つの思いが交錯する。
小柄な女性は最前列中央に腰をおろした。膝を揃えた美しい姿勢。
その出立は、黒のスーツ——法服を模したと思わせつつもモダンに仕立てた彼女の戦闘服。傍聴席に現れたのだ、竜崎薫子が。
まばらな傍聴席に走る小さなどよめき。しかしそれは裁判官たちの入場にかき消された。
「いけない、落ち着かないと。今の相手は、竜崎検事じゃない」
哲也は手元の資料の黙読を始めた。本日の裁判の開始を告げる「事件の呼上げ」が行われるころには、彼の気持ちは落ち着いていた。
哲也の口頭弁論が始まった。
「被告アイビーは、原告木賊工業の社会的評価を低下させる虚偽の情報を拡散し、木賊側は名誉を著しく毀損されました。原告は、この起訴が不合理なものであることを指摘します」
哲也は証拠のパネルを提示しながら、淡々と論を進める。その横で、葉桜は準備書面を黙読していた。
「……また、この刑事事件において、検察が依拠した匿名の情報源、いわゆる〝青い封筒〟の存在は、刑事裁判における有罪方向への偏った判断を誘導する危険性があり、検察の正義の揺らぎを証明するものです」
予定通り、哲也は青い封筒の存在を裁判所に突きつけた。その声に、葉桜は静かに頷いた。刑事裁判とは違い、粛々と進むのが民事裁判である。
瞬間、葉桜が哲也の腕を引っ掴んで着席させた。刑事裁判の初公判とは逆の構図である。
「——裁判長。たった今その所在が分かりましたので、原告代理人は竜崎薫子氏を証人として申請します」
もう何度目か分からないざわめき。面食らったのは裁判官も同じだった。
誰もが言葉を発せない中、傍聴席に座っていた竜崎薫子がゆっくりと立ち上がる。
「ご指名とあらば、承知いたしました。原告代理人が喧嘩をお売りのようですので」
波乱を予見していたかのように、単独ではなく3人の裁判官で組まれている合議体。裁判長は左右の陪席と短い相談を済ませ、葉桜に問いかける。
「先日、当部に東京地検から『不同意』の回答が届いています。原告代理人もご存じですね」
「確かに『不同意』の回答は承知しております。しかしそれは東京地方検察庁という組織の判断にすぎません。本人が今ここにおり、証言の意思を示している以上、この裁判所が公益性を考慮して判断すべき事案です」
裁判長は再び左右の陪席と相談を始めた。その時間は1分。傍聴席の彩花とひかるの呼吸は止まっている。葉桜は念じた——来い。
「極めて異例の事態です。検察庁から不同意の回答があった以上、証人尋問は許されません」
——来い。
「しかし本人が出廷し、自らの意思で証言を希望している。かつその内容が本件名誉毀損訴訟に直結し、益性が極めて高いと認められる以上——」
——来た。
「例外的に竜崎薫子検事の証人尋問を許可します。なお、この措置が極めて異例であることを記録に留めるものとします」
——異例だ。——だが合理的だ。裁判長の声はそう告げていた。司法記者たちは一斉にメモを取り始めた。
「葉桜先生が賭けに勝ったよ!」
「なんだよこれ、刑事裁判の延長戦、ていうか場外乱闘じゃん」
ひかるが彩花の手を握り、小声で喜びを爆発させている。四之宮も異例の事態と知り、珍しく興奮していた。
「証人、証言台にお進みください」
周囲の盛り上がりをよそに、薫子は再び深々と頭を下げ、証言台に歩みを進めた。
黒い戦闘服の袖口が揺れ、飾りボタンが光を反射する。
女王と竜、その視線が交錯した——。




