第九章 chapter05
「弁護人、反対尋問を」
裁判長の声に促され、葉桜が立ち上がった。黒いスーツの裾が揺れる。
「証人。あなたは先ほど『危険物質が生成された』と証言しましたね」
「はい」
「その実験で使用した薬品の濃度ですが、通常の運転条件よりも低濃度であった、という理解でよろしいですか」
「……実験は想定されるあらゆる濃度で繰り返し検証しました」
「通常の稼働条件ではリアクターが溶損し、濃度を下げたときにのみ稼働したのではありませんか?」
薫子が即座に立ち上がった。
「異議を申し立てます。誘導尋問の形式になっていますので訂正を求めます」
裁判長が異議を認め、質問を改めるよう諭す。葉桜は一拍置き、声を落ち着かせた。
「では質問を変えます。……あ、そうだ、この実験の目的は何でしたか?」
「兵器転用の可能性を実証することです」
「実証? あなた方はずっと実証とおっしゃる。可能性を〝否定する〟〝探る〟という視点はまったくなかった?」
「な、否定……?」
「弁護側証拠、乙第五号証。木賊工業で行った反証実験の記録を提出します」
裁判長が「受領します」と述べ、証拠書類を手元に置く。書記官が法廷内に回覧を始めた。それは木賊工業で行った反証実験のデータだった。5回の実験全てでリアクターが破損した、という事実を突きつける。
葉桜は裁判官たちに向けて言う。
「ご覧の通り、操作に慣れた木賊の技師でも5回の実験すべてでリアクターは溶損し、稼働時間は10分少々でした。これは実際の運転条件を想定した実験であり、兵器転用は不可能であることを示しています。これでは製造というより生成実験の域を出ません。証人の証言からも明らかなように、この実験は最初から〝クロである〟という解釈で行われたものでした。そういう目で見れば、見えるものも見えなくなり、見えないはずのものが見える。兵器転用の可能性を拡大解釈するための鑑定に過ぎず、科学的な中立性には疑義があります」
無罪を証明する必要はない。起訴事実に一片の疑いを抱かせればよい——それが弁護人の仕事だ。九印側は、戦略どおりの立ち回りを見せた。
「それでは検察官から再主尋問を」
裁判官に促され、薫子は再び南波の前に立った。
「10分稼働した後、リアクターは溶けちゃった。今、そう尋問されました?」
「はい」
「10分しか耐えられなかった……。そう、分かりました。終わります」
「何だ、今のは? しかし今のところはまだ互角か」
というのが四之宮の感想だった。次は弁護側からの反撃だ。
葉桜が力強く告げた。
「木賊工業精密機器部門主任、篠原祐希氏を証人として申請します」
スーツ姿の篠原が、証人台で宣誓を終える。葉桜はすぐに主尋問を開始した。
「篠原さん、あなたは木賊工業で本件マイクロリアクターの設計・運転試験に携わった技術者です。そこでお聞きします。検察側の実験内容から読み取れる稼働条件下で、リアクターは安定的に作動しますか?」
「いえ、設計上、強すぎる薬品で長時間運転すると必ず内部が溶損します。神経ガスを作れるようなレベルの耐久性は持たせていません」
「具体的に、どのような現象が起きるのですか」
「内部が高温に耐えられず、反応槽などが溶けるのです」
「弁護側証拠、乙第六号証を提示します」
モニターに映し出されたのは、弁護側が提出した反証実験のグラフ。いずれも運転開始から10分を超えると温度が急上昇し、5回すべてで内部が破損した、という記録が赤字で示されていた。
「検察側の証拠では実験内容は機密ということで、塗りつぶしが多く細部が分かりません。しかし木賊による実験の全てで神経ガスの生成は不可能だと判明しています」
以上です、と席に戻る葉桜。裁判長に促されて薫子が反対尋問を始めた。
「こんにちは。実験、大変だったことと思います。5回とも10分で暴走してしまった。間違いありません?」
「はい。実用的と思われる全ての擬似的生成実験で、稼働時間はせいぜい10分でした」
「10分?」
「異議を申し立てます。主尋問との重複で不当と考えます」
「検察官、意図の説明を願います」
「裁判長、先ほどまで公安から機密指定の解除が下りず提出を控えておりましたが、今朝、正式に解除されました。したがって、ここで新証拠として請求いたします」
「……弁護人、どうしますか?」
「追加開示……? だまし討ちじゃないか……」
そう唸った哲也はすぐに訴えた。
「異議を申し立てます! 不意打ち禁止の原則に反します。こちらの準備を妨害する行為であり、防御権の侵害に当たります!」
「あら、弁護人もずっと黒塗りのこの中身を見せろとおっしゃっていたのでは? 隠された事実こそが真実を明らかにする、とおっしゃったのは葉桜先生だったかしら?」
裁判長の判断は……。
「……証拠請求を認めます。ただし弁護側には次回期日までに検討の機会を与えます」
それでは、と薫子は法壇に向けて声を強めた。
「検察側証拠、甲第六十八号証、公安七課実験報告書を取り調べます」
法壇に向けて高らかに宣言する。
「この報告書にあるジエチルアミン……これこそ、実際の神経ガス製造の材料です。入手困難ではありましたが同薬品を用いた実験で、開始から5分後に神経ガスの前駆体を確認したと記載されています。続いて甲第八十五号証、工学部応用科学課教授・高野先生の鑑定意見書。『トクサリアクターは5分以内であれば前駆体生成が可能で、溶損に至らない』とあります」
薫子は裁判官を正面から見据えた。
「弁護人の提示した『10分で破損』というデータは、逆に言えば『短時間なら生成可能』であることを裏付けるものです。実際に兵器として利用可能であることを科学的に示しているのがこちら、検察側証拠です」
裁判長は頷き、記録に残すよう書記官に指示した。
「5分。5分で十分でしたね。5分、十分。記録に何て書くのかしら、ややこしいですね」
薫子は葉桜……ではなく書記官を見て、この日もくるりと身を翻した。
「以上です」
葉桜の再主尋問。
「検察側の実験ですが、実際に5分で神経ガス生成までこぎつけるものですか?」
「ああいった使用方法は想定外です……。しかし高温になりすぎて、やはり内部は溶けると思います」
「では、トクサリアクターでの生成は不可能?」
「入手困難な薬品であり即答はしかねますが……普通は無理だと……」
九印側は弁護側証拠乙第七号証を提示。「製品の仕様から考えても、製造というより生成できるかどうかの実験レベル」という、篠原の意見を肯定する専門家の意見書だ。
「裁判長、先ほどの尋問のとおり、検察側が提示した実験は〝生成可能〟という答えに向けての辻褄合わせをした——」
「異議を申し立てます。検察側の証拠に対する不当な評価であり、不適切です」
裁判長が実務的な口調で言った。
「異議は却下します。ただし記録には残します。また弁護側証人の証言は、利害関係人であるため、裁判官は慎重に扱うものとします」
「実際の薬品を使って……。検察の証拠が一つずつ上を行った……」
傍聴席がどよめいた。四之宮も唸る。
「金と権力にものを言わせたか。広範囲の薬品を使ってリアクターが壊れない薬品の組み合わせと濃度を見つけたんだ。町工場の木賊にそこまでの反証実験は不可能だ。こりゃ実弾対BB弾みたいなものだな。検察に流れが行き始めた」
四之宮の〝たとえ〟はちょっと女子には分かりにくいが言いたいことは伝わった。〝刑事裁判は検察側が有利に進む〟という俗説は、彩花やひかる、四之宮の中で現実味を帯びる。
「しかし互いの実験結果の内容がここまで正反対になるのっておかしくないかな」
薫子たちさえ知らない「わずかな改造を加えれば」という一文の削除。公安七課の小さな細工が、木賊と九印を徐々に追い詰めていった。
「本件リアクターの兵器転用可能性についての証拠調べは、本日これで終了とします。双方の評価が大きく異なる点は確認できました。最終的な判断は判決で示されます。次回期日では、供述調書の任意性について審理を進めます。本日はこれにて閉廷」
薫子は淡い笑みを残したまま書類を閉じ、葉桜は背筋を伸ばして立ち上がった。傍聴席は、緊張から解き放たれた人々の吐息に満ちていた。




