表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/83

第八章 chapter08

東京地方裁判所。かすかな秋の気配が訪れた9月半ばの午前中、刑事第5部の合議室では、一つの事件ファイルが長机の上に置かれていた。ファイル名は「令和〇第1611号 機微技術国際流通及び国家安全保障に関する管理法違反被告事件」。通称「木賊事件」。

木賊裁判の裁判長を担う部総括判事は、その分厚いファイルをゆっくりと開いた。同席しているのはそれぞれ右陪席、左陪席を務めるベテランと若手の判事。彼らが木賊裁判の合議体を形成するのだ。加えて書記官が記録係として控えている。

ファイルの一番上に差し挟まれた起訴状には、被告人・木賊治、木賊浩志両名の氏名が記されている。

「証拠点数400以上。公安事件で機微技術が絡む。通常の審理では混乱は避けられない」

裁判長の声に、両陪席が頷く。

「整理手続に付すべきですね」

「証拠の開示争いも必至です。裁判所としても準備記録を残す必要があるでしょう」

裁判長は目の前の3人に告げた。

「では決定します。本件は刑事訴訟法第316条の2に基づき、公判前整理手続に付す」

メモをまとめ始めた書記官に、裁判長が追記を促す。

「日程案は10月下旬、まずは1回。検察、弁護双方に出頭を命じます」

書記官室に戻った若い書記官は、端末を立ち上げ、定型フォームを呼び出した。

「東京地方裁判所刑事第5部 通知書 本件事件について、公判前整理手続を下記日時に行うので、出頭されたい——」


「姉さん、裁判所から通知が届いたよ」

ここまで逮捕からすでに半年以上。初公判までは早くても10カ月ほどになるだろうか。すでに通常のケースと比べ、2〜3倍ほどの時間がかかっている。しかし木賊の否認事件に関しては、相手検事が竜崎薫子でなければ、この期間は1年、いや2年になっていてもおかしくはなかった。

「検察は公安が準備した『有罪の物語』を全面に押し出してくる。リアクターの軍事転用の可能性、そして黙秘前に得たであろう、曲解された供述調書。これらが向こうの柱となるでしょう」

哲也が顔をしかめる。

「途中からは黙秘を貫いたけど、警察や検察での取り調べの中で、彼らに有利な発言を都合よく切り取られている可能性も高い。厄介ですね」

葉桜が頷く。

「こちらは反証実験の結果を全面的に打ち出す。兵器転用など事実上不可能、ということを徹底的に主張するよ。そこで押し切りたいけれど、難しければ供述調書の任意性と信用性を争う。長期勾留と再逮捕、家族を盾に取るような非人道的な取り調べの下で得られた供述は、証拠としての価値がない。その点を強く主張する。実験結果と調書の任意性、二段構えよ」

現実的には、裁判官はよほどの違法性がないと供述調書を排除しない。「それでも、よ」と葉桜は主張するのだ。次に彼女はホワイトボードに「証拠開示請求」と書き込んだ。

「検察側は自分たちに有利な証拠しか出してこない。だからこそ証拠の開示請でミスらないこと。押収品の解析データ、実験の手順や構成、アイビー工機との契約書などなど……」

哲也がリストを補足する。

「取り調べの録音・録画データがあればなあ」

「期待できないね」

葉桜は苦笑したが、すぐに表情を消した。

「けれども要求すること自体には意味がある。『データなどない』と答える姿が裁判官の心証に影響を与える可能性はゼロではない」

ひかるは、2人の会話を真剣な表情で聞きながら、メモを走らせていた。弁護士の仕事とは、なんと緻密で、そして苛烈なのだろう。

「分離審理と浩志さんの保釈は勝ち取ったけれど、検察にはこちらの準備時間を削るという狙いがあった」

「だから検察は浩志さんの保釈に反対しなかったのか。分離審理は、後になってこちらにメリットをもたらすけど、そもそも最初に戦う治さんの裁判で不利になる。第一、裁判官の心証ってやつも……」

そう、と葉桜は頷いた。

「向こうは私たちの狙いを理解した上で、こちらの用意した舞台に乗ってきた。腹が立つほどスマートというか賢いというか」

正攻法では勝てない相手だ、と匂ってくる。葉桜は、ピンと伸ばした人差し指で、呼出状の向こうにゆらめく奇妙な影を指差した。

「ふざけてくれちゃって。さあ、やることは多いわよ」


弁護側は、検察の「物語」に対し、自分たちの「無罪の物語」を法的に、かつ説得力を持って提示しなければならない。裁判官の認識を「完全な有罪」から「疑わしき」まで引き下げるのだ。果たして木賊のしたことは本当に罪なのか、本当に故意なのか。本当に自供は有効なのか……。

九印の弁護士たちは争点を徹底的に切り分けていく。同時に反証実験、証拠探し……。

小さな事務所はフル回転のまま、カレンダーは10月の3週目も終わろうとしていた。いよいよ明日、1回目の公判前整理手続を迎える。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ