第八章 難攻不落 chapter06
裁判は、証拠の総量では決まらない。どの証拠にどんな意味を与えるか——解釈の戦争だ。
九印サイドは〝負け筋〟を数え尽くすことから始めた。
午後の九印法律事務所、オフィスの中央にある打ち合わせスペースにホワイトボードが置かれた。葉桜は三分割の線を引き、手にした黒マーカーを走らせていった
「罪状」
「証拠」
「反証」
それを見つめるのは彩花と、彼女に請われて隣に座るひかるだ。
「今回の木賊事件の罪状は、機微技術の国際流通及び国家安全保障に関する管理法、通称MTS法違反。木賊工業がマイクロリアクター『TFCR』を、経済産業省の承認を得ずに輸出した容疑ね」
「検察側の主張は、こうです」
罪状
哲也は〝MTS法違反〟〝リアクターの軍事転用〟と書き込んだ。
「TFCR、今後は単にリアクターとしよう。このリアクターは、ごく微量とはいえ神経ガスを生成し得る性能を持つ機微技術であり、輸出には国の承認が必要だった。木賊浩志と治の両名は、この危険性を認識しながら意図的に承認を回避して輸出、日本の安全保障を脅かす行為である、と」
ひかるは、弁護士たちの言葉に静かに耳を傾けていた。検察の描く〝物語〟は、確かに一本の筋が通っているように聞こえる。
葉桜がホワイトボードに矢印を引き、項目を足す。
「輸出先と用途の認識。管理体制の不備。起訴状の骨子はいくつかあれど、重視されるのは『リアクターが神経ガス製造に転用可能だったかどうか』。その一点よ」
哲也が補足する。
「輸出先はチェコなど3カ国。特にチェコに関しては日本と緊張関係にある大国の関与も疑われている。これが裁判官の心証には効いてくるね」
証拠
ここに葉桜は「検察側の勝ち筋」と記した。
「彼らはこう来る。まず、ナノからマイクログラムでも神経ガスが生成できたと強調する。たとえ微量であろうと、それは兵器開発の礎となる。平和的利用の誓約書は、軍事転用できることを理解していたからこそ作っていたのだ、とね。そしてここで自白調書こそ得られなかったものの、黙秘前の供述を巧みに曲解した『供述調書』を突きつける——」
「公安七課は早い段階で、木賊側に不利な供述調書を取っているような気がするんだ」
彩花は息を呑み、手を握りしめる。
「あの……こっちの勝ち筋も、あるんですよね?」
事務員の分際で、とひかるは自覚しながらも、聞かずにはいられなかった。
反証
葉桜はここにペンを走らせた——。
「さて! 弁護人は今頃こう考えているでしょう」
東京地検特捜部の執務室。薫子、松本、石田の3人がブリーフィングを行っている。
薫子はホワイトボードに「反証・弁護側の勝ち筋」と書いた。
反証
一つ目。実験結果について。
「1、リアクター自体の限界。通常の使用法では高温、強力な薬剤には耐えられない。短時間は動いても、樹脂は溶けてしまう。兵器としては成立しない。——でも実験では神経ガス生成の直前まで行けちゃった。止めなければ作れたってこと」
「なるほど」と松本。
「ごく微量の生成ができても、それを兵器製造と呼んでいいのか。裁判官に〝研究と製造の違い〟を主張するでしょう。『まな板の上で包丁の切れ味は分かったとして、それが直ちに武器とみなされるのか』っていうことね。——でも、人が切れたら武器よねえ。古来、日本で殺人事件に一番使われてた凶器は刃物……包丁なんだもの」
次に薫子は「誓約書について」と書き、丸で囲んだ。
「2、故意の否定。技術は時として予想外の使われ方をする。誓約書はこの〝予想外〟に対して『正しく使ってください』『使います』という両者の覚書でしかないよ、軍事目的の認識とは結び付かないよ、ってことね。——でも」
石田が応える。
「途中からは黙秘を貫いたようですが、その前に〝輸出先の軍事情勢は調べなかった。調べていればと後悔している〟〝誓約書は軍事転用への認識があったと考えられて当然〟〝木賊彩花は関係なく、自分たちが輸出を進めた〟という調書があります。ある程度の供述は得られていますね」
「どれも被告人の故意や過失を立証する上で重要なピースだ。弁護側は無罪ではなく量刑で争ってきそうですね」
弟子の言葉に薫子は真顔で応えた後、いたずらっぽく頷いた。松本は自分の予想に自信を深めた。
「今回も〝勝ち確〟ですね。あとはどんな勝ち方をするか、だ」
はやる松本をよそに、石田は竜崎検事の表情に、小さな違和感を覚えていた。
葉桜は一拍おいて「反証」の項目に「手続批判」と書き込んだ。すでに二つ書かれている項目は、薫子が書いたものとほぼ同じだ。
反証
「3、捜査と証拠の信頼性。公安の実験はアイビーの設備で行われ、データは彼らの都合のいい部分だけが強調されている……可能性がある。まだしっぽは掴んでいないけれど」
彼女の言葉はここで終わらない。
「何よりも、被告人やその家族への長期勾留・再逮捕をはじめとした司法による圧力。これらがいかに非人道的な捜査であり証拠の信頼性を損なうものであるか。それを裁判官にぶつけ『合理的疑い』を生み出す。これがこちらの勝ち筋よ」
打ち合わせが終わり、ひかると彩花が事務所を出ていった後も、哲也と葉桜はホワイトボードの前に座っていた。
「三つ目、なんて言ったものの……」
弁護側の実験回数は圧倒的に少なく、しかも身内による検査だ。それでもアイビーでの実験に不正・不備があったと裁判官に思わせなければならない。
「何より非人道的捜査・取り調べが行われたかどうかの証明なんて、我々にできるはずも……」
頭を掻きながら、哲也が呟いている。葉桜はホワイトボードを見つめたまま座っていた。動かぬ姉に向けてか独り言か、哲也は話し続けた。
「弁護士の被疑者取り調べ立ち会いは認められてないし録画だってほとんど進んでない。今回の公安事件なら、録画は絶対にない。そして記者クラブを巧みに使えば記事の方向性もコントロールされてしまう」
「この国の刑事司法制度の中では、常に検察が有利なのよ。映画みたいに〝争点はここだ!〟〝異議あり!〟って分かりやすく進めばいいのに。あーあ、弁護士って、地味ね」
「検事から弁護士にはなれるけど、その逆はないからね」
そう言って哲也は自分のデスクに戻って行った。頭の後ろで指を組み、ソファに深くもたれかかる葉桜であった。
木賊浩志、治の再々逮捕が九印事務所に知らされたのは、その数日後、二度目の勾留期限の最終日だった。




