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第八章 chapter05

墨田区、活気の失われた木賊工業の工場。社員たちが引き上げた午後5時過ぎ、九印法律事務所からは葉桜と哲也が、そして木賊工業からは篠原祐希ら技術者と彩花が集まり、わずかな機材を使って反証実験を行っていた。薄暗い工場内に、機械の唸り声が響く。

この実験は、最初の起訴前から、葉桜が企図していたものだった。しかし木賊側には資金も残された機器も少なく、ようやくここにきて数回の実験を行うだけの人と資金が用意できたのだ。

「篠原さん、よろしくお願いします」

篠原は、公安七課が行ってきたものとほぼ同じ実験を開始した。当然、本物のガスを作るわけではないが、精密なプロセスで慎重に作業を進める。予備のリアクターは、工場に数個しか残されていない。一つ破損すれば、それだけ反証の機会が失われる。資金と人員の圧倒的な不足がもたらす、弱小事務所の限界だった。彼らは、常にガラス細工を扱うような緊張感の中で作業を続けていた。

「確かに理論上はマイクログラム単位の前駆体は生成できるはずです」

篠原の声には、疲労と困惑が入り混じっていた。数日間にわたる実験の結果、公安が主張する「神経ガス生成」のプロセスを再現すれば、ごく微量ながら、ガスを生成するための〝素材となる物質〟が検出されることが確認されていた。

「しかしその際、樹脂の溶解は防げません。正常な性能を維持できるのはせいぜい10分。兵器開発というには、あまりにも不安定すぎます」

篠原は、擬似的なガスの生成実験で一部が溶け、歪んでしまったリアクター内部が映し出されているモニターを指差した。確かに一部が剥離したり溶解したりしていて、本来の姿を留めていない。

「しかしこれでは、公安の主張を完全に覆すには至らない。『ごく微量でも生成可能』と強弁されては、裁判官は『軍事転用可能性あり』と判断しかねない。公安は、この一点に絞って急所を狙い撃ちしているようだ」

「けれど私たちは『マイクログラム生成の可能性あり。しかしその段階で壊れている機器を兵器転用と言えるのか』という〝解釈〟で闘うしかない」

データの数だけでは、組織の「物語」には対抗しきれない。互いの解釈をぶつけ合う裁判では、主張に確固たる説得力を持たせるしかないのだ。数倍の資金力と人員、そして〝時間〟を使った、公安の実証実験に対して……。

「それにしても、公安も検察もこれを兵器転用と断罪するには、少し根拠が弱くないか……? あるいはその手に隠し持っている証拠によほど自信があるのだろうか……?」

哲也はこの事件の裏にある薄い靄のようなものに気づき始めていた。


翌日の九印法律事務所、ひかるが原宿署に接見確認の電話を入れていた。

「明日15時に接見室が取れるそうです」

「意地でも木賊親子を落とすつもりだ。まったくよくできたシステムだよ。攻め入る隙がない」

哲也の嘲笑まじりのつぶやきには、浩志と治が日々精神的に削られていくことへの、深い憤りが隠されていた。拘置所から留置場へ、そしてまた拘置所へ。被疑者が黙秘を貫けば貫くほど、彼らは司法の城の奥へと匿われてしまう。現状、このシステムは弁護側のあらゆる足掻きを無力化していくのだ。

「こないだの保釈申請却下といい、いつまでこの国の裁判所は検察の言いなりで動くのかしら」

葉桜はそう言いながら、テレビをつけた。この時間のニュース番組では、木賊工業に関する特集が始まっていた。東京地検による記者会見、続いて映し出されたのはアイビー工機の洗練されたオフィスと、自信に満ちた表情のアイビー工機社長・伊吹聡の顔だった。

「医薬品の製造を迅速化するために複数の企業が参加した製薬装置開発コンソーシアムというプロジェクト。伊吹社長はそこで木賊工業の内情に詳しくなったのですね」

アナウンサーに促され、伊吹が話し始めた。

「今回の木賊工業の一件は非常に残念です。しかし弊社の技術力と経営ノウハウをもってすれば、彼らの抱える問題点を刷新し、旧体制の甘い管理システムを改善することは可能だと考えています」

画面に〝旧体制での危機管理の甘さ〟〝問われる国際感覚〟と字幕が現れる。

「彼らは業界内で〝技術一流、経営三流〟と言われることもありました。優秀な技術を持ちながらも、あちらの経営力には問題があったので——」

テレビの画面は、まるで木賊工業が更生と救済が必要な「問題企業」であり、アイビー工機が日本の技術を守る「救世主」であるかのように吹聴していた。この流れを作ったのは東京地検の記者発表と、アイビー工機の伊吹である。

「こいつめ……民事で尻の毛まで抜いてやろうかしら」

法律家であることから逸脱した言葉を吐く姉を諫めるのは、常に弟の役目だ。

「物騒なこと言ってないで。気持ちは分かるけどそれどころじゃないでしょう。それにアイビーの資本が木賊社員の生命線になることは事実なんだから」

「とにかく明日、木賊さんたちを励ましてくる。どうも黙秘が破られて、うまく誘導されてる空気も感じる。とにかく励ましつつ、アイビーとの関係も確認しておきたい」


同じニュースを自宅で見ていた彩花の目に、悔しさと怒りの涙が溢れ出す。何一つ反論できない無力感が、彼女の全身を縛り付けていた。社会全体が、アイビー工機が作り上げた「物語」を鵜呑みにし、木賊工業を悪と決めつけていく。

「それでも闘うんだ。九印の皆さんが助けてくれる。お父さん、じいちゃん、絶対勝つから」

実験中の哲也たちの態度から、苦戦することは分かっている。一度刻み付けられた不名誉は、デジタルタトゥーとなって残り続けることも聞いた。だけど、いつだったかひかるさんがテレビで見せてくれていたではないか。「闘った記録だって残るんだ」と。


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