第七章 ひかりとやみ chapter03
この年の後半、九印法律事務所は幸か不幸か順調に仕事を増やしていた。葉桜も哲も常時5〜10件ほどの案件を抱え、事務所と裁判所、企業や法律相談会を駆け回る。書類整理、スケジュール管理、電話当番にニュース類の取りまとめ……。九印の弁護士たちは、藍原ひかるの再上京を待ち望むようになっていた。裁判が明けて実家に親孝行に行っているのだから、呼び戻すことなどできないが。
そして季節は巡り、暦は3月に入る。
群馬の山々はまだ冬の面影を残しているが、ひかるの心には、新しい春の兆しが宿っていた。半年間の休養は、元・職場との闘いによって深く傷ついた心を癒やしてくれた。母と、海外の単身赴任から一時帰国した父。両親の温かい眼差しと故郷の穏やかな時間が、彼女に再び立ち上がる力を与えてくれたのだ。
「行ってくるね、お母さん。あ、お父さんも!」
玄関で振り返ると、母はにこやかに手を振っていた。もう片手のスマホ画面には、再び海外の単身赴任に戻った父が映っている。2人の笑顔に、ひかるは深く頷いた。もう、心配をかけることはない。新しい自分として、東京で、九印法律事務所で、再出発するのだ。
高崎線に揺られること2時間弱、ひかるは上野から1駅、電車で5分ほど離れた小さな駅に降り立った。懐かしのワンルームマンションへ。半年ほど空けてしまったが、やはり小さくても住み慣れた部屋は快適だ。こうして再び、ひかるの東京での生活が始まった。
九印法律事務所は、青山通りから少し入った、落ち着いたエリアのビルにある。依頼人として何度も通ったこの場所に、今日から職員として入っていく——まだ慣れないその感覚を引きずって、ひかるは事務所のドアを入っていっ……「右手!」と女性の声。
「はい!?」
ぱん! ハイタッチをして長身の女がすれ違いざまに駆け出していく。長いスプリングコートをひらめかせて。もちろん葉桜だ。その奥には哲也がいた。
「藍原さん、今日からよろしく。葉桜先生は接見が入って、見ての通り出かけたよ」
ソファとパーテーション、その奥には本が詰まった本棚と木目のデスクが人数分。葉桜、哲也、そしてアソシエイト弁護士の机はすでに書類とノートパソコンに占拠されているが、一つだけは〝これから〟という真新しさ。オフィスが無機質にならないよう、窓際の観葉植物が空間に彩りを添えて……そう、見慣れた風景だ。
「まずはこの本、法律について優しく勉強できるよ。早いうちに用語を覚えておく方が、仕事がしやすいからね」
雇い主になっても、哲也は優しく穏やかだ。「事務所の皆さんに恩を返さないと」と、かえってひかるは、やる気を漲らせるのだった。
そこから数日、ひかるは電話番と弁護士たちのスケジュール確認、郵便物の整理に追われた。少しずつ法律事務所の仕事のルーチンが分かってくる。前職より少し給料は上がるはずだが、この半年、無職だったひかるは、昼には手製の弁当をぱくつきながら、本を読み、法律関係の動画を見漁るという1週間を過ごした。そんなある日——。
葉桜が出掛けたのを見計らい、ひかるは哲也に話しかけた。
「あの……哲先生のお兄さん、葉桜先生の旦那さんだった方が、この事務所を作ったんですよね」
「もともとはそうだよ」
「ご挨拶っていうか、お墓参りに行きたいなと思いまして。お墓ってどちらに……」
「谷中だよ」
「うちのすぐ近くだ。一度、出勤前にご挨拶してきます」
詳しい場所をメモしてもらったひかるは、それから2日後、出勤前に谷中霊園を訪れた。「花待ちの頃だねえ」と桜を見上げながら、九印家の墓を探す。その途中、自分より少し若そうな女性が墓の前で佇んでいた。
「ご家族のお墓参りかな……。あ、あった」
ひかるは墓前に花を供え、手を合わせる。葉桜と哲也に助けられたこと、これから事務所で働かせてもらうことを静かに報告した。最後に「よろしくお願いします」と一礼し、もと来た道を戻って行く。
先ほど見かけた女性が、体を丸め、泣き崩れていた。「事務所に行かないと」とは思ったがさすがに放っておくこともできず、つい、声を掛けてしまう。
「あの……どうかされましたか?」
「すみません、なんでもないです、平気です」
女性は両の手首を目に当て、ひかるに背を向けたまま立ち上がった。
「これ、使ってください」
振り返った女性はひかるの顔を見て、一瞬、止まった。ひかるは、少し前まで週刊誌やニュースでさんざん顔を晒していたことを思い出した。少々、バツが悪い。
「あ、見覚えありました? 私、藍原っていいます」
「いえ、あの。すみません……」
「弁護士さんと一緒にさんざんテレビで怒り散らしてたからなあ。恥ずかしい」
「……あ! ああ!」
女性は差し出されたフェイスタオルごと、ひかるの手を握り締めた。痛いほどに。そして唇を引き結び、俯いて嗚咽を漏らした。あっけに取られたものの、ひかるは両手で女性の手を包むように握った。そして、脳の片隅では極めて冷静に「うーん、遅刻だな今日は」と考えていた。
この日の朝、原宿署。治と浩志の取り調べが続いていた。七課が描いた調書に頑なにサインを拒む治に向かって、早瀬が言った。
「親父さんが、一部だが認めたぞ」




