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第七章 ひかりとやみ chapter01

南青山4丁目、外観が淡い空色の小さなビル。青山公園にほど近いそのビルの一角に、九印法律事務所のオフィスはあった。

「暗くなることも多いけれど、せめてオフィスくらいは明るい雰囲気にしましょ」

そんな思いで九印の弁護士たちはここを選んだのだという。弁護士の1人は「駅から遠い」ということで少し渋ったようだが。

しかし所長……ボス弁である九印葉桜は、このオフィスから見える景色がお気に入りだった。今は花の時期を終え、濃い緑の葉が茂っているが、2、3週間前には昔より数は減ったものの、桜が花を咲かせていた。


「……というわけで、ハルモニア上野との和解、これで最終確認ね、藍原さん」

葉桜の声は、いつになく穏やかだった。

「はい、先生。もう十分です」

藍原さん、と呼ばれた依頼人がデスクに置かれた書類の束を見つめていた。葉桜の弟である哲也弁護士は、藍原ひかるのためにコーヒーを入れている。


藍原ひかる。小柄な彼女は、身長170センチの葉桜と並ぶと、より一層小さく見えてしまう。年齢は30代に入ったばかり。仕事好きでゲームや甘いものが好き、というどこにでもいる女性だった——民事訴訟の原告であるという点を除けば。


かつて彼女は上野の老舗ホテル「ハルモニア上野」でウェディングプランナーとして働いていた。転職組でキャリアは浅いものの、その成績は全国でもトップクラスであり「エース」と呼ばれたものだ。ところがある日、身に覚えのないネット炎上事件に巻き込まれる。先輩プランナーのミスが、すべて「藍原のせいである」とネットユーザーに騒ぎ立てられたのだ。ホテル側は彼女を守ろうとせず、むしろ責任を押し付け、騒ぎが収束するのを待とうとした。素性をネットに晒され続け、ワイドショーや週刊誌でもネガティブな報道をされ続けたひかるはウェディングプランナーの道を諦めざるを得なくなる。

その〝理不尽〟に対し、炎上させた相手を名誉毀損で訴えるのではなく「勤務先であるハルモニア上野を共同不法行為で訴える」と、日本に前例のない訴訟を提案したのが、偶然、無料法律相談所で出会った葉桜だった。ハルモニアの代理人に対し、葉桜は言った。「ネットユーザーを訴えたところで藍原さんの人生再構築にどれほどの意味があろうか。会社が法的責任を果たしていれば、ここまでの炎上事件は起こらなかったはず」と、熾火のような怒りをたたえて……。

こうして、ひかると九印法律事務所は日本初の民事訴訟に踏み切った。闘いは長く続いた。葉桜の「地裁は前例のないケースを嫌がるのよ」という言葉が何度か思い出された。そして地裁での勝訴後もホテル側は控訴を続けていたが、先日、ついにホテル側が和解を申し入れてきたのだ……。


「四之宮さん……あ、職場の元先輩で炎上の時からいろいろ助けてくれた方なんですけど、その人が言うには『ハルモニアはもう経営的にもガタガタで、訴訟どころじゃなくなった』って」

ひかるは、テーブルに置かれた和解の提案書にそっと手を置いた。和解金は、失ったものに比べれば、決して多くはない。だが、ひかるが最も重視したのはそこではなかった。

「ホテル側のホームページに、今回の炎上事件の経緯と、私への謝罪文が掲載される。それが一番の条件でしたから」

ひかるの言葉に、葉桜は頷いた。金銭的な賠償よりも、真実の公表と名誉の回復。それがひかるの揺るぎない願いだった。

「全然、わりに合わないですけどね!」

「でもきっと、同じように不当な扱いを受ける人が減るきっかけにもなるでしょう」

コーヒーを持ってきた哲也が、穏やかな笑顔を向けた。

「なかなか時間が掛かったけど、粘り勝ちだね、姉さん」

「葉桜先生、今回もらうことになる慰謝料っていうんですか、もう全部事務所の方で納めてください。お二人の活躍にはぜんぜん見合わない額ですが」

今回提示されたのは、150万円とホームページでの謝罪文。九印法律事務所の取り分は10%、15万円といったところだ。

「馬鹿言わないで」

葉桜は笑う。

「お金で解決できることは少ないけれど、それでも受け取っておきなさい。うちは正規料金で」

実質、法律事務所の経営を任されている哲也の表情がどうなっているか、ひかるは見ることができなかった。

「それより、裁判が終わったらうちに来てもらう約束、よろしくね」

葉桜の言葉に、ひかるは、はっと顔を上げた。

「本当に、私に、できるでしょうか」

「大丈夫。あなたは強いもの。法律事務所とはいっても事務員だ、と気楽に考えて」

葉桜の言葉は、ひかるの心に温かく響いた。ウェディングプランナーとして、人に寄り添い、その人の人生を彩る仕事が好きだった。本当は、ずっと続けたかった。しかし、司法の力を借りて立ち上がった経験は、彼女の運命を大きく変えていた。

「……はい! 改めて、よろしくお願いします。ただ、裁判が全部終わったら一度群馬の実家に戻って両親を安心させたいな、と。いろいろ落ち着いてからでもいいですか?」

「もちろん。半年くらいはゆっくり休むといいよ」

「和解協議から履行まではまだしばらく掛かるし、契約のことなどは、また考えましょう」

九印法律事務所が人懐っこく仕事好きの事務員を抱えることになるのは、来年以降のこととなった。


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