第五章 陥穽 chapter01
車が警視庁本庁舎の地下駐車場に滑り込む。浩志が案内されたのは、どういうわけか静まり返ったエレベーターだった。後の車に乗せられた息子はどこにいるのか、見当たらない。捜査員によって押されたボタンは、一行が6階に行くことを指し示す。浩志の背筋に冷たいものが走った。
「もう10月というのに、少々暑かったですね」
話しかけてきた捜査員は江藤と名乗った。
「そうですね。秋はどこへ行ってしまったのやら。暑いですな」
声を出すことで、少し不安はまぎれた。
案内された会議室は、想像以上に簡素だった。灰色の壁に、何の変哲もない二つの会議用の長机が向かい合うようにして計四つ、そして全ての机に椅子が二脚ずつ。窓からは都心のビル群が望めるが、見慣れているはずの東京の景色も、どこかよそよそしく感じられた。
部屋にいるのは、2人の中年男性だ。1人は先ほどの江藤、もう1人は大橋と名乗った。江藤は表情こそ柔和に見えるが、奥底の感情は読み取れない。大橋は感情を一切排したような無機質な眼差しをしていた。江藤は浩志の正面に座り、大橋は浩志の隣に陣取った。彼らの手元には、既に木賊工業に関する書類の束が積み上げられている。
最初の質問は、驚くほど穏やかだった。
「木賊浩志さん。まずは木賊工業の創業からの歴史について、お聞かせいただけますか?」
江藤の言葉は丁寧で、浩志はまた少し安心した。創業時のこと、息子に引き継いだ経緯など、これまでの会社の歩みを淀みなく語った。
江藤は、浩志が語る事業内容の中に「精密機器製作への挑戦」の話題が出ると、口調こそ丁寧ながら、執拗なまでに同じ質問を繰り返した。
「なるほど、15年前に息子の治さんが、木賊工業に新しい分野を持ち込んだ、と。その決定者は治さんということですね?」
浩志は、すでに何度も答えたはずの質問に、丁寧に、そして根気強く答えた。しかし江藤は表情ひとつ変えず、ただ淡々と、まるで答え合わせをするかのように質問を続ける。一方の大橋は、浩志の言葉をパソコンのキーボードに打ち込んでいる。
「木賊浩志さん。こちらの『設備投資』として計上されている850万円。これは具体的に何に充当された費用でしょうか? 詳細な内訳の記載がありませんが」
浩志は記憶を辿りながら、その費用の使途を説明した。江藤は表情一つ変えずに、さらに深掘りしていく。
「なるほど……工作機械というのは、これほど高額になるものなんですか……。特別な機械というわけでもなく?」
捜査官は優しい口調を崩さない。決して感情的になることなく、ただ事実の断片を拾い集めていく。気が付けば、昼に工場を出てから5時間が経過していた。
別ルートで6階の別室に連れられた治も、早瀬から同じ質問をされていた。会社の変遷、マイクロリアクターなど精密機器製作に進出した時期、設備投資の内容……。こちらも質問は優しく、しかし執拗に繰り返される。網の目は少しずつ、しかし確実に狭められていった。
「ありがとうございました」
浩志と治がその言葉を投げかけられたのは、ほとんど同時だった。2人は6階でようやく引き合わされ、1台の車で木賊工業へと送られた。
日は傾き、オフィス街の灯りがまばらに瞬き始めていた。上野のビル群を通り抜け、入谷から墨田区の木賊工業へ。車内は沈黙に包まれていた。浩志と治の目には、少しずつ見慣れた景色が戻ってくる。2人はようやく少しの解放感を得ていた。
会社には数えるほどの社員しか残っていなかった。部長や彩花の話し合いの末、社員には定時で上がってもらったのだ。浩志と治は社長室に直行し、今日のことを振り返った。どっと疲労感が押し寄せてくるのを感じていた。
「参ったな。さすが警察だ。細かく聞かれたよ」
浩志が疲れた声で笑った。治も頷く。
「経理の書類も隅々まで見られていたようだ。向こうさんもこれからさらに読み込んで、いろいろ聞いてくるんだろうな」
浩志は、深く息を吐き出した。
「大丈夫だ、治。話せば分かってくれるさ。事実は一つだから。俺たちは何も隠していないし、不正もしていない。きっと誤解も解けたはずだ」
治も、その言葉に力強く頷いた。
「そうだね。彼らも、ただ事実を知りたいだけでしょうから。ひとまずは安心といきたいもんだ」
しかし、思い出される捜査員たちの優しく冷徹な眼差し。本音を一切見せない彼らの態度は、浩志と治の心の奥底に、小さな小さな種を撒いていた。それが果たして芽吹くのか、そのまま消えていくのか……。
もちろん、この不安の種は、やがて大きな花を咲かせる。
この第1回の聴取は、木賊工業にとって、長きにわたる試練の始まりに過ぎなかった。彼らはまだ知らなかった。この「任意」という名の聴取が、やがて彼らを追い詰める「取り調べ」へと変貌していくことを。「事実」を「解釈」によって容易に捻じ曲げていく、その力の存在を。




