第四章 暗転 chapter01
月曜の朝。木賊工業一階の金属加工部では、いつもの通り、浩志が先頭に立ち、作業を進めていた。複合旋盤と呼ばれるチタン加工機の操作盤の前が定位置だ。カスタムが行き届いた相談役のお気に入りである。軽自動車ほどの大きさの中に加工機械があり、そこでチタンのパーツが削り出されていく。膨大な加工データから最適な加工方法が選ばれるため、木賊の技術の蓄積こそが財産になっているのだ。
「問題ない。川村、検査機の方はもう使えるな?」
設計、加工、そして検査。高い精度を維持する木賊の製品群は、ここから生まれていた。売上の主役の座をマイクロリアクターなどに譲ったとはいえ、相談役が立っているこここそが、今も変わらず木賊の心臓部なのだ。
事務室で書類の取りまとめ、メールによる挨拶文章をあちこちに飛ばしている彩花のもとに、父・治がやってきた。
「あやさん、あの研究室の先生……名前忘れた。先生、今月誕生日だから、お手紙とお菓子、送っておいてくれ」
自分の娘ではあるが、社内では皆に倣って「あやさん」と呼ぶ父である。
「名前が出てこないのは老化ですよ、社長! 東洋工業の内田先生ですね。研究室の皆さんで食べていただけそうなものをお送りしておきます。植田さん、なんかいいお菓子、知らない?」
話しかけられる前にネットでサイトを開いていた奈緒美が「これ!」と指し示す。
「ああ、〝焼き菓子のモグモグ〟いいね!」
「新しいクッキー缶が出たのよ。今回のも人気だって」
「住所と発送日を共有するから、そのまま注文してくれる?」
「うちの事務所用にも何か買っていいぞ。ここのみんなで食べてくれ。人も機械も、メンテナンスが大事だからな」
そう言い残して去っていく社長の背中に、合掌する女子2人であった。
同時刻、大田区の町工場群の一角。シャッターの奥で、無機質な空気が漂っていた。
「硫酸で反応開始……照射温度、設定範囲内」
工業用グローブをつけた検査官が、手順通りにボタンを押す。アイビー工機の一角に間借りした公安の実験室。製薬装置用に仕入れられていたTFCRが、むき出しのガラスケースの中で音もなく稼働していた。
「南波さん、内壁が剥離しています。ここ、触媒ホルダーの部分が黒ずんでる」
アイビー側の技師が、モニターに映し出された実験データとマイクロリアクターの拡大図を見ながら言う。PDMS製の流路が変形し、反応が停止した。今日が3度目の実験だ。
「また溶けた……失敗か……。が、5分は稼働した」
早瀬が頷く。
実証実験で実際に神経ガスを作ることはない。しかしそうした毒物の素材となる物質がリアクター内で化学反応を完了するのかどうか、そのデータが綿密に取られていく。報告メモに5分間の稼働で反応が継続、と書かれた。
「我々としては化学反応の収束までこのリアクターが安定して作動してほしいんですが、硫酸の濃度を下げられますか? 有機溶剤も、濃度を下げてください」
モニターを見ていた南波が技師に向かって言う。
「……分かりました。濃硫酸や強アルカリでなければ、耐えられるとは思います」
「お願いします」
公安が求める「リアクターが溶けない濃度と溶剤」を探す〝旅〟が始まった。警察組織といえどそこまで時間と予算があるわけではない。素材費、設備利用費は限られているため、試行錯誤は長期に及ぶ。12月に始まったこの旅は、後に木賊工業への家宅捜索が行われる秋以降も続くことになる。合言葉は、できるだけ薄く、可能な限り濃く。
「濃厚〜」
午後3時、切り分けられたパウンドケーキが奈緒美や彩花たち事務系職員、そして優子の目の前に並んでいる。数日前に注文したものが届いたのだ。
「優子さん、いい日に来ましたね」
「コンサルタントは、鼻が効かないとダメなのよ」
「これ、なにベリー? クランベリー? 酸味もあっていいねえ」
「バターが効いてるわ」
「お、いいもの食べてますね」
納品スケジュールの確認にやってきた若い技師の篠原が声を掛けてきた。
「まだあるので、一服していきませんか? 濃いめのコーヒーもありますよ!」
「じゃあ、ちょっとだけ。ほんとは2階で楽しみたかったですね」
3時の休憩、皆がこぞって事務所を空けるわけにもいかない。それでも、ほんの一瞬、くつろぎの時間がありがたい。来客用のカップに、ブラックコーヒーが注がれた。酸味と苦味の効いた黒い液体が、ケーキの甘みと社員たちの疲れを、綺麗に溶かしていった。
「……溶けないな」
大田区、アイビー工機の実験室。リアクターのフローチップ……薬剤に直接触れる部分の劣化状態を確認する。この日は5度目の実験の日だった。公安はついに辿り着いた。アセトニトリルという有機溶剤の使用が、彼らの出した「解」だった。
「木賊さんの技術はさすがですね。材質の樹脂の純度が非常に高いからかな、劣化がかなり抑えられています」
アイビー工機の検査技師は感心したように言った。その言葉を聞き逃さなかった南波は、技術者の言葉として、報告メモに書き込んだ。「木賊のマイクロリアクターは強酸・有機溶剤に対する耐性が高い」と。
押せるな、と早瀬がつぶやいた。
「樹脂製とはいえ、木賊のマイクロリアクターは神経ガス生成実験に容易に耐えうる」
早瀬と南波は、木賊逮捕に向けて、いよいよ大きな一歩を踏み出した。もちろん関係各所を説得するため、より分かりやすい実験結果を積み重ねないといけないが。
「問題は、地検か……」
竜崎薫子の意味不明な笑顔がひらひらと脳裏で踊る。ここまで来てもなお、いや、ここまで来たからか、達成感よりも緊張感が、早瀬を包んでいた。