2-1
この国は、腐っている。
いつからそうなのかはわからない。ただ、ラインハルトがこの王国で生を受け、物心がついた頃から、国を支えるあらゆるものは腐敗しきっていた。
王国は、ある一部を除いて豊かさに満ちている。貴族の暮らす貴族街は勿論、平民街もそれなりには栄えている。日々の暮らしに不便はなく、寧ろ無駄なほどに贅を尽くしていると言っていい。
行き過ぎた豊かさは、人の心を腐らせる。
豊かすぎるがゆえに、貴族たちはさらなる楽を求める。そのためには、下の者の心を容易く踏みにじっていく。平民も下民も、抗う術はない。特に下民は、貴族の過酷な使役だけではなく、平民の憤懣を八つ当たりされることもある。下民には、一切の力がない。だから誰にも、抗うことはできなかった。
本来ならば正さねばならないこの悪習も、国が差別を肯じていることで改められることはない。寧ろ、年々ひどくなっていく有様だ。貴族の生まれだからか、王ですら貴族が最も偉く、平民は貴族の労働力であり、下民は家畜程度としか見ていないようだった。
今も、この国では誰かが虐げられている。もしくは、命を落としているかもしれない。その原因を作っているのは、ほとんどが貴族だ。それでも貴族の心は、満たされない欲望が果てしなく広がり、誰かが傷ついていることすら感じることはない。
そんな貴族連中が、ラインハルトは大嫌いだった。そして、そんな奴らと同じ貴族の生まれであることが、ラインハルトは何よりも嫌だった。
「ラインハルト、聞いているのか?」
不意に届いた父の低い声で、ラインハルトは我に返った。
顔を動かさずに視線を左右に移すと、見慣れた風景が目に入る。存分に走り回れる広さがある芝生の庭園に、中央で勢いよく水を噴き上げる噴水。そして、正面で仁王立ちしている、眉間に皺を寄せて不快感を露わにした、父の渋い顔。
自分が屋敷の中庭で父に剣の手解きを受けている最中だったのを、ラインハルトは唐突に思い出した。
「は、はい、父上」
伏し目がちに言うと、父は太いため息を吐いた。
「まったく、お前というやつは。何を考えていたかは知らぬが、そんなことでは王を守る剣など到底なれまい。グランツの名が泣くぞ」
吐き捨てるように言う父の言葉に、ラインハルトは心の中で苦い顔をした。
ラインハルトは、この国の名家の一つ、グランツ家の人間である。そして父、ライオット・グランツはグランツ家の現当主であり、国王直属の親衛騎士の団長でもあった。
父は腕が立つ。人格としても謹厳実直と言えるくらいで、王や部下からは信任が厚い。ただ、家名に対しては異常なほどの執着心があるのか、事あるごとにそれを引き合いに窘めてくる。これまで何度言われたかはわからないが、お前はグランツ家の人間なのだから、と言われるたびに、ラインハルトは暗い気持ちになったものだ。
今も、気持ちは暗い。それでもラインハルトは苦さを噛み殺し、剣を構え直した。
「申し訳ありません、父上。もう一度、お願いします」
「斬り合いに移る。次はないぞ」
言って、父が低く剣を構える。隙が、まったく見えない。そう思った時には父は既に斬り込んできていて、ラインハルトは咄嗟に一歩下がって剣を受け止めた。
乾いた金属音が響く。鋭い打ち込みで、たった一撃でも手に軽い痺れが走った。しかしその余韻を気に留める暇もなく、次の一撃が来る。二度、三度と受け止め、何度かは何とかかわしたが、十度目くらいには剣を弾き飛ばされた。
飛ばされた剣に目をやろうとしたが、その前に喉元に剣先が突き付けられた。
「ここまでだな。少しは反応できるようにはなったが、まだまだだ」
剣を鞘に納めながら、父は続ける。
「お前はいずれ、騎士団長の座を私から奪わなければならない。もっと、修練を積むのだな」
言って、父はラインハルトに背を向け、屋敷へと入っていった。
それまで、ラインハルトは一歩も動けずにいた。父の後ろ姿が消えると、額に溜まっていた汗が流れ始め、いくつもの雫が顎を伝って零れ落ちていった。背も、冷たいくらいに濡れている。
一度息を吐き、ラインハルトは剣を収めた。
「大丈夫、ラインハルト?」
一息入れたのを見計らったように、異様なほどに煌びやかな衣服を纏った母が近づいてくる。
「大丈夫ですよ、母上。今日は、打ち合っただけで済みましたから」
「まったく、あの人は加減もしないで。ラインハルトの顔に傷でもついたら、どうする気なのかしら?」
「強くなるためですから、仕方がないですよ」
「それもそうよね。あなたは、名門であるグランツ家の一人息子。ゆくゆくは騎士団長になって、家名も継がないといけないものね。弱くて誰かの下で働くことになったら、それこそ名折れですもの」
母の言葉に、ラインハルトは内心苦笑した。
この母にとって、ラインハルトは己を誇示するための道具に過ぎない。いや、父でさえもそうなのかもしれない。父は名家の主で、王直属の騎士団長。しかも、この国で比類なき剣の遣い手でもある。そして自分は、その父の一人息子。かつて、騎士団に入隊してから半年も経たずに見習いを卒業し、すぐさま一個小隊を率いる部隊長となった、将来を嘱望される新鋭の騎士。
人からの評判は、母を必要以上に飾り立てる。人様に対する母の態度は、あからさまに傲岸不遜であった。
多分、根から貴族の生まれだからだろう。元々強い自己顕示欲が容易に満たされる環境を与えられたことで、よりひどいものになっているのに違いない。
言うなれば、自分たちは身を飾るための宝石の類か。母が満足する輝きを、常に求められている。
「それよりラインハルト。あなた、そろそろ」
「母上、巡回の時間ですので失礼します」
「あっ、ちょっと!」
追いすがるような母の声を背で聞きながら、ラインハルトは足早に屋敷から出て行った。
しばらく歩き、屋敷から大分離れたところで、ラインハルトは足を止めた。
「まったく、飽きない人だなぁ」
誰にも聞こえないように呟き、それから小さく息を吐いた。
母が言いかけた言葉ならば、容易に見当が付いた。どうせまた、お見合いの話に決まっている。これまで何度もそういう話に持ってこようとしてきたし、ラインハルトはそのたびに逃げた。
ラインハルトは、今年で二十二になる。騎士になったのは十八の頃で、お見合いの話はその頃から始まった気がする。ラインハルトは、立派な騎士になるまでは遠慮する、と適当な理由をつけて、今までのらりくらりとかわしてきたものだ。
お見合いに対して執拗なのは母だけで、父はどちらかと言えば反対気味だった。元々、気の緩みを一切許さない人である。妻を娶ることで、未熟であるラインハルトが惰弱になるのを避けたかったのかもしれない。
「未熟、か」
腰の剣を抜いて、一息に振り下ろす。勢いをつけたそれが空を断ち、低い唸りを上げる。自分で言うのもなんだが、振り下ろしは決して遅くはない。寧ろ、騎士団の中では群を抜くほどに速い。けれど、ラインハルトの腕は父には遠く及ばなかった。
家名に執着する父は嫌いだが、騎士団長として見るならば、ラインハルトは父をこの上なく尊敬している。
父の強さは、正直なところ常軌を逸していた。比肩する者は勿論、その足元に迫る者も殆どいないだろう。父と稽古をする騎士を時折見るが、誰も一太刀さえまともに受けることができない。国王が所望する御前試合になって、初めてまともに斬り合われるくらいなのだから、父の実力は遠く計り知れない。
その父に稽古をつけてもらい、反応できるラインハルトは、もしかしたら凄いのかもしれない。それでもラインハルトは、己を誇る気にはなれなかった。
「僕は、貴族の子。いくら努力しても、その肩書が全てを覆ってしまう。いいところも、悪いところも、僕が僕であることも」
上流貴族というだけで、人々は一歩も二歩も距離を取って接してくる。名ばかり見て、内面を見ることは決してない。それはラインハルトに限らず、他の貴族にも言えることだ。家名と出自ばかりが、いつも独り歩きしている。
この国で生きることは、ひどく息苦しかった。弱さを見せることは許されず、常に虚栄に満ちた己を晒さなければならない。それは本当の自分を見せるよりも辛く、苦しいことだ。なりたくもない存在と同様に振舞うのは、自分を殺してしまいたくなるほどの嫌悪感に苛まれる。
それでも、生きることを捨てたりはしない。ラインハルトには、その生と同じくらい、捨てられないものがある。
――いつかきっと、僕は。
暗い気持ちの中で微かに光る願いにそっと祈りを捧げ、それからラインハルトは気を鎮めるように抜いたままの剣をしまった。
少しだけ落ち着いたからか、遠くでベルの音が鳴っているのが聞こえた。
「……そういえば、今日は本売りが来る日だったかな。巡察がてらに、行ってみようか」
本を読むことが、ラインハルトは好きだった。家には数えきれないほどの本があるが、大体は読んでしまっている。この国では本を扱う商人が極端に少ないため、月に二度しか来ない本売りの存在は、なかなかに貴重なのだ。
本当だったら欠かさず行きたいところだが、任務によっては行けないことがある。ここ最近はまったく行けなかったから、新しい本とは縁遠くなってしまっていた。
新しい本を見に行ければ、いい気分転換にもなる。そう思うと、重かった気持ちが少し軽くなった気がした。
ラインハルトは、平民街へと足を向けた。
本当は、平民街の巡察は両親、特に母にきつく止められていた。別段、貴族出身の騎士が巡察しても問題があるわけではない。あるわけではないが、平民街から下は基本的に、平民上がりの下級騎士や見習い騎士が巡察を行うのが主である。
いつ頃からそうなっているのかは、ラインハルトにはわからない。ただ、勲功にもならないことを進んでやる必要はないと、上級騎士の意識の中に刷り込まれていることは知っていた。
上級騎士は、基本的に貴族などの出自に恵まれた者がなることができる。いや、少し違う。資産を持っている者が、上級騎士の座にありつける。
わかりやすく言えば、上級騎士の名を金で買う、ということだ。上級騎士になれば、三月に一度は行われる国内の巡察への同道が認められ、それだけでも武勲を上げるに等しい勲功を与えられる。そして、勲功を上げれば上げるほど、上級騎士の中の位も必然的に高いものになっていく。
ラインハルトには一切理解できないものだったが、やはり他者より高い位にいたいというのは、人の性らしい。他の騎士は勲功に繋がる任務ばかりを選び、その家族もまた、立身できるものを選ぶように促していく。
ラインハルトの両親も、おそらくそうなのだろう。父はそれとなく、母は厳しく巡察を制してくるが、ラインハルトは敢えて無視していた。
平民街を見回りながら、ラインハルトは中央広場へと向かった。本売りは、いつもそこで店を開いている。
お昼前だからか、広場にはあまり人がいなかった。平民街は、基本的に労働者が多い。お昼時までめいっぱい働いている者が多いらしく、人がいないのも当然かもしれない。
本売りの元にも、人は殆どいなかった。たった一人、灰色のローブを纏った少女が、商人の男と話しているだけである。
余程話に夢中なのか、ラインハルトが近づいても二人は気づいた素振りを見せなかった。邪魔をしては悪いと思い、ラインハルト自身も敢えて気づかせるようなことはせず、並べられている本に目をやった。
さすがに、各地を歩き回っているだけあって、まだ読んだことがない本がたくさんある。そのどれをとっても心を満たしてくれそうだが、ふと目に入った一冊の本から、ラインハルトは視線が外せなくなった。
少女と少年が手を取り合っている絵が描かれた、タイトルのない本だ。描かれている二人は幸せそうなのに、何故かタイトルはない。よくよく見ると、タイトルは背景の白色に塗りつぶされているらしく、どうやら意図的に消されたようだった。
不意に、胸がざわついた。好奇心とは、少し違う。底知れぬ何かが胸の中に去来し、ラインハルトは首を傾げた。
――何だろう。何か、変な感じだ。
困惑しながらも、ラインハルトはその本に手を伸ばした。これが原因なら、中身を見れば何かわかるかもしれない。
不意に、自分の手に別の手が重ねられた。柔らかくて、けれどひんやりとした冷たい手。驚いて隣を見ると、同じ反応をした顔がラインハルトに向けられていた。
彼女と目が合った時、ラインハルトはそれまでの気持ちの全てを忘れた。
ローブを深く被って影を帯びているが、それでもわかる整った顔立ち。だが何よりも目を引く、鮮やかな深紅の双眸。
――深紅の双眸は、混血児の証。
知識として頭で理解しているが、そんなことはどうでもよかった。とてもきれいなその瞳と、彼女の戸惑った顔に、ラインハルトは思わず見とれていた。
どれだけそうしていたのかもわからない。だが、終わりが唐突だったことは、宙に浮いた気持ちの中にいても理解できた。
凄まじい風が、ラインハルトの邪魔をするように通り過ぎた。瞬間、舞い上がる少女のフード。
「あっ」
顕になった彼女の髪色を見て、ラインハルトは思わず声を上げていた。
眩いほどに綺麗な、銀の髪。混血児ならば深紅のそれのはずだが、そのこともまた、ラインハルトにはどうでもよかった。この目に映る、燃えるような紅色と美しい銀色を持つ少女は、これまで見た何よりもラインハルトの心を奪っていた。
――きれいだ、本当に。
このまま、ずっと眺めていたい。そんな感情が湧き上がってくる。
しかし、そんなことが許されるはずもなく。
「あ、あの。本は譲り、ますから」
怯えた目を向けた少女がたどたどしく言い、素早く振り払った手でフードを直しながら、足早に去っていった。
「ちょ、ちょっと待って!」
ラインハルトが叫ぶように言うが、少女はただの一度さえ振り返ることなく、その姿を消してしまった。