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私を忘れて  作者: 千変万化
二章 「貴族嫌いの貴族」
10/125

2-2

「ちょっと困るよ、ラインハルト殿! あの子、怯えていたじゃないかい!」

 呆然と少女の後姿を見送っていたラインハルトは、商人の声で我に返った。

「あんなにじろじろ見て、憲兵にでも突き出す気かい!?」

「い、いや、そんなつもりはないよ」

 これまで聞いたことのない商人の怒声に、ラインハルトは思わず肩を竦めた。

 ここには足繁く通っているから、商人のことはそれなりには理解しているつもりだった。人の身分をまったく気にしない、優しい男。そんな印象が強かったから、今の怒声と満面を真っ赤にしてまで怒っている顔に、ラインハルトは面食らった。

「ただ、気になっただけなんだ、彼女のことが」

 少し弱い口調で言うと、商人が呆れたような顔をして、深いため息をつく。

「あの容姿だから気になるだろうけど、それにしたって見過ぎだったよ。それはもう怖いくらいだ」

「そ、そんなに……?」

「そんなにだよ」

 大きく鼻を鳴らし、商人は腕を組んでラインハルトを睨んでくる。

 参ったな、とラインハルトは肩を落とした。確かに眺めすぎていたのは否めないが、そこまで言われるほどという自覚が、ラインハルトにはなかった。商人がそう感じたのならば、きっとあの少女は、もっと怖がっていたに違いない。

 商人は、もう一度深く息を吐いた。それが尚更、ラインハルトに自責の念を覚えさせる。

「それでラインハルト殿、横取りしたものはどうするんだい?」

「えっ……?」

「その手にあるものだよ」

 呆れ顔で、商人が視線を向ける。

 その方に目を向けると、先の題目がない本が手に握られていた。商人の言うとおり、結果として少女から本を奪った形になってしまっている。

 あの時の怯えた彼女の姿は、まだ目に浮かぶ。それを思うと、ラインハルトの胸は深く傷んだ。人としては勿論、騎士としても自分の行動は恥ずべきものだ。人々の安寧を守る騎士が、女の子を怯えさせ、あまつさえ本の横取りをしたなど、名折れもいいところだ。

「……買うよ。買って、あの少女に渡す。僕は、ほんの少しこの本が気にかかっただけなんだ。本当に欲しがっていた人から、横取りする気はないよ」

「そうかい。でも、あの子の居所はわかるのかな?」

「そ、それは……」

 言葉に詰まり、ラインハルトは俯いた。今日会ったばかりの少女の居所など、わかるはずもなかった。

「……あの子は、下界近くにある公園に時々いるよ。いついるかまでは、わからんが」

 戸惑って俯くラインハルトを見かねたのか、商人は困ったような笑みを浮かべながら教えてくれた。

 下界近くの公園となると、この中央広場よりもさらに奥ということになる。下界と貴族街を離したいがゆえに作られた公園で、ここからは少し距離があるが、時間がかかりすぎるほど離れているわけでもない。速足でいけば、すぐにでも辿り着けるだろう。

 ――また、彼女に会えるかもしれない。

 それを思うと、いやでもラインハルトの気は急いた。

「明日行ったら、会えるかな?」

「どうだろうか。あの子は塞ぎ込みやすいから、もしかしたら何日も外に出ないかもしれない。何しろあんなに怯えていたし、本を買うこともできなかったし。楽しみにしていただろうに、まったく……」

 冷たい目をラインハルトに向け、商人はまた溜息をついた。

 ラインハルトは、ただただ頭を下げるしかない。愚痴のようにねちねち言われるのも、自分が蒔いた種だと諦めた。

「もしも本当に会いたいなら、次の機会にここへ来てみることだね。彼女は、必ず本を見に来るから」

「あっ、うん。その日は確か非番だから、必ず行くよ」

 ぼんやりと自分の予定を頭の中で確かめながら、ラインハルトは力強く言った。

 店主が呆れたように溜息を吐いたが、そんなものは気にもならない。会う機会はある。それだけが、思考を支配していた。

 それからラインハルトは、自分が読むための本を二冊加えて買った。歴史物の小説と伝記である。本当はもっと買いたいところだが、少女への引け目もあって手は伸ばせなかった。

 頭を一度下げて、ラインハルトはこの場を後にしようとする。だが、肝心なことを聞き忘れているのに気付き、ラインハルトは勢いよく商人に向き直った。

「あの子の名前って、なんて言うのかな?」

「やれやれ、最初に聞いておくものだよ、それは」

 呆れたように困った笑みを浮かべながら、それでも商人は答えてくれた。

「アリー。それが、彼女の名さ」

「アリー……。わかった、ありがとう」

 もう一度頭を下げて、ラインハルトは商人に背を向けた。

「アリーさん、かぁ」

 貴族街に戻る途中、ラインハルトは何度もその名を呟いては、先の出来事を思い返していた。

「……悪いこと、しちゃったな。怯えさせるなんて」

 思い返すたびに、溜息が出てくる。割り切ってしまおうにも、あの顔がよぎるたびに、深い罪悪感が胸を突き刺してくる。しかし心のどこかで、その顔にさえ見とれている自分がいるのも、どうしようもなく駄目でありながらも事実だった。

 これまで、こんな気持ちを抱いたことなど、一度もなかった。身なりを整え、きれいにおめかしした女性ならば、それこそ腐るほど見てきた。けれど、ラインハルトの心を揺り動かした者など、ただ一人もいない。

 アリー。その名をもう一度呟いてみる。それだけでも、胸が少し締め付けられた。

 ――僕は、どうすればいいのだろう。

 この気持ちの正体が何なのかぐらい、ラインハルトにだってわかる。しかし、出会い方が悪すぎた。仮にうまくもう一度会えて、本を渡せたとしても、状況が好転するとは到底思えない。

 深い溜息をつきながら歩いていると、どこからか口論が聞こえてきた。その方へと目を向けると、少し遠くで二人の騎士が言い争いをしているのが目に入った。声は相当大きく、離れたこの位置でもラインハルトにはよく聞こえた。

 片方は煌びやかな装飾を施した鎧を纏う、見るからに貴族出の上級騎士だ。もう片方は褐色の肌と尖った耳を持つ、粗末な鎧をつけた騎士である。

 彼はおそらく、魔族の生まれなのだろう。人間族が幅を利かせるこの国では、魔族の立場はいくらか厳しいものがある。騎士の位は、ある理由によって平民出よりは上がりやすいが、何分その出自は、貴族によく思われていない。寧ろ、嫌悪する者のほうが多かった。

「魔族出の下級騎士風情が、汚い足で貴族街を歩き回るなよ! ここは、お前たちのような屑がいていいところじゃないんだよ!」

「ふざけるな! 俺はれっきとした上級騎士だし、巡回だって任務だってちゃんとこなしている。お前にそこまで言われる筋合いはない!」

「ふん、汚らわしい魔族風情が、そもそも騎士団にいること自体が間違いなんだよ! 所詮馬鹿力しかないお前ら魔族など、鉱山にでも籠っているのがお似合いなんだ!」

「何だと!?」

 魔族の騎士が掴みかかろうとしたが、その前に上級騎士の拳が顔面を捉えていた。

 倒れ込む騎士に、上級騎士は躊躇なく蹴りを浴びせていく。

「お前たち魔族がいるだけで、かつてこの国は腐っていった。そんなこともわからず、まだのうのうとこの王都で暮らしてやがる。いい加減に理解しろよ! お前たちの存在だって、この国では罪なんだよ!」

「ぐっ……!」

 蹴りが入るたびに、騎士の顔が痛みで歪む。酷く咳込み、騎士が何回か血を吐いた。それでも構わず、上級騎士は蹴りを浴びせ続けていく。

 見ていられず、ラインハルトはその方へと駆け出した。いや、もう既に駆けている。騎士が殴られた時点で、ラインハルトは上級騎士への怒りが沸き立ち、体が勝手に動き出していた。。

 二人との距離が瞬く間に近づいていく。ラインハルトが近づいてくるのに気付いたのか、上級騎士が蹴るのをやめてこちらに怪訝な顔を向けてきた。その間にも、距離は近づく。あと五、六歩程度か。

 不意に鈍い音が聞こえ、ラインハルトに向けていた顔が、酷く歪んだ。そう見えたのは一瞬だけで、鈍く響いた音を追うように、上級騎士の体は宙を舞っていた。

 上級騎士が石畳の床に叩きつけられ、小さく呻き声をあげる。唐突な出来事に面食らい、ラインハルトの足は止まった。だが、上級騎士に代わってその場に現れた二人の男の姿を認め、ラインハルトは思わず笑みを浮かべた。

長身で足がすらりと長い茶髪の男と、その男ほどとは言わずとも似たような身丈の黒髪の男だ。いずれも、騎士の格好をしている。二人もまたラインハルトの姿を認め、表情を緩めていた。

「やりすぎだぞ、ジョシュア」

 上級騎士を殴った茶髪の男に、ラインハルトは声をかけた。

「それは、俺に言うセリフじゃないな、ラインハルト」

 肩を竦めて苦笑しながら、ジョシュア・アルベールは言った。

「発破かけたのは、こいつさ」

 右手の親指で、びしっと隣の男を指す。黒髪の男は、目にかかった前髪を手で払ってから、鋭い目つきで殴り飛ばされた男に目をやっている。

「ふん、馬鹿にでかい声で、低俗な言葉が聞こえたからな。思い知らせてやれと言っただけさ」

「言葉が足りないぞ、ヨハネス。顔の形が変わるくらい思い切りやれ、って言ってたよな?」

 覚えがないな、とヨハネス・フランドルがそっぽを向きながら言った。

 ジョシュアとヨハネス。この二人が、ラインハルトにとっての本当の意味での親友である。幼い頃から共に研鑽を積み、騎士団に入ってからも変わらぬ友誼を保ってきた。そして何より、絶対に叶えたい同じ理想を、胸に抱いている。

「ううっ……」

 呻き声をあげて、上級騎士がおもむろに立ち上がった。ふらつく足取りながら、殴り飛ばしたジョシュアをきっと睨みつけている。

「貴様、僕を殴ってタダで済むと思うなよっ! 僕は、名家の生まれなんだ! お前たちなんかと、生きている世界が違うんだよっ!」

「名家、ねぇ」

 ジョシュアが、鼻で笑う。ヨハネスも同じようにしている。

「どうでもいいじゃないか、そんな肩書。安いものだろ?」

「何だとぉ!?」

「ふん。俺たちだって名家の生まれだが、誇らしく思ったことなど一度もないな。寧ろ、恨んだことさえある。お前のような能天気には、わからんだろうが」

「め、名家の生まれだと……?」

 言って、上級騎士は二人の正体に気づいたらしい。この国の名家中の名家、フランドル家とアルベール家の子息である二人は、それなりに名も顔も売れた騎士だ。フランドル家は交易全般を差配し、流通の道を守っていて、アルベール家は多くの人材を見出しては腕利きの騎士を育て、国を守る盾をどこよりも多く輩出している。当然、貴族の中でも相当高い地位を与えられていて、その上にいる者など数える程度しかいない。

 上級騎士が真っ青になった顔を抑えながら、逃げるように走り去っていった。去り際に、覚えていろと言っていたようだが、誰もそれを気に留めている風はなかった。

「さて、邪魔者は消えた。大丈夫か?」

 ジョシュアが倒れている騎士に手を差し伸べる。しかし騎士は、その手を思い切りはたき、よろよろと自分で立ち上がった。

 空気が、一気に張り詰める。ぼろぼろの騎士が、ジョシュアに向けて鋭い気を放っていた。

「恩を売ったなんて、思うなよ。お前らだって、心の底では魔族の俺たちを蔑んでいるに決まってるんだ」

 ジョシュアもヨハネスも、何も言わなかった。ラインハルトだってそうだ。この場で何を言っても白々しいものになることは、誰もがわかっている。

 一度小さく舌打ちし、騎士は震える体を押さえながら、ゆっくりとこの場を去っていった。

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