7-6
森の中を、アリーは馬上で揺られながら、ラインハルトと進んでいた。
国境のある所から、丁度真東に向かって進んだところにある森の中である。国外に逃げるのを諦めてから、既に三日は経っていた。
この国の外へ逃れられない以上、国内を逃げ回るしかないと言ったラインハルトは、ひとまず森に逃げようと提案してきた。確かに森の中は人目に付きにくく、格好の場所と言える。
しかし、奇しくもそこは、アリーが目指していた場所の一つでもあった。
目的の場所に辿り着いたら、アリーは嫌でも白昼夢の中へ足を踏み入れるだろう。そうなれば、最後の記憶が蘇ってしまい、アリーの意識は多分、消える。
そのことを、アリーはラインハルトに言えずにいた。自分のために必死になってくれるラインハルトを、追い詰めるようなことはできない。
大きな不安を抱えながら、アリーはゆっくりと過ぎていく景色を眺めていた。
人の往来があまりないのか、道は申し訳程度しか整備されていない。馬が駆けて行くには細々としたものがたくさん落ち過ぎていて、イデアルはゆっくりとしか進めない。
時々、ラインハルトが剣を振っては、顔に当たりそうな枝を斬り落とした。それほど、この森は鬱蒼としている。
森の奥に何があるのかは、二人とも知らなかった。ただ、地図の上では開けた場所に村があるようで、ひとまずそこを目指すことにした。さすがに、森の奥までは人相書きが出回るとは思えないからだ。
馬上に揺られている間、アリーは蘇った記憶を、なぞるようにして思い返していた。
記憶を思い返すと、どこか抗いがたい力が、体の内から湧き出してくる。冷たい感情が、顔を覗かせる。そして、怨嗟の声が響きだしてくる。
この国が憎い。こんな国なんか滅ぼしてしまえ。魔女の暗い響きを持った声が、アリーの耳に届く。その言葉は、心を締めつけるような痛みに満ちている。
その声が、ある時ふと変わった。
――たった一人で、寂しいよね。居場所がなくて、辛いよね。
優しい声音の、女性の声。一人や二人ではない、何人もの声。多分、魔女となってしまった少女たちの声だ。何故かはわからないが、その声が甘い響きを持って、何度も耳朶を叩く。
――私たちが、あなたと一緒にいてあげる。ずっと、ずっと。だから、おいで?
傍で、手が差し伸べられている。そんな錯覚に陥ってしまいそうなほど、その声はアリーの心に優しく寄り添ってきた。
耳元で囁くような感じが、アリーを束の間惑わせた。甘美な誘惑に何度か従ってしまいそうになり、意識が途切れそうな時もあった。
それでもアリーは、あと一歩のところで抗った。自分にも、そんな思いがなかったわけではない。しかし、言葉がよぎるたびにアリーは頭を振っては、つい最近まで続いていた生活を思い返した。
特に思い浮かぶのは、童話を読んでほしいとせがんでくる子どもたちだ。今頃どうしているだろう、と思うと、アリーを引きずり込もうとする声は、ぴたりと聞こえなくなった。
今も、甘い誘惑を振り払ったばかりだ。しかし、アリーがほっとするのも束の間で、今度は違う声が耳元で囁いてきた。
「アナタは何故、ミンナと違って抗うの? アナタだって、辛い日々を憎んでいたくせに」
声が、頭の中に響いて来る。多分、ラインハルトには聞こえていない。
知らない間に隣をふわふわと浮きながら着いて来ている魔女と目が合い、アリーは少し言葉に詰まり、瞳を伏せた。
確かに、これまでの日々を憎んでいなかったと言えば、嘘になる。人と違うがゆえに、辛く苦しい日々を送らざるを得なかった現実。他の子どもたちが仲良く楽しそうに遊んでいるのを、ただ遠くから眺め、隠れて涙を流した幼い頃。居場所を与えてもらえなかった、差別に満ちた日々。
そして、自分がいたせいで、父も母もいなくなった。アリーを守るために命を落とした父と、アリーを生かすために苦労を重ねすぎて命を失った母。二人とも、アリーが死なせたようなものだ。
それらの思いは時が経つにつれて痛みを増していき、いつしかアリーの心を希薄にしていくには十分すぎた。
――けど、私は。
この国の全てが、嫌いなわけじゃない。
自分の思いを整理し、アリーはゆっくりと瞼を上げ、まだ覗き込んできていた魔女の顔を見つめた。
魔女が、少し怪訝な顔をしている。
アリーは、頭の中で語りかけた。
「あなたの言うとおりだよ。私は、過ぎていった日々を憎んでたこともある。けどね、それがこの国を滅ぼしたいっていう気持ちにはならないんだ。どちらかと言えば、なくしてしまいたかったのは私の命。私がいたせいで、父様も母様も死んじゃったから」
涙が、自然と零れてきた。言葉にするのが怖かった自分の思いを耳にして、心が張り裂けそうなほどに痛んでいる。
「どうして? そんなに辛いなら、抗う必要なんてないじゃない。こちら側に来れば、少なくともアナタは苦しまなくてすむ」
「そうかもしれない。だけど、あなたたちと一緒になってしまったら、私はきっと、この国を滅ぼしちゃう。それは、いやなの。とっても大切な人がいる場所を、私はなくしたくないの」
「でも、国はアナタの命を狙ってる。アナタがどう思っていようと、必ず追い詰めてくる。それでも、思いは変わらないの?」
「変わらないよ。たくさんの人が、困っちゃうもの。それにね」
微かに笑みを浮かべながら、アリーは言葉を継ぐ。
「この国を滅ぼしたら、あなたの思い出さえも一緒に奪ってしまうから」
魔女は目を丸くしながら、しばらくアリーを見つめてきた。
「……わからない。アナタはワタシのはずなのに、アナタのことがわからないよ」
ぽつりと呟くように言ってから、魔女は動きを止め、寂しげに姿を消した。
消えてしまったその姿の名残を探すかのように、アリーは少しの間、後ろを向き続けた。
その間にも、イデアルは休むことなく足を進めている。
「結構進んだつもりだけど、まだ見えないね。思ったより、この森は深そうだ」
地図を片手に見ながら、ラインハルトが言った。
「そうだね。景色があんまり変わらないから気づかなかったけど、もうお昼が近いんだね」
頭上を見上げながら、アリーは言った。
生い茂る葉の隙間から見える太陽は、真上に大分近づいていた。この森に入った頃は、まだ日はあまり高くなかったはずだ。優に、一、二時間は駆けていることになる。
そのことに気づいたラインハルトが、イデアルを止めた。馬から降りると、ラインハルトは携帯している道具でイデアルを手入れし、水を与え始めた。
アリーは丁度あった小さな岩に腰を下ろし、水の入った筒に口をつけた。いくらか乾いていた喉が、少しだけ潤う。
ラインハルトは水も飲まずに熱心にイデアルを手入れしていたが、その動きがふと止まった。
「どうしたの?」
不思議に思って聞くアリーを、ラインハルトは口元に人差し指を当てて制した。表情に緊迫したものが浮かんでいて、アリーは口を抑え、じっと動かないように努める。
ちゃんと耳をすませば、足音が聞こえてくるのはすぐにわかった。六人。それも、すぐ近くまで来ている。
近くの茂みが揺れ、先頭の男が姿を現した。瞬間、ラインハルトが腰の剣に手をかけ、一息に引き抜いた。
「むっ、騎士か!? 何故こんなところに!」
大声で言った男が剣を構え、続いていた男たちが異変に気付いて駆けつけてきた。やっぱり、六人いる。
ラインハルトは動かず、少し戸惑った顔をしていた。相手が騎士の格好ではなく、猟師のような身なりをしていることに、追手であるかどうかを判断しきれていない感じだ。
男たちも、ラインハルトが動かないから、迂闊に踏み込めずにいた。この森の中で、多人数が剣を振り回すのは、少し無理があるのかもしれない。
少しの間、この場は膠着した。重苦しい空気が広がり、息がうまくできない。
男たちの一人が、ちらりとアリーのほうに目を向けた。座ったまま彼らを見ていたアリーは、その目と合った。瞬間、男が驚いたように息を呑み、アリーに視線を巡らしだした。
アリーは、自分が今、フードを被ってないことに気づいた。いつ脱げてしまったのか、わからない。当然、今更直しても遅い。
「ま、魔女様だ。あの容姿、間違いなく魔女様だ!」
その男が驚いたように言い、他の男たちからどよめきが上がる。放たれていた重い空気は、瞬く間にどこかへと消えた。
六人とも、尖った耳と紅い瞳を持っている。混血児だ。大分長く生きているのか、顔には深い皺が刻み込まれている。
一人がいきなり片膝をつき、あとの五人もすぐにそれに倣った。
あまりにも突然のことで、アリーもラインハルトも戸惑いを隠せなかった。




