6-8
翌日、日が昇りきる前に出発した。
追手が差し向けられている以上、悠長に構えている暇はない。できるだけ早く行動すべきだというラインハルトの意見に、アリーは素直に従った。
どこに向かうかは、出発前にすぐに決めた。川を越えていくらか行ったところに、奇しくも目的地の一つの村があるはずである。一夜では人相書きなども出回っていないだろうから、ひとまずそこを目指すことにした。
路銀はあるが、食料は殆ど宿屋に置いてきてしまっていた。手元に残っていたのは小さなパン二つだけで、食料の調達はそこでするしかない。小さな村だからと言って、一日分の食糧ならば何とか贖えるだろうというのがラインハルトの意見で、アリーもそれしか思い浮かばなかった。
小さなパンは、二人で一つずつに分けて、ゆっくりと噛みしめるようにして食べた。元々小食であるアリーはそこそこお腹が膨れたが、ラインハルトはいくらか物足りないようで、鳴ってしまうお腹を抑えながら苦笑していた。
その様に小さく笑みをくれ、それからふと空を見上げた。
空は雲一つなく、風もない穏やかな天気だ。いつもならば清々しい気持ちになるのだが、アリーの心は冴えない。
目が覚めてから、アリーはずっと胸騒ぎがしていた。何に対してかはわからない。ただ、前へ前へ進むにつれて、それが大きくなるのを確かに感じていた。
アリーの様子に気づき、ラインハルトが何度か声をかけてくれたが、アリーは何でもないかのように振舞った。これ以上、ラインハルトに気苦労をかけさせるのは忍びなかった。
ラインハルトは訝っていたが、あまり深く追及はせず前へと向き直り、イデアルの馬腹を蹴った。
少し速足になり、景色が次々と移り変わっていく。
日も昇りきってなくて少しひんやりする風を感じながら、アリーは嫌な感じを忘れるように、しばらくぼんやりとしていた。
村に辿り着いたのは、日が中天をいくらも過ぎた頃だった。
「なんだか、静かなところだね」
中をきょろきょろと見回しながら、アリーは呟くように言った。
地図に載っている村だからか、家の数は少し多かった。暮らし向きは貧しくないのか、そのどれもがいくらかしっかりしたものが建てられている。育てているだろう農作物の畑は広い方で、たくさんの緑が精一杯太陽に向かって背伸びしている。
けれども、肝心な人の姿が、入口からはほとんど見られなかった。二人か三人は見かけはしたが、その顔はどれも深く沈んでいた。
「妙だ。この静まり具合は、不自然すぎる」
ラインハルトの言葉に、アリーは頷いた。村の奥に行けばもっといるかもしれないが、それにしても静かすぎる。
ラインハルトが、見かけた村人の一人を捉まえて、訳を聞こうとする。しかし、騎士の姿を見ただけでその人は顔を引きつらせ、一目散に逃げてしまった。
呆気に取られるラインハルトの顔が、険しいものに変わった。
「……嫌な予感がする。奥に行ってみよう」
「う、うん」
アリーが頷くと、ラインハルトはイデアルを繋ぐこともせずに、速足で進み始めた。イデアルが、その背を気持ち速足で追いかけていく。
アリーは、一瞬足が動かなかった。ラインハルトから刺々しいものを感じて、ほんの少しだけ怯えていたのだ。けれどアリーは何とか足を動かし、彼の後をついて行った。
奥へ奥へと進んでいっても、ほとんど人とすれ違わない。立ち並ぶ家々が、寂しげに佇むばかりだ。
さらに進むと、一人の男とすれ違った。ぼろぼろの着物に身を包んでいる、顔が少し汚れた男だ。その男が、すれ違いざまにぽつりと呟いた言葉が耳に届く。あいつらの仲間か。怯えて震えていたその声は、ひどく暗い響きを持っていた。
「ねえ、ラインハルト」
「うん、僕も聞こえていたよ。どうやら、許しちゃいけない奴がいるみたいだ」
低く重い声で、ラインハルトが言った。
ラインハルトの横顔は、いつになく鋭いものだ。目尻が吊り上がり、先を見据える瞳は獰猛な光を放っている。それが、少し怖い。
怯えを隠すように、アリーは自分の体をそっと抱きしめた。
やがて、人だかりができている広場のような場所を、二人は見つけた。
「あっ、あれ」
アリーは、遠くに見える一点を指さした。
遠目ながらも見える、騎士のような人たちが多くの村人を縛り上げ、荷車に乗せている光景。乗せられているのは大体が若い男女で、何人かの年寄りたちが、うろたえながら騎士に何かを訴えかけている。
騎士の一人が、老人に剣を突き付けた。腰を抜かして座り込む老人に、その騎士は容赦なく蹴りを浴びせていく。
ぎりっと、歯ぎしりする音がラインハルトから聞こえた。少し驚いてアリーはその横顔を見ると、ラインハルトの口の端から、赤いものが一滴零れていた。
「先に行くよ、アリー」
答えを聞くよりも早く、ラインハルトが駆け出す。鎧を着ているのに、物凄い速さだ。あっという間に、その背中は小さくなっていく。
アリーが急いで追いかけようとすると、イデアルがこちらに顔を向け、小さく鳴いた。乗ってくれと言っているようで、アリーは小さく頷き返すと、その背にできるだけ早く乗った。イデアルに乗って旅をしているとはいえ、一人で馬に乗るのはまだまだぎこちない。
イデアルが、気持ち早く駆けていく。その間にもラインハルトは駆け続け、広場に躍り出ていた。
指揮をしているだろう騎士が、ラインハルトに気づいて顔を向けた。他の騎士たちも気づいたのか、村人を縛り上げる手を止めている。
ラインハルトが、その騎士に目がけてまっすぐ突き進んだ。もう、ほとんど距離はない。
お前は。騎士が声を上げた刹那、ラインハルトが駆ける勢いそのままに、拳を突き出した。鈍い音を立て、その顔が酷く歪む。騎士の体が、束の間宙を舞った。
「一体何の真似だ、これは!」
アリーが広場に着いた時、ラインハルトの大音声が響き渡った。色めき立った騎士たちの体が、びくりと震えてぴたりと止まった。
殴られた騎士が、顔を押さえながらゆっくりと体を起こす。騎士が鼻から溢れるように出ている血を手で拭いながら、キッとラインハルトを睨みつけた。
「あっ」
アリーは、騎士の顔を見た途端に、小さく声を上げた。
血に塗れてはいるが、その顔には微かに見覚えがあった。ずっと前に、商人にたくさんの本を売っていた男の顔が、ぼんやりと浮かぶ。アルベール家に所縁のある者で、ジョシュアの弟、だっただろうか。
ジョシュアの弟というだけあって、少し顔が似ている。背も、とても高い。だが、雰囲気はまったく似ていない。ラインハルトに向ける敵意の中からも、はっきりとした傲慢さが見え隠れしていた。
「ら、ラインハルト・グランツか。貴様、俺の邪魔をするのか!」
「邪魔だと? 村人を無理やり連れて行くことが、お前の任務だというのか、ジョージ・アルベール!」
「違うな。この村は、俺の所有物だ。つい最近からだが、俺がこの近辺を統括しているのでな。つい先刻、賊徒どもからこの村を守ってやって、その見返りを頂戴しているまでだ」
下卑た笑みを、ジョージと呼ばれた騎士が浮かべる。あの時と同じ、あまり気持ちのいいものではないものだ。
怒りに震えるラインハルトが口を開こうとしたが、それよりも早く、ジョージが言葉を継いだ。
「知っているか、ラインハルト。ここらの村は、どいつもこいつも騎士を侮蔑してやがる。騎士が国を守ってやってるというのに、こいつらにはその自覚がねえ。それどころか、搾取しているだけと思っているのさ。ふざけたことだと思わないか?」
俺は思う、と間髪入れずにジョージが答え、さらに言葉を紡ぎだす。
「ちょっと前の話だ。拠点を構えたばかりで、少しばかり人が足りないから貸してくれと言った時、こいつらはなんて返したと思う? あんたらに、これ以上渡すものはない、だとよ。初めて来た時にそう言われるとは、さすがに笑っちまったな」
高々と笑って見せるジョージの目は、しかし全く笑っていない。
「だから、無理やり奪っていくことにした。丁度良く賊が襲って来たから、返り討ちにして守ってやったからな。その見返りとして、こいつらを貰っていく。反抗する奴を一人か二人斬ってやれば、大抵おとなしく従うものさ」
「斬ったのか、何の罪もない村人を……!」
「はん。貴族にもなれない人間の命など、取るに足りないものなんだよ。俺たちに使われて初めて、こいつらはモノとして価値が生まれる。それまでは、ただのデク人形だ」
ジョージが、片手を上げる。配下の騎士が、近場にいた老人に剣を振り下ろした。
思わず目を覆い、アリーは顔を背ける。束の間訪れた暗闇の中で、風の唸り声と共に、乾いた金属音が聞こえた。次いで漏れる、男の呻き声。
恐る恐る目を開けると、ラインハルトが剣を弾き飛ばし、相手の騎士の喉元に剣を突き付けている姿が映った。
唖然としていたジョージが、声を荒げて他の騎士たちにも怒鳴るように指示を飛ばす。三人ほど剣を抜いて老人たちに襲い掛かろうとしたが、目にも留まらない速さで、ラインハルトはその剣を叩き落していった。
誰かの口から、感嘆の声が漏れる。それほど、ラインハルトの動きは凄まじかった。
半ば呆然としたジョージに、ラインハルトが瞬きする間に近づいては、剣を突き付けた。
「これ以上、身勝手を働くな。さもないと、僕がお前を斬る」
ラインハルトのものとは思えないほどの、冷たく低い声。ラインハルトは本気だ。本気で、斬るつもりでいる。
ジョージもそれを悟ったのか、顔を強張らせて一、二歩後ずさる。配下の騎士たちも、同様にラインハルトから離れていく。
「……こ、ここで無理を通しても、俺が損するだけだな。わかった、今日のところは何もせずに引き上げよう。いや、今後は何も無理強いしないと誓う。だから、剣を下げてくれ」
「本当だな?」
「ほ、本当だ。おい、お前ら、いつまでこいつらを縛っている! さっさと解放しろ!」
ジョージの声に、騎士たちが弾かれたように動き出し、村人の縄を外していく。
やがて、全員の縄が解かれた。ジョージが、これで満足だろう、と言わんばかりに引きつった顔をラインハルトに向ける。ラインハルトは、ただ頷くだけだ。
ラインハルトが剣を下げると、ジョージは逃げるように配下を引き連れて村から去って行った。
「あれ」
アリーは、不可解なものを見た気がして、首を捻った。逃げるジョージの顔に、嫌な笑みが浮かんでいる。一瞬のことだが、確かにそれを見た。
何だろう、と気にする間もなく、思念は湧き上がった歓声に掻き消された。
「ありがとうございます、騎士殿。危ないところをお救い下さって。また、奪われてしまうところでした」
長老らしき老人が、恭しく頭を下げながら言った。
「いえ、僕は彼と同じ騎士として、謝らなくてはならない。人々を守る騎士が、こんなことをしていいはずがない」
「いや、元はと言えば、頑なにあの騎士の要求を突っぱねた我々がいけなかったのです。前任の騎士が治めていた頃から、ここいらの村はひどい搾取を受けていて、騎士には過敏な態度を取ってしまって」
「でも」
まだ言い募ろうとするラインハルトを、長老が首を横に振って制した。
「あなたが自身を責めることではありません。あなたが悪いわけでは、ないのですから」
長老が寂しげにそう呟くと、ラインハルトは言葉に詰まったのか、何も言わなかった。
「それよりも、見たところ旅の途中のご様子。お連れの方と一緒に、休んでいかれてはいかがですかな?」
「そうさせてもらえればありがたい。あと、できれば食料をいくらか恵んでもらえれば、助かります」
「勿論、お安い御用です。ですがその前に、皆からあなたに言いたいことがあるようですぞ」
長老の言葉が終わるのと同時に、ラインハルトをたくさんの人が囲んだ。その誰もが、感謝の言葉を口にしていた。
「い、いや、僕は当然のことをしたまでで……」
ラインハルトの言葉が、妙に弱弱しい。顔は、異常なくらいに真っ赤だ。
村人に感謝され、いつになく照れるラインハルトを、アリーは珍しいものでも見るような思いで眺めていた。
どこか、気持ちが穏やかになって来る。そんな気持ちでいたからか、先程のジョージの嫌な笑みのことを、アリーは忘れてしまった。




