5-3
アリーは、平民街から外に繋がる入口の前で、ラインハルトを待っていた。
空はまだ薄暗く、日も顔を出してからあまり経っていない。人の出入りも、どこからか仕入れをしてきた人たちが何人か通っていく程度だ。
昨日の夕暮れにラインハルトが現れて、待ち合わせの時間を告げてきた。少し早めの時間にアリーは戸惑ったが、人目が少ない時間のほうが目立たないで済むというのが、ラインハルトの意見だった。
目立たずに済むのは、アリーとしては望んでいたことでもある。だから、戸惑いはしたが、拒絶することはなかった。
「遅いな、ラインハルト」
少し明るくなりつつある空を眺めながら、アリーは不安げに呟いた。
約束の時間は、いくらか過ぎている。あともう少ししたら、人の出入りも増えてくるだろう。
時間を間違えただろうか。ちょっとだけそんな不安がよぎったが、アリーはそれを振り払った。昨日の夜、何度も何度も、頭の中で確認したのだ。間違っているはずがない。
「きっと、もうすぐ来るよね」
呟いて、アリーはラインハルトを待った。
そっと吹き抜ける風が、少し冷たい。春真っ盛りとはいえ、朝晩はまだまだ冷え込む日が多い。それなのに、防寒具になるようなものは、中に着るものしか持っていなくて、顔や手がとても冷たい。何もつけていない手に息を吐きかけ、アリーは少しでも寒さを紛らわせようとした。
慌ただしい足音が聞こえてきたのは、それから少ししてからだった。
俯いていた顔を上げ、アリーは目の前で肩で息をしている人に、視線を投げかけた。その人は、ばつが悪そうに苦笑している。
「ごめん、アリー。待たせちゃったね」
息を整えてから、ラインハルトが気持ち小さい声で言った。
「ううん、私も来たばかりだったんだ。だから、気にしないで」
「そ、そう? 良かった」
「何が良かっただ、愚か者」
一瞬安堵の表情を浮かべたラインハルトの頭を、いつからいたのか、ヨハネスが思い切り叩いた。少し鈍い音が鳴り響き、ラインハルトが頭を抱えてしゃがみ込む。
「な、何をするんだ、ヨハネス……」
「俺に面倒事を押し付けただけでは飽き足らず、あまりにも鈍感なのでな。見ろ」
「あっ」
ヨハネスが唐突にアリーの手を取ってきて、アリーは思わず小さな声を上げた。
握られた手は、とても温かかった。少し震えていた手が、動きを止める。
「冷たいな。ラインハルト、お前を大分待っていたのだろう。それくらい、ちゃんと察してやれ」
「う、うん。ごめん……」
頭をさすりながらラインハルトが立ち上がり、持っていた袋から手袋を取り出して、差し出してきた。
「気づかなくて、ごめん。今更だけど、これを貸すよ」
差し出されたのは、赤の毛糸で編まれた手袋だった。鮮やかすぎる色で、あまりにも目立つが、毛糸の手袋はとても温かそうである。ちょっと寒くて、少し辛かったから、アリーはあまり迷わずにその手袋を受け取っていた。
「ありがとう。あと、嘘ついちゃってごめんね。本当は、ちゃんと時間通りに来たんだ」
「そうだったんだね。本当にごめん。一人、挨拶を済ませてない人がいて、ちょっと時間を食っちゃったんだ」
「挨拶だけじゃなかったからな」
言ったヨハネスの顔は、不機嫌で仏頂面になっている。
「こいつ、昨日それとなく言い出したかと思えば、そいつの稽古を俺に押し付けてきたのだ。朝早くについて来てくれというから一緒に行ったら、まったく。厄介な面倒事を増やされた」
「そう言うなよ、ヨハネス。彼は強い。君にだって、いい刺激になるはずだ」
「そういう問題ではないのだよ」
ヨハネスがもう一度ラインハルトの頭を叩き、また鈍い音が響いた。
うずくまって小さな声を上げて痛がるラインハルトをよそに、ヨハネスがアリーに一歩歩み寄った。
少し高い所にある双眸に目をやり、アリーはちょっとだけ頬を膨らませた。
「あんまり叩いちゃダメだよ、ヨハネス。痛そうだよ」
「ふん。こいつにはこれくらいがいい薬だ。ここから先、本当に見なきゃいけないものはいくらでもある。見落としてはならないものもだ。一発二発の痛みでそれが学べるなら、安いものだろう」
全く悪びれた風がないヨハネスに、アリーは少し困ったように笑った。ヨハネスとは、こういう人だった。ちょっと不器用で、うまく態度に示せない。だからこういう風に少し荒っぽいこともするが、それは相手のことをちゃんと思っているからでもある。
――でも、やっぱりやりすぎだよね。
口の中で呟いて、アリーはもう一度困ったように笑った。
「それにしても、お前も旅に出るのだな」
「うん。私ね、やらなきゃいけないことがあるんだ」
そうか、と呟き、ヨハネスが俯きがちに考えるような素振りを見せた。
その様に、アリーは小首を傾げた。
「……お前が何をしたいのか、俺は知ろうとは思わん」
少しの沈黙の後に顔を上げたヨハネスが、アリーをしっかり見据えてくる。
「だが、お前が後悔しない旅になることぐらいは、祈ってやる」
友達だからな、と付け加えたヨハネスの顔は、少しだけ赤くなっているように見えた。
――やっぱり不器用な人なんだね。
アリーはちょっとおかしくなって、小さく笑った。
そっぽを向いて視線を逸らすヨハネスだが、それでも口元には小さな笑みが浮かんでいた。
うずくまっていたラインハルトが、頭をさすりながらゆっくりと立ち上がった。
表情が、不思議ときりっと引き締まっている。
「ありがとう、ヨハネス。君に言われなかったら、僕はただ浮かれて旅に出かけていたかもしれない。僕には、忘れちゃいけないものがあるんだ」
「ふん。わかればいいのだよ」
「僕は、ちゃんと見てくるよ。見なきゃいけないものも、見たくないものも」
ヨハネスが目を瞑りながら口元だけで笑い、頷いた。
二人を微笑ましく思って見ていたアリーだが、不意に眩しい光を浴び、思わず目を瞑った。
気づけば、空はしっかり明るくなっていて、人の通りも少し増えてきている。
ラインハルトもそれに気づいたのか、少し姿勢を正して、ヨハネスに向き直った。
「そろそろ行くよ、ヨハネス」
「ああ。またな」
「うん。またね」
たったそれだけを言って、二人は互いに背を向けた。
「待って、ラインハルト。ヨハネス、私も行くね。バイバイ」
アリーの言葉に、ヨハネスが振り返らずに手だけを振って応えた。
見てはくれないだろうが、アリーは一度ヨハネスに頭を下げてから、ラインハルトの背を追った。
アリーは王都と外を繋ぐ橋を渡り、ラインハルトと並んで王都の外へ出た。
「あっ」
初めてしっかり見る外の風景に、アリーは息を呑んだ。
遠くまで広がる浅緑の草原。風がそよと吹くたびに草がゆらりと揺れ、青いにおいをふんわりと運んでくる。街道はしっかりと整備されて土が見えているが、そこからちょっと離れた草のある所を歩いてみると、ちくちくとした感触が軽く襲ってきて、どことなくむず痒い。
「外の景色は、珍しいかい?」
ラインハルトが柔らかな笑みを湛えて聞いてきて、アリーは小さく頷いた。
「私ね、ずっと前に各地を転々としていたの。でも、心に全然余裕がなくて、不思議と周りの景色を覚えていないんだ。だから、とっても新鮮。外の景色って、こんなにきれいなんだね」
一歩二歩と歩きながら、アリーは言った。サクサクと、草をかき分ける音が、どことなく心地いい。
「そうだね。この国は、本当はこんなにきれいなんだ。こんなにも、きれいなんだ」
ラインハルトの言葉にちょっとだけ寂しさを感じて、アリーは思わず立ち止まった。
顔色を窺おうとしたが、ラインハルトの表情は、もういつもと変わらなかった。いつもの、柔らかな優しい顔である。
「そうだ。君に、紹介しておかないといけない子がいるんだ」
そう言って、ラインハルトが指笛を鳴らした。
どこか遠くから、足音が聞こえてくる。それは次第に大きくなって、やがて高いいななきと共に、その姿を現した。
少し体が大きな白馬だ。白馬がラインハルトの姿を認めると、すぐに寄って行って鼻面を彼の体に摺り寄せた。ラインハルトはそれをそっと撫で、小さく何かを呟いている。
「僕の友達の、イデアルだよ。とても賢くて、優しい子なんだ。滅多に暴れないし、乗り手も選ばない。誰の話だって、ちゃんと聞いてくれるんだ」
「そうなんだ。ねえ、触ってみてもいい?」
ラインハルトが頷き、アリーはおずおずと馬の体に触ってみた。
さらさらした毛並みに、アリーは少し驚いた。触っていて、とても気持ちがいい。整った毛並みはちゃんと手入れがされていて、ずっと触っていたいような気持ちになる。
「ねえ、どうしてこの子は、王都の外なのに呼んだら来たの?」
「外に、厩があるんだ。僕の家は広いけど、馬を走らせるほどじゃない。馬は、ちゃんと走らせてあげないとダメなんだ。だから、王都の外に厩を設けさせてもらってるんだよ」
尤も今日は、部下にイデアルを放しておいてもらったけど、とラインハルトは付け加えた。
アリーは頷きながら、イデアルの顔に自分のそれを近づけた。優しい瞳が、アリーを見つめ返してくる。
「私は、アリーって言うの。よろしくね、イデアル」
アリーの言葉に、イデアルが耳をピコピコ動かし、ゆっくりと頷いてきた。その仕草が、どことなく愛らしい。
「イデアルも、アリーのことを気に入ってくれたみたいだよ」
隣に来たラインハルトが言った。
「僕らだけじゃ、この国を歩いて回るには広すぎる。でも、イデアルがいれば、少しは楽になるよ」
「そうだね。でも私は、少しの間は自分の足で歩きたいな」
もっと自分の足で、体で、この風景を堪能したい。その気持ちを、アリーは抑えられなかった。
ラインハルトは察してくれたのか、小さく頷いただけだった。
「さて、行きたいところがあるんだよね? どこかな」
ラインハルトが、地図を取り出しながら言った。
広げられた地図を覗き込むようにして見ながら、アリーはあの時光った場所を思い返した。地図の真ん中にある王都を中心にして、それを囲む五角形の頂点にあたる位置が光っていたはずだ。
北東の大集落、南東の魔族が住まう村、南西の交易都市、北西の小さな村、そして北の、深い森の中。思い返しながら、アリーはその場所を指でそっと触れていく。そうしながら、アリーは束の間、どこへ行こうか迷った。
――大集落から、かな。
気のせいかもしれないが、そこが最初に光ったような気がする。それに、地図の上から見ると、大集落は王都からそれほど遠くない場所にあり、早くて二日でつけると思われた。
「北東にある、大集落。最初は、ここに行ってみたいな。そこから、時計回りに回ってみたいの」
言ってから、アリーは自分の目的地を付け加えた。
「大集落を始めに時計回りだね」
理由を気にすることなく、ラインハルトが頷いた。
何も聞かれないことは不思議だったが、逆にそれはありがたいことでもあった。アリーにだって、自分に起きていることは説明できない。
「旅をしてれば、おじさんにも会えるかな?」
「もしかしたらね。商人殿は、色々なところを回ってるらしいし」
「そっか」
話したいこと、教えたいことが色々あって、アリーはその時が早く来ればいいな、と思った。同時に、もっと色々わかってからがいいのかな、とも思って、アリーはちょっとだけ複雑な思いに駆られた。
「さあ、行こうか」
ラインハルトが手綱を持ち、イデアルと並ぶようにしている。
「ラインハルトも、歩くの?」
「うん。たまにはゆっくり歩くのも悪くない。それに」
ラインハルトが、何故か言い淀んだ。
「それに?」
「な、何でもないよ」
不思議に思って聞いたアリーに、ラインハルトは慌てたように首を振って否定した。
小首を傾げ、アリーがラインハルトの顔を覗き込むも、彼は苦笑いしてごまかすばかりだった。
「さ、さあ行こう。大集落まではいくらか距離があるから、途中で宿を取らないとね」
「そうなんだ。わかったよ、ラインハルト」
そう言うと、ラインハルトは頷いて、イデアルと共に歩き出した。
アリーは、少し立ち止まっていた。それに気づいたラインハルトが、訝しげに後ろを向く。
「どうしたんだい、アリー?」
「あのね、ラインハルト」
一度言葉を切り、そっと息を吐く。それに呼応したかのように、そよと吹く風が、フードから出る前髪を微かに揺らす。ちらちらと映る銀色が、束の間日の光で煌めいて見えた。
「いっぱい迷惑かけちゃうかもしれないけど、改めてよろしくね」
自分の精一杯の笑顔を見せ、アリーは少し小走りにラインハルトへと駆け寄った。
ラインハルトが赤くなりながら頷き、顔を別のほうへと向けながらまた歩き出した。
気持ちゆっくり、ラインハルトは歩いてくれている。アリーは合わせるように、その隣を歩いて行った。




