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私を忘れて  作者: 千変万化
三章 「運命の邂逅」
13/125

3-2

 遠くで、ベルの音が聞こえる。

「今日は買えるといいな」

 呟いて、アリーは自分の胸を押さえた。苦い思いは、未だ消えていない。この前のことを思い返すと、少し胸が締め付けられた。

 それでも、アリーはいつもの恰好をして、広場へと向かった。

 今日は不思議と、本売りの許には誰もいなかった。商人は退屈そうに伸びをしている。

 その商人が、アリーを見つけたらしく、伸びをやめて手を振ってきた。

 手を振り返し、アリーは商人にゆっくりと近づいて行った。

「おはよう、おじさん。今日は退屈なんだ?」

「おはよう、アリーちゃん。今日はまあ、仕方がないさ。午後になれば、いつも通りだと思うけれどね」

「そうなんだ」

 不思議には思ったが、商人の顔がいくらか強張っていたのを見て、アリーは聞くのをやめた。きっと、知らないほうがいいことだ。世の中には、そういうことがたくさんある。

「そういえば、この前の本は売れちゃった?」

 アリーは、気になっていることを聞いてみた。

「ああ、それなんだが、売れたと言えば売れたんだが、そうじゃないとも言える。ええと、なんて言えばいいのかね……」

「どうしたの?」

 歯切れの悪い言葉に、アリーはただ首を傾げるしかなかった。傾げながらも、並んでいる本を眺める。

 ない。やっぱり売れてしまっているんだ、とアリーはちょっとだけ寂しい気持ちに駆られた。

「やっぱり、売れちゃったんだね」

「ま、まあここにはないのは、間違いない。でも、本は他にもあるさ。じっくり、見ておくれ」

「うん、そうするよ。本は、たくさん読みたいもの」

 言って、アリーは童話を中心に本を眺め始めた。まだ読んだことがないものが、いくつもある。一つ一つ手に取って、アリーはちらりと中身を読んでいった。

 そうしている間、商人はずっとそわそわしているようだった。時間を気にしながら、まだ来ないのか、とぶつぶつ呟いている。

 不意に、誰かの駆けてくる音が、アリーの後ろから聞こえてきた。相当急いでいるのか、乱れた息まで大きく聞こえる。

 アリーが顔を上げると、商人が胸を撫で下ろし、アリーの後ろに鋭い視線を向けているのが見えた。

 ――どうしたのかな?

 手に取っていた本を置き、アリーは振り返った。

「えっ」

 一瞬、思考が固まった。目に映る人物が誰なのか、一瞬わからなくなった。

 あの時の青年騎士。それを思ったのは、すぐだっただろう。けれどアリーには、それが大分経ってからに感じられた。

 次に思ったのは、どうしてここに急いできたのか、だった。わからない。考えようにも、この前の恐怖が、思考を縛り付けている。

 ――帰ろう。

 激しい動機、震える体。重くて、なかなか動かせないが、それでも力を振り絞って、アリーはこの場を離れようとする。

「ま、待ってくれ!」

 青年騎士が焦ったように呼び止め、アリーの細い腕を掴んだ。この前と同じ、温かい手。何故か際立つそれに若干の戸惑いを覚えながらも、アリーは立ち止まった。

 息を整えながら、青年騎士がじっと見つめてくる。その双眸が放つ光は、どこか弱弱しいものだった。目は口程に物を言う、と言うが、少なくともこの青年騎士から敵意のようなものを、アリーは感じられなかった。

「私に、何か用?」

 震える唇から、アリーはゆっくりと声を絞り出した。

 息を整えた青年騎士が、アリーから離れていきなり直立した。

「僕は王国騎士団第一小隊隊長のラインハルト・グランツです。先日の非礼を謝りたくて、ここに来ました」

 言い終わると同時に、ラインハルトは頭を深々下げた。

 あまりにも唐突なことに、アリーはただただ困惑していた。王国騎士団のグランツと言えば、この国で知らない人はいないほどの名家だ。父親は王直属の親衛騎士団長で、息子は期待の若手騎士だという話を、ちらりと聞いたことがある。

 その騎士が、頭を下げている。アリーはどうしていいかわからず、すがるように商人へと顔を向けた。

 目が合った商人が、ゆっくり頷く。まずは許してあげる。そう言われているような気がした。

「ラインハルトさん、でいいのかな。顔を、上げて。私はもう、気にしてないから」

「そうは参りません。僕は、あなたの心を深く傷つけてしまった。人々を守るはずの騎士が、してはならないことをしたのです。いくら謝っても、足りないくらいです」

 ラインハルトの切実な思いが、言葉の端々から滲み出している。心から悔いているのが、アリーにはちゃんと伝わって来た。。

 その心を感じた時、アリーの中からラインハルトへの恐怖が消えた。胸の動悸も、体の震えも、知らないうちにやんでいた。

 アリーはそっと歩み寄り、頭を下げているラインハルトの手を取った。

「もう、足りてるよ。あなたの言葉に、嘘はないもの。だからもう、謝らないで」

「……本当に、許してもらえますか?」

 恐る恐る上がったラインハルトの顔は、青年というより少年のような弱弱しさが見えた。まるで、いたずらをして叱られた子どもが、母親の顔を窺うような感じだ。

 アリーは、小さく頷いた。瞬間、ラインハルトが腰から落ちた。よほど気を張っていたのか、額にはびっしりと汗が浮かんでいる。

「大丈夫?」

「だ、大丈夫……」

 掴んだままの手を頼りに、ラインハルトがバツが悪そうに笑いながら立ち上がった。

「えーと、アリーさん、でいいでしょうか?」

「アリーで大丈夫だよ、ラインハルトさん。言葉も、もっと砕けていいよ。あっでも、私は改めた方がいいかな? きっと、あなたのほうが年上だもの」

「い、いや、気にしないでいいです。僕のことも、呼び捨てで構いません。たとえあなたが本当に年下でも、僕は気にしませんから」

「そうなの? ふふっ、変な騎士さん」

 口元を押さえ、アリーは小さく笑った。困惑しているラインハルトも、少し赤く染まった頬を指で掻きながら、笑みを返してくれた。

 そのラインハルトが、何か言いたそうに口を魚のようにパクパクさせている。けれど、言葉は一向に出てこない。アリーが小首を傾げてその様を見ていると、少しだった頬の赤が、さらに色を増して広がっていった。

 やがて、顔を真っ赤にしたラインハルトが、意を決したように声を絞り出す。

「えーと、じゃ、じゃあ……。あ、アリー?」

「なあに、ラインハルト?」

 何の抵抗もなく名前を呼び返すと、ラインハルトはまた口をただただ開閉するだけに戻ってしまった。目はどこか別のほうを向いていて、顔はこれ以上染まりようがないくらいに赤い。いかにも照れて動揺している、という感じだ。

 アリーだって、照れた気持ちがないわけではない。けれどこの青年騎士に対しては、不思議と同じ目線で付き合いたいと思った。心を開いたからか、そんな気持ちが何となく強くなっていた。

 アリーがそのまま見つめていると、やっぱりラインハルトは何も言葉を出さなかった。何となくおかしかったが、それでも二人とも、しばらくそのままでいた。

 ただその均衡は、意外な形で破られた。

「ラインハルト殿、あんた一体何しにここに来たんだい!」

「うっ!?」

 怒号と共に、鈍い音が響いた。ラインハルトが頭を押さえて屈みこむ。それを、商人が目を怒らせて見下ろしていた。

「さっさと要件を済ませないと、もう一発食らわせるよ!」

「そ、それは勘弁して下さい……」

 重い拳骨で腫れた頭を撫でながら、ラインハルトは懐から一冊の本を取り出した。

 その本に、アリーは見覚えがあった。

「それ、やっぱりラインハルトが買ってたんだね」

「う、うん。でも、本当は横取りしてまで買う気は、なかったんだ。ただあの時は、つい」

 不意にラインハルトの声が小さくなり、最後まで聞こえなかった。どうしたの、と聞いても、ラインハルトは慌てたように何でもない、と否定するばかりだ。

「と、とにかくだ」

 一度咳払いをして、ラインハルトが改まって言う。

「僕はこの本を、君に渡しに来たんだ。何のお詫びにもならないけど、どうか受け取ってほしい」

「えっ?」

 全く予想していなくて、アリーはちょっと戸惑った。確かにあの本は、読みたいとは思う。けれど、無理やり渡させようとしている感じがして、どこか抵抗を覚えてしまう。

「いいよ、ラインハルト。無理に、渡そうとしなくても大丈夫だよ」

 自分でも損な性格だと分かっていても、アリーは首を振って遠慮した。

 しかしそれは、ラインハルトも同じだ。首を二度横に振って、意を決したように言葉を続ける。

「もう一度言うけれど、僕は横取りしてまで買う気はなかったんだ。ただ、珍しい本がある。そう思って手を伸ばしただけなんだよ。元々、別の本を買うつもりだったしね」

「そう、なの? でも」

 口ごもり、アリーは俯いた。どうしても遠慮してしまう。しかし、ラインハルトが本当にそう思っているのは、何となくわかった。わかったが、うまく素直にはなれない。

 悩んでいると、アリーの肩に大きな手が優しく乗せられた。振り返ると、商人が笑みを浮かべて頷いた。アリーはそれでも少し考え、そしてラインハルトに向かい合った。

「えーとね。じゃあ、受け取っていいかな?」

「も、もちろんだよ!」

 勢いよく差し出された本を、恐る恐るアリーは受け取る。

 ――嬉しい。

 気持ちに素直になると、アリーは自然とその本を強く抱きしめていた。

「ありがとう、ラインハルト。あっ、お金、払わなきゃ」

「いいんだよ。これは、お詫びなんだから。気にせず、貰ってほしい」

「でも」

「アリーちゃん、こういう時は素直に受け取るんだ。固辞しすぎるのも、礼儀に反するものだよ」

 商人に諭され、アリーはただ頷いた。

 無事に本を渡せたからか、ラインハルトがほっと胸を撫で下ろしている。表情も、大分に緩んでいた。この青年は、気持ちがわかりやすいほどに表に出る。

 ――私は、どうなのかな。

 ふと思ったが、アリーは考えることをすぐにやめた。多分、この楽しい時間に、水を差すことしか考えつかない。

 ――楽しいんだ、私。

 こういう気分になったのは、久しぶりな気がする。読書の時間も、子どもたちとの時間とも違った、楽しさである。アリーはこの青年騎士と、もう少し話がしたかった。

「ねえ、もう少し時間はあるかな?」

「う、うん。今日は非番だから、問題ないよ」

「じゃあ、あなたともう少しお話したいな」

 ラインハルトが慌てたような素振りを見せ、それから小さく頷いた。

 何を話そうか。そう思った時、ちらりとアリーは振り返った。腕を組んで微笑みながら見守っていた商人と、しっかり目が合う。

「おじさん、お店の前だけどいいかな?」

「ああ、いいよ。それに」

 商人が一歩前へ出て、胸板を強く叩く。

「どうやらわたしがいないと、ちゃんと話が進まないみたいだからね」

 自信たっぷりに力強く商人が言って、思わずアリーとラインハルトは顔を見合わせた。そして、二人して困ったように笑った。

 実際その通りなのと、あまりにも自信に満ちた商人の顔がいつになく濃いのとで、少なくともアリーは恥ずかしさとおかしさとがないまぜになっていた。

 それから、アリーはラインハルトと話を続けた。

 話してみたいことが、アリーにはたくさんあった。ラインハルトのこと、この王都の外のこと、そして自分のこと。けれど一遍には話せなくて、外のことについて色々と聞いていた。

 ラインハルトは、懇切丁寧に答えてくれた。遠征の中で見る、広がる自然の美しさや動物たちの戯れ、人々の営み。王都ほどではないが差別もあり、それでも必死に人々は生きていることも、少し沈んだ顔で話してくれた。

 寂しい話題もあるが、それでもアリーは充実していた。自分の知らないことが、不思議と体験しているように伝わってくる。気持ちの浮き沈みも激しいが、それでも話から耳を塞ごうとは思わない。

 時が流れるのは、あっという間だった。アリーが帰ろうと思っていたお昼時からは、気づけば既にいくらか過ぎていた。

「もう、お昼なんだね。そろそろ、帰らなきゃ」

 話が一区切りしたところで、アリーはそう言った。ラインハルトが少し残念そうな顔をしたが、それでも無理に引き留めるようなことはしてこなかった。

 広場に、人が増えてきた。本売りを目指しているような人も、ちらほら見える。アリーは足早に、この場を離れようとした。

「あ、あの」

 ラインハルトの呼びかけに、アリーの足は止まった。振り返れば、ラインハルトが緊張した面持ちで、こちらを見つめている。

「えーと、その」

 頬を指で掻き、ラインハルトが何かを言おうとしているが、口が動くばかりで何も言葉にならない。アリーはその様を、小首を傾げて見ていた。

「……また、君と話してもいいかな?」

 少し間が空いてから、自信なさげな声でラインハルトが言った。

 ちょっとおかしくなって、アリーは小さく笑った。ラインハルトは、なぜ笑われたのかがわからないような顔をしている。それもちょっと、おかしかった。

「また話そうね、ラインハルト」

 迷わずに答えると、ラインハルトは笑顔で大きく頷いた。

 二人に手を振り、アリーは帰路につく。

 心が弾む。朝の暗い思いが、嘘のようだ。

 胸に抱くあの本を眺めながら、アリーは自分の顔が緩むのを感じた。

 本を見ると、ラインハルトの照れた顔が浮かんでくる。それがおかしく、どこか微笑ましい気持ちになった。

「また、お話したいな」

 今日会った青年騎士に思いを馳せ、アリーはいつになく明るい気持ちで、家に帰った。

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