十三年後
そして最終話。
皇帝は、京師の北西の方向にある離宮を訪ねてきた。皇帝が所有する離宮の一つで、禁城のように壮麗ではないが、瀟洒な作りが美しい離宮だ。ここには、今、皇帝の養父母が暮らしている。
「お兄様ーっ!」
元気いっぱいの少女の声が聞こえた。見ると、馬で近づいてくる皇帝を出迎えるように、少女が手を振っていた。こちらも騎乗しており、共らしい男性が一緒だ。
「凛嵐」
名を呼ぶと、十歳に届いていないだろう少女はにっこりと笑った。
「お兄様、いらっしゃい! お待ちしていました!」
「ありがとう、凛嵐。父上と母上はいる?」
「はい! お兄様をお待ちしています。琅明、行くよ」
「はいはい、お姫様」
凛嵐は自分を馬に乗せてくれている青年に声をかけた。中性的な面差しの青年は皇帝に向かって微笑んで一礼し、先導するように馬を歩かせ始める。
彼は高琅明だ。かつて、女装して後宮の妃嬪に数えられたこともあるらしいが、皇帝にはあまり記憶がない。ただ、よく遊んでくれた人に似ていると思う。それにしても、女装して後宮に入るとはどういう状況なのだろうか。
離宮の門の前で馬から降り、ついてきた護衛の二人のうち一人に馬を預ける。皇帝は凛嵐と手をつないで離宮の建物の中に入った。
「ただいま」
「お母様、お兄様が来た!」
皇帝と凛嵐がそれぞれ口を開く。皇帝にとって、この離宮は居心地がよかった。
「おかえりなさーい。入ってきていいわよー」
母の声だ。皇帝は思わず微笑む。凛嵐に手を引かれ、声のした方に向かっていく。家令である琅明と、皇帝の護衛はそのあとをついてくる。
居間に入ると、母と父が向かい合って座っていた。その間には碁盤が置かれている。
「お帰りなさい、凛嵐。琅明もありがとう。それと、いらっしゃい、慧峻」
皇帝――慧峻は微笑を浮かべる母を見て顔をほころばせた。
「お久しぶりです、母上。父上も」
「ああ。久しぶり。相変わらずお前は、父より母の方が好きなんだな……」
と、父。慧峻は微笑む。
「そりゃあ、母上には世話になりましたからね」
そう言ってのけると、父は微妙な表情になる。それを見て、母は声を立てて笑った。凛嵐はちょこまかと近寄り、父の膝に上がる。
「お父様、勝ってる?」
「いいや。負けてる。相変わらず、お母様は強いねぇ」
のんびりとした父の様子も、昔とは変わらない。これでよく皇帝が務まったものだと思う。慧峻は母の側の椅子に腰かけた。
「琅明、お茶」
「ぅわ、はい!」
家令の琅明があわててお茶を用意しに行く。母は「相変わらず微妙に気が利かない子ね」と笑っていた。
父が悩んだ末に碁石を置く。母は迷わずに置く。どうやら、父が黒、母が白を持っているようだ。何度か交互に石を置き、母は微笑む。
「はい、私の勝ち」
膝に凛嵐を抱いた父ははあ、とため息をつく。それを見て、母はやはり笑う。昔に比べると、よく笑うようになった、と父は言っていた。
「慧峻。朝廷の方はどう?」
碁盤を片づけさせ、卓の方に移動しながら父が尋ねた。腐っても元皇帝。やはり気になるのか。少々失礼なことを考えながら慧峻はうなずく。
「まあまあですね。父上がきれいに整理して退位しましたから、それほど混乱もなく。まあ、もう、私の登極から丸一年経ってますからね」
先帝である父・珀悠が退位してからもう一年が経つのだ。もともと慧峻が大人になれば帝位を譲ると言ってはばからなかった彼は、本当に慧峻に帝位を譲り、最愛の妻・瑛を伴って隠居した。
年をとってもかなり整った顔立ちをしている父、珀悠は慧峻の実父ではない。養父だ。彼は、慧峻の実父の異母弟にあたる。珀悠は、慧峻の実父から帝位を簒奪したのである。
この事実を知った時、慧峻は悩んだ。珀悠と瑛が実の両親でないと知ったのは、慧峻が六歳の時だ。そして、珀悠が慧峻の実父から帝位を簒奪したと知ったのは、十歳になった時。
慧峻は養父母を実の両親のように慕っていたし、実父のことは調べるにつれて暗愚であったことがわかり、慧峻はそんな男の血を引いていることが衝撃であった。のほほんとしていても賢帝であった珀悠の実子であった方がよかった。
母に至っては、慧峻を産んですぐに亡くなっている。実父も慧峻に会いに来たことはなかったし、慧峻の両親は珀悠と瑛だけだ。そう思えた。
養母・瑛は才女だった。もともと、珀悠の妻としてではなく、慧峻の教育係として皇后になったと言っていた。そんな瑛から教育を受けた慧峻は、自分の才能もあったのだろうが、聡明な青年へと成長した。
慧峻が十五歳になった時、珀悠は「来年、慧峻に帝位を譲る」と言い出した。これを二年遅らせたのは慧峻と瑛だ。そんなに突然言われても、まだ準備も終わっていない! と慧峻が泣きつき、瑛が珀悠を蹴倒したのである。大きくなるにつれて疑問を覚えていたのだが、養父には被虐趣味があるのだろうか。そうだとしたら、養母には確実に加虐趣味がある。
養父母の性癖はともかく、慧峻に泣きつかれ、瑛に叱咤された珀悠は半泣きになりながらも慧峻に全権を譲る手はずを整えた。いろいろあって二年かかったが、やはり珀悠も優秀だ。ほとんど混乱もなく、皇帝位は慧峻に譲られた。本当に、この二人が実の両親だったらよかったのに。
「珀悠と慧峻では比べることができないけど、やっぱり優秀よね、慧峻は。さすがは私たちの子供」
そう言ってほめてくれる瑛が、慧峻は大好きだった。一方の珀悠は侍女が出してくれたお茶をすすりながら「文姫、性格変わったよねぇ」としみじみと言っている。眼尻にしわができても、養父のこの暢気なところは変わらない。
「お兄様。お久しぶりです」
赤い襦裙をまとった少女がかけてきた。凛嵐はどちらかと言うと珀悠似の美少女であるが、凛嵐より少し年長に見えるこの少女は瑛似だ。いや、瑛も決して不器量と言うわけではないのだが、超絶美形の珀悠に比べるとやや個性のない顔立ちなのだ。美人なことは美人なのだが、パッと目を引く美人ではない。
この少女は、そんな瑛に似ているのだ。珀悠としては、愛する妻に似た彼女が可愛いようであるが。瑛などは「私に似ちゃってごめんなさいね」などと言っている。
慧峻は、自分が珀悠と瑛の子ではないと気付くきっかけを与えた少女に笑いかける。
「久しぶり、璃洵。元気そうだね」
「はい。お兄様も、お元気そうで何よりです」
そう言って、少女・璃洵は頭を下げる。笑みを浮かべる璃洵に、慧峻も笑みを浮かべた。
瑛が璃洵を身ごもった時、慧峻は自分が瑛の子供ではないと気が付いた。まあ、いろいろあったのだ。いつの時代もそうだが、女官と言うのはおしゃべりなのである。そのころの記憶はさすがにやや曖昧であるが、女官たちはよくも自分にろくでもないことを吹き込んでくれたものだと思う。
まあ、もう吹っ切れているし、瑛も珀悠も慧峻をかわいがってくれた。二人の妹もかわいい。だから、これでよかったのだと思う。
……たぶん。
というか、大きくなった今、冷静に考えれば、慧峻と珀悠は十六歳差だ。つまり、慧峻が生まれた時、珀悠は十六歳だったと言うことだ。もちろん、それくらいで子供がいる人もいるが、そんなに多くはない。年齢差的に、ありえなくはないが慧峻が珀悠の子である可能性は低かった。
まあ、それはどうでもよい。
「璃洵、何をしていたんだい?」
慧峻が尋ねると、彼女はおっとりと微笑む。このおっとりした雰囲気は、珀悠に似たのだろうか。
「空を見ていました。明日も天気はいいですが、ちょっと寒くなりそうですね」
「じゃあ、今日は温かい恰好で寝ないとね」
「はい」
やはりおっとりと言う璃洵。彼女は外見も思考も瑛寄りなのに、性格だけは珀悠似だ。
「璃洵は瑛に似てるよね」
「そうね」
適当に瑛が相槌を打つ。璃洵と話をしながら、慧峻は養父母の会話を聞いていた。
「わたしは?」
相変わらず珀悠の膝の上にいる凛嵐が尋ねた。彼女の外見は珀悠似の美少女で、はきはきした性格は……誰に似たのだろうか?
「凛嵐は珀悠似ね。美人になるわよ。よかったわね」
「でも、お母様もきれい」
「あら、ありがとう」
瑛が微笑んで凛嵐の頭を撫でる。珀悠も言っているが、瑛の魅力はその姿ではなく、その知性なのだ。
おそらく、璃洵も同じだろう。彼女の魅力は外見ではなく、内側からあふれ出るもの。まあ、瑛も璃洵も美人ではある。瑛は気が強かったが、璃洵はおっとりしているのでもてるかもしれない。
だが、璃洵にしても凛嵐にしても、好きな相手ができても瑛や珀悠という障壁を乗り越えなければ結婚はできないだろう。ついでに言うなら、慧峻も二人にふさわしい相手か、見極めるつもり満々である。
「お兄様、今日はいつまでいられるのですか?」
「うん。一日泊まっていくよ」
「やったぁ! お兄様、一緒に遠乗りに行きましょう!」
璃洵の問いに答えた慧峻に、珀悠の膝に乗っていた凛嵐がよってきて抱き着く。本当にこの妹たちは可愛いな。珀悠と瑛も目元を和ませている。
ややおとなしい璃洵と、活発な凛嵐。いや、本当に凛嵐は誰に似たのだろうか。顔立ちは完全に珀悠であるが、性格はどこからやってきた? 少し考え、しばらく凛嵐の面倒を見ていたことがある、現在後宮の女官長をしている玉蓮を思い出した。彼女は、こんな感じだ。
「そうだね……」
よいしょ、と凛嵐を抱き上げる。以前会った時よりも、彼女は大きくなっていた。子供とは、すぐに大きくなるものである。
「そうだねぇ。あまり遠くには行けないけど、みんなで乗馬を楽しむくらいはできるかなぁ」
珀悠がのんびりと言う。その顔は、子供たちの戯れを見て微笑ましげだ。ちなみに、慧峻は珀悠と似ていると言われる。まあ、彼の実父は珀悠の異母兄なので、似ていても不思議ではない。実の親のように彼は慧峻を育ててくれたので、性格が似ても不思議ではない。
「お母様。わたくし、お母様の馬に乗りたいです」
おっとりと璃洵は瑛に主張した。瑛が珍しくびくっとする。
「え。私の馬、軍馬だけど」
「大丈夫です」
璃洵は微笑んで答える。軍馬は、通常の馬より大きいのだ。そんな馬を持っている瑛も謎だが、乗りたがる璃洵も璃洵である。
慧峻は凛嵐を抱えたまま珀悠に尋ねた。
「父上。璃洵を軍馬に乗せても大丈夫なものなんでしょうか」
「……まあ、俺たちも一緒だしね。あの子、すでに鞍なしで馬に乗れるから、大丈夫なような気もする」
「……それはすごいですね」
慧峻と珀悠はそろって瑛と交渉する璃洵を見た。凛嵐は慧峻の膝の上で首をかしげている。
結局、璃洵は瑛から軍馬に乗る許可をもぎ取った。慧峻は微笑む。
ほら。こんな、何でもないような日常が、とても楽しく、幸せだ。
終
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
璃洵と凛嵐は瑛と珀悠の娘。どうでもいいですが、私の中の設定では夏侯家は女系家族。




