24、魏紅蘭
今、瑛の前には美女が二人いる。一人はちょくちょく末妹の様子を見に来る夏侯漣。瑛の長姉だ。もう一人は魏紅蘭といい、漣や瑛の母親だ。この二人が、皇后である瑛を訪ねてきていた。ちなみに、次姉である晶は夫と共に任地に帰ってしまった。
「いやあ。見事に仕事を終えてきた妹をねぎらいに来ただけなのに、思ったより面白いことになってるな」
笑ってそんなことを言ってのけるのはもちろん漣である。
「陛下、やっとこの子に言いたいことを言えたのね」
やはり、にこにこしながらそんなことを言う母・紅蘭。瑛は紅蘭似の娘で、母娘とわかるくらいには顔立ちが似ている。しかし、美麗度で言えば母の方が上である。ちなみに、そんな母・紅蘭はすでに五十を越えている。
「やっぱり、二人とも知ってたんですね……姉様から?」
「いや、見てればわかるだろ」
「ねえ。陛下、いつもあなたにくっついて回ってたし」
「母上、それ、子供のころの話でしょう」
漣はともかく、紅蘭の発言はどう考えても珀悠がまだ䔥家に預けられているころの話だ。確かに、あの頃の彼はいつも瑛のあとをついて回っていたが……。
「でも、ずっと弟みたいに思ってて、珀悠もそうだと思ってたんです! なのにいきなりあんなことを言われるし……っ」
「でも、前に、陛下のことが弟に見えるかよくわからないって言ってたじゃないか」
漣に指摘され、そう言えばそんな会話もしたと思いだす。瑛は漣の方に顔を向ける。
「だって、彼、時々とても大人びた表情になるんです。そんな時、この子、私が弟だと思っていた子なんだろうかって思って」
瑛のことが好きだと言ったあの時も、大人びた表情をしていた。いまだに思い出すと顔が熱を持つ。瑛は両手で顔を覆った。
「あら。可愛い反応」
紅蘭のからかうような声が聞こえるが、顔があげられなかった。顔を覆ったまま訴える。
「もう、どうすればいいかわからなくて……」
紅蘭がよしよし、と瑛の頭をなでた。顔を上げた瑛の眼には涙がたまっていた。漣が手を伸ばして涙をぬぐってくれる。
「ほら。せっかくきれいにしてるのに、泣いたら台無しだよ」
「どうせ化粧が落ちても顔は変わりません」
「あ、もしかして化粧をしてなくても美人だって言いたかった? ごめん」
「違うわよ。化粧をしてもしなくても私は普通の美人だと言うことです」
瑛はただの美人だ。晶のような絶世の美女でも、漣のような気の強そうな美女でも、紅蘭のようなろうたけた美女でもない。ただの平凡な美人だ。いや、美人と平凡は同時に使えない言葉かもしれないが。
「まあ、あなたがどうするかは、あなたの心次第よ。瑛」
寧佳や彩凜にも言われたことを紅蘭にも言われ、瑛はきゅっと唇を引き結ぶ。
「……でも、私は珀悠よりみっつも年上です」
「気にすることないって。私と奏偉も三歳差だし、晶に至っては旦那と九歳差だからね」
「私と津も五歳差だしねぇ」
漣も紅蘭もそう言うが、彼女らと瑛では状況が違う。なぜなら。
「母上も姉上も姉様も、旦那様の方が年上じゃないですか……」
夫婦の妻の方が年上であることは、実例は少ないがないわけではない。だが、珍しいのは事実だ。これで年上の妻の方が絶世の美女ならばわかるが、実体は美人ではあるが一般的な美人なのだ。十分だ、と思うかもしれないが、本人的にはいたたまれない。
「でも、まあ、三歳の差なんて大人になれば大した差ではないでしょ」
紅蘭はそう言うが、瑛にとっては大きな差だ。漣は瞳を潤ませる瑛の肩をたたいた。
「瑛、陛下は君のことが好きだって言ったんだろ」
「え、ええ」
他人から改めて言われると恥ずかしい。身をよじらせる瑛を見て、紅蘭が相好を崩して「可愛いわねぇ」と親ばか発言だ。
「なら、後は君がどうするかだ。君はもう皇后で、陛下と『そう言う関係』になるのは何ら問題はないだろう?」
「それは……そうだけど……」
珀悠と瑛が本気で手を組めば、危機感を覚えるものはいるだろう。ついに、慧峻を皇太子から降ろそうとするのかと、思うものもいるだろう。彼女たちがそんなことを考えていなくても、彼らはそう邪推する。
「晶も言っていただろう? 素直になればいいことがあるって」
「……」
晶の占は、よく当たるのだ。瑛は再び両手で顔を覆った。
「でも……でも、自分でも自分の心がわからなくて……」
こんな気持ちになるのは初めてだ。だから、この感情が何に属する感情なのか、瑛にはわからなかった。
瑛は理屈っぽいと言われることがある。そのため、人間の感情的なことには疎いのかもしれない。それがたとえ、自分のことであっても。
「そうかな?」
漣は微笑んで瑛の頬に手を滑らせ、ぷにっと彼女の頬をつまんだ。
「私には、君がそうして悩んでいる時点で、答えが出ていると思うけどね」
思わず紅蘭の方を見ると、彼女も笑顔でうなずいていた。
△
「母上、父上と喧嘩なされたんですか?」
勉強中、慧峻にそんなことを聞かれ、瑛は思わず手を止めた。何度か瞬きして、瑛は笑みを浮かべた。
「また誰かがそんなことを言っていたの?」
「いえ……母上と父上が、何となくよそよそしいので」
「慧峻……難しい言葉を知っているわね」
「がんばって勉強しました!」
慧峻はまだ五歳だ。本当に頑張って勉強したのだろう。瑛はほめるように、よしよしと彼の頭をなでた。
「僕は、また母上と父上に仲良くなってほしいです」
「そうね。私もそうなりたいわ」
「たぶん、母上は悪くないと思います」
「いいえ……今回に限っては、私が悪いわ」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ」
なんで瑛は自分の息子にこんな言葉を聞かせているのだろうか。どう考えても教育に悪いだろう。自分で自分にツッコミを入れる。
「喧嘩は悪い方が早く謝るべきだって習いました」
「ええ。私が教えたわね。そうなのよねぇ」
謝るだけですめば、どんなにいいだろうか。慧峻の頭を撫でつつ癒しを得ながら、瑛はつらつらと考える。
珀悠による衝撃の告白から五日。珀悠はいつも通りに瑛に話しかけてくるのだが、瑛の反応はぎこちない。だから、慧峻が違和感を覚えるのは瑛のせいなのだ。女官たちからも「どうしたのですか」と聞かれる始末。庭園で遭遇した琅明には、「妃嬪たちみんなに知れ渡ってますよ」と言われた。彩凜にも言われたが、瑛の決断が後宮の体制を変えるのだ。
瑛は慧峻の教育係だ。だから、珀悠の『妻』はある意味、職務に含まれていないはずだ。それでも、瑛が望むのならば、瑛が本当の意味で珀悠の妻になることは問題ないはずだ。
瑛としても、この状況が続くと苦しい。なんとしても決断すべきなのだが、時間が経って冷静になればなるほど、自分の心が行方不明になっていく。
珀悠の気持ちを考えるのなら、うなずいた方がいい。
燕旺国の情勢を考えるのなら、このままでいる方がいい。
難しいところである。
「母上、できました!」
慧峻の声で現実に戻る。瑛はざっと慧峻の解答に目を通し、「正解よ」とほめる。ご褒美にお菓子付きだ。五歳でここまでできれば上出来である。
「むずかしかったですけど、頑張りました」
「母も張り切って難しい問題を出しちゃったわ」
ごめんね、と微笑むと、慧峻は「だいじょうぶです」と笑う。本当にいい子だな。暗愚だった先帝の子とは思えない。母親に似たのだろう。
「僕も頑張ったから、母上も頑張って父上と仲直りしてください」
母上と父上が仲が悪いと、僕も悲しいです。と訴えられ、瑛は「そうね」と苦笑した。本当に、何とかしなければ。
「そうね。ちょっと話し合ってみるわね」
慧峻と約束したので、もう後には引けない。
△
「と言うわけなんだけど、私は珀悠のことが好きなんだと思う?」
瑛は皇后の居室で長椅子に座る珀悠を少し離れたところから立って眺めていた。その意味不明な問いに、さしもの珀悠も戸惑う。
「え、文姫、意味不明だよ。にしても、元通りだね……」
珀悠が立ち上がって瑛の側に寄ろうとするので、その前に「近づいたら叩き出すわ」と宣告する。珀悠が涙目になった。瑛の良心が痛む。
「うーっ。でも、やっぱりダメ!」
突然叫んだ瑛に、珀悠がびくっとする。彼に近寄ろうと思うだけで、心臓がバクバクしてくる。いつも通りかと思えば叫び、さらに蒼くなったかと思えば赤くなる瑛に、珀悠は心配そうに「大丈夫?」と尋ねてくる。
そこで、もう一度尋ねた。
「……私、珀悠のことが好きなんだと思う?」
「結局聞くんだ、本人に!」
珀悠からツッコミが入ると言うこの状況は結構珍しいのではないだろうか。
「俺としては好きだとうれしいけどとしか答えられないんだけど!」
「私も珀悠のことは好きよ。でも、その『好き』がどういう好きなのかわからないの」
「何その期待を抱かせる返答は!」
「なら何て答えればいいの!? もうっ。あんたが変なこと言うから、頭の中ぐるぐるしてるし、顔は熱いし、心臓は全力疾走なんだけど!」
それは誰がどう見ても恋をしています、とは、女官たちはツッコまない。みんな気づいていたが、瑛が取り乱す図が面白いので指摘しないのだ。
「えっ……それは」
珀悠が眼を見開いて瑛を見ている。今度は息を荒げた瑛が涙目である。潤んだその瞳を見た珀悠が、瑛の頬に手を伸ばす。瑛はびくりと震えた。それでも珀悠は瑛の頬に触れて、そっとなでた。
漣にも頬を撫でられた。だが、その時とは違い、頬がしびれるような感じがした。これ以上熱くならないと思っていたのに、触れられた頬がさらに熱を持つ。
「や……っ、離れて……っ!」
震える声を上げながら、瑛は自分を抱き寄せている珀悠の胸を押し返した。だが、手も震えており力がこもっていない。珀悠は瑛の額に口づける。続いて彼女の顎を心もち持ち上げると、その唇に自分の唇を押し当てた。
以前口づけされた時とは違う。何が違うかと言えば、瑛の気持ちが違う。江州に行く前は、珀悠のことは弟のように思っていた。だが、今は。
「……嫌だった?」
少し離れて、それでも瑛を解放はしない。少しうつむく瑛の顔を覗き込むように見てくるのは反則だと思った。
「嫌、では、ない……」
瑛のたどたどしい返答に、珀悠は緩みまくった顔になった。
「そっか。よかった……」
さすがに瑛も気が付いた。おそらく、瑛は珀悠が好きなのだ。愛しているのだ。ずっと弟のように思っていたのに、気づいた途端、彼が大人の男性に見えるから不思議だ。恥ずかしくなった瑛はぐっと珀悠の胸を押し返す。
「は、離れてっ」
「やだ」
珀悠は瑛の首筋に顔をうずめた。首筋がちりっ、と痛んだ。
その時、不意に瑛は部屋の入口に立つ玉蓮と目が合った。顔を真っ赤にした玉蓮を見て、瑛は自分の体勢を改めて認識した。
「――っ。調子に乗るな!」
「だぁっ!」
皇后の拳が、皇帝の顎を捕らえた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
おそらく加虐趣味があるのは瑛の方でしょうが、珀悠も瑛の泣き顔とか見るのが好きそうだ……。




