18、軍師
結果として、珀悠は白氏を止めることはできなかった。彼らは領地内で戦闘態勢を取り、そして、ついに周囲の領主にも彼らに同調するものが出てきた。
このまま放っておけば、京師に攻めこまれることはなくとも、この国が分裂し、北方にもう一つ王朝ができてしまうだろう。
軍を動かすべきだ、と誰かが主張した。劉太師も、䔥宰相もそれを否定しなかった。問題は、誰に軍の指揮を取らせるか。
珀悠は絞り出すように声を出した。
「……文姫を、皇后夏侯氏を呼べ」
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珀悠が呼んでいると聞き、瑛は、ついに来たか、と思った。
戦闘は、瑛の皇后としての役割に入っていない。彼女の言葉を借りるのなら『職分外』である。しかし。
初めて朝廷……政治の間に足を踏み入れた瑛は、皇帝珀悠の隣に立っていた。黒に金の刺繍がなされた衣装をまとい、閉じた黒い扇で掌をたたく。
議場に集まった官僚たちが、緊張の面持ちで彼女を見つめている。珀悠と並ぶとやや平凡である皇后であるが、その姿は堂々としていて、誰もが彼女に畏怖を覚えた。
「いいでしょう。行きましょう」
一通り話を聞き終えた瑛は静かにそう言った。その言葉に息を飲むもの、安堵するもの、そして顔をゆがめるものがいた。
わずかに顔をしかめた珀悠はそれでも動揺をうまく覆い隠した。彼女を呼んだのは彼だ。彼が、認めないわけにはいかない。
瑛はさっと珀悠に向かって膝をついた。拳をもう一方の手で覆い、拱手する。
「陛下。皇后夏侯氏は、陛下の名代として、江州五条に向かいましょう。必ずや、陛下のご期待に沿えるでしょう」
自信過剰ともいえる台詞であるが、彼女が言うと本当になりそうで恐ろしい。実際、本当に『陛下の期待に沿う』てくるのだろう。
「……頼む。現在より、皇后夏侯氏を皇帝代理、および軍師に命ずる。彼女に逆らうことは、私に逆らうことと心得よ」
「御意」
一斉に官僚たちが頭を垂れた。
珀悠は高いところからその光景を悲しげな眼で見つめていた。これが、皇帝になると言うことだ。
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「文姫……文姫!」
「ぅわっ!」
後宮の居室に戻ったとたん、後を追ってきた珀悠に背後から抱きしめられ、瑛は均衡を崩した。そのまま珀悠に体重を預ける形になる。
「ごめん。ごめん……! 俺のせいだ……」
耳元で苦しげに言葉を吐き出す珀悠に、瑛は苦笑した。
「別にあなたのせいじゃないわよ。後宮の中にいるからと、何もしなかった私も悪い。箱庭の中にいるからと、何もしなかった」
後宮の外にいた時、彼女は国中を見渡していた。情報を仕入れ、何が起こっているのか見るのが日課だった。だが、後宮に入ってそれをしなくなった。
珀悠といる日々が楽しかったからだ。
珀悠がいて、慧峻がいて。自分を慕ってくれる者たちがいる日々が楽しかった。だから、何もしなかった。
瑛が気づけば、この状況は回避できたかもしれない。瑛は自分が万能だとは思っていないが、やればできる女だとは思っている。
「私、あなたに会うまで日常がつまらなかった。何でもその先がわかってしまうから」
わかってしまうから、平凡な日々。両親がいて、姉たちがいて。幸せではあったけれど、刺激が足りない。楽しいとは、思えない。
「でも、あなたといるのは楽しかった。私が予測できない、あなたとの時間が楽しかった。だから」
私は、あなたの為なら命を投げ出すことですらいとわない。
口にして、初めて気が付いた。瑛は、自分の生活を変えてくれた珀悠をこんなにも大事に思っていた。彼の為ならば、何でもできると思えるくらいに。
瑛を抱きしめる珀悠の腕がさらに強くなった。正直言って苦しいが、今回は彼の好きにさせておこうと思った。
彼は、瑛が出陣するのは自分のせいだと思っている。
瑛は、自分が出陣するのは自分のせいだと思っている。
互いに、今回のことは自分のせいだと思っていた。
だから、おあいこだ。瑛はそっと目を閉じ、珀悠の腕をつかんだ。
「あなたが登極するとき、私は遠方にいて役に立てなかったからね。今回くらいは、あなたのために働かせてよ」
そうつぶやき、瑛は首をひねって珀悠の顔を見上げた。彼は泣きそうどころか、本当に泣いていた。瑛はぎょっとする。
「ちょ、何泣いてるのよ!」
「だって~。文姫ぃ~」
「皇帝がなに情けない声出してるの!」
泣いていても、珀悠は瑛を離さない。身動きができないため、彼女はぼろぼろと男泣きする珀悠を見ているしかなかった。彼の頬を伝った涙が瑛の顔にあたる。
「ああ、もうっ。しょうがないわね。ちょっと腕を緩めて」
そう指示すると、珀悠は言われたとおりに瑛を拘束する力を弱めた。瑛は体を反転させ、珀悠と向かい合う。手を伸ばして涙にぬれる彼の頬に両手を当てた。
「何も永遠に会えないわけではないわ。そんなに泣く必要はないわよ」
心もちいつもより優しい口調で言うと、珀悠は少し微笑んでくれた。だが、すぐにその顔がゆがむ。
「でも、戦になったら、何が起こるかわからない……!」
瑛がいなくなってしまうなんて、耐えられない。今度は真正面から抱きしめられ、耳元でささやかれた。瑛は自分より背の高い彼の首筋に頬を寄せ、「馬鹿ね」とささやいた。
「私はあなたの代理だけど、軍師なのよ。戦いなんか、起こさないわ」
瑛には才覚がある。おそらく、不可能ではない。犠牲は最小限に。珀悠の治世が、後世の歴史家たちに認められるように。そのために、瑛は彼のために働く。
職分外だと訴えてきた。だが、決められたことだけをやって生きていくなど、瑛にはできなかった。自分の才能を使わなければ。何より、自分を思って泣いてくれるこの青年のために何かしなければ。たとえ、決められたことではなくても。
すでに珀悠の代理を任された時点で、皇后の職分を越えている。なら、とことんまでやってやろうではないか。瑛はその覚悟だった。
「文姫。ごめん。ふがいない皇帝でごめん。俺、皇帝がどういうものかわかってなかった……」
「うん」
瑛は珀悠の背を抱きしめ返し、そっと彼の頭をなでた。
「俺、君がいないとダメなんだ……」
「大きくなったと思ったのに、そんな子供みたいなこと言わないの」
そう返した瑛だが、内心、喜びを感じているのもわかっていた。珀悠の側に帰ってきてもいいのだと思うと、とてもうれしい。
「でも、私はそんなあなたが好きなのね、きっと」
ぽろっとそう言うと、珀悠がはっとしたように瑛から身を離し、彼女を見つめた。せっかくの美丈夫が涙で台無しであるが、そこは彼を小さいころから知っている瑛である。よしよし、と彼の頭をなでるにとどめた。
「……俺も、なんだかんだで、いつも助けてくれる文姫が好き。大好き」
「あら。ありがとう」
瑛は微笑んで小首をかしげる。と、同時にぐっと引き寄せられ、
口づけられた。
瑛は目をしばたたかせる。後頭部と腰に珀悠の腕が回っており、身動きできない。もっとも、そうされていなくても、突然のことに瑛は動けなかっただろう。
触れるだけの口づけをして、珀悠は驚いた表情の瑛に言った。
「文姫のこと、待ってるから」
涙にぬれた顔に真剣な声音と言う何とも言えない様相で言われた言葉である。瑛は戸惑いながら、「う、うん」とうなずいた。
△
翌朝、瑛は禁城の正面前に整列した王師を見て「壮観ね」とつぶやいた。彼女の隣には皇帝・珀悠がいる。
「……一応、精鋭ばかりをそろえてみた。あの中に、間諜がいないと言い切ることはできないけど……」
「そこは自分で何とかするわ。これで十分よ」
瑛が自分の才能に絶対の自信を持っているからこその言葉だ。嫌味にも聞こえるその台詞であるが、彼女に関してはその才能を誰も否定することはできないだろう。
珀悠が自分より顔一つ分ほど背の低い瑛を見下ろした。彼女は正面を見ているので、珀悠からは横顔しか見えない。理知的な目が細められていた。
瑛は、普段の豪奢な衣装ではなく、鎧を身に着けていた。もちろん特注で、一般の鎧よりも小さく、そして軽量に出来ている。鎧を身に着けるのは初めてではないが、違和感がある。
「私は軍師だから、別に鎧はいらないのに」
「そうかもしれないけど、着ておいて。鎧を着ていた方が多少は防御力が上がるから」
珀悠に懇願され、瑛は肩をすくめた。以前、異民族の制圧に行った時とは違う。彼女は皇后で、次期皇帝の母親なのだ。慧峻に好かれている自覚のある瑛は、死んだら慧峻も悲しむだろうなぁと思った。
「わかったわ。私がいない間、慧峻をよろしくね」
「わかってる」
「あと、後宮が荒れたらごめん」
「……」
一応皇后位にある女性がいることで、後宮は何とか無法地帯にならずに済んでいる。ここで皇后がいなくなればどうなるか。考えるのも恐ろしい。
「……まあ、そのあたりは自業自得と言うことで」
そう笑って言ったのは瑛も面識がある䔥宰相の次男で珀悠の補佐をしている史紀だ。相変わらずのツッコミだ。珀悠が䔥家に預けられていた時、主に瑛と珀悠の行動にツッコミを入れていたのは彼だった。
軍の準備が整った。瑛は膝をつき、手を組み、頭を垂れる。うなじで一つに束ねた黒髪が肩から前に流れた。
「では、陛下。行ってまいります」
「……ああ。武勲を期待している」
「御意に」
瑛が立ち上がると、史紀が彼女に剣を手渡した。通常の剣よりやや長さが短く、細身だ。他に彼女は羽扇も携帯している。禁城の正面階段を下り、彼女は軍の一番前まで歩く。栗毛の馬と、その隣に同じく馬の手綱を持つ三十代半ばの男性が微笑んで待っている。
「義兄上」
「皇后様。ご機嫌麗しく」
生真面目にあいさつしたのは精悍な顔立ちの男だ。珀悠と同じくらい背が高く、おそらく、体格は彼よりもいいだろう。王師の将軍で、名は周奏偉。瑛が『義兄上』といったことから察せられたかもしれないが、彼女の姉、漣の夫である。
「姉上を置いていっていいの?」
「騒ぎましたが、こればかりは」
奏偉が苦笑して言った。予想を裏切らない姉に、瑛も苦笑を浮かべる。彼女は用意されていた足場を使わず、ひらりと馬にまたがった。
「よし。行きましょうか」
その言葉で、軍は前進をはじめ、禁城を出た。皇帝・珀悠は皇后・瑛の背中をさみしげに見送った。
珀悠が登極してから、一年が過ぎた夏であった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
瑛、遠征に行きます。
……遠征であっているのかな。
ちなみに、王師は皇帝の軍隊です。禁軍にするかちょっと迷いました。




