第091話 落ち着いてます
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 一月十九日 二十一時三十八分。
> 入電 ── 一般加入電話。発信地 ── 川沿い 五丁目。
> 第一声 ──「落ち着いてます」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「落ち着いてます」
尾花律子は用紙を引き寄せた。分まで書いて、秒は書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです」
「あの、落ち着いてますので。急ぎではないです」
「はい。今おられる場所を教えてください」
「川沿い五丁目です。稲取荘という、古いアパートです」
「お名前と、おいくつかを教えてください」
「杉浦です。杉浦 恒夫。七十四です」
「杉浦さん。そこで何があったか、教えてください」
「大したことではないんです。階段のところで、ちょっと」
「階段のところで、何があったか教えてください」
「足を滑らせまして。今、下におります」
「杉浦さん。今、立っておられるかどうか教えてください」
「座ってます。落ち着いてます」
尾花は右の欄へ、階段 転落 屋外 単身、と書いた。書いてから、その下を空けた。
「杉浦さん。立ち上がろうとされたかどうか、教えてください」
「しました。やめました」
「やめられたのは、どうしてか教えてください」
「いや、無理をすることもないと思いまして」
「杉浦さん。痛いところがあるか、教えてください」
「痛くはないです。落ち着いてます」
「杉浦さん。動かせないところがあるか、教えてください」
電話の向こうで、間が空いた。
尾花は待った。待つ間、書く手を止めている。
「右の足が、こう、向きが」
尾花はそこで書いた。書いた字は、右下腿 変形 疑い、になる。
その下に、通報者 自覚 なし、と足した。
自覚が無い、と書く欄は、用紙の右の下にある。三年で、この欄が埋まったのは十九枚になる。
十九枚のうち十四枚が、単身で住んでいる人の分になる。数えたのは尾花ではない。
「杉浦さん。動かさないでいてください。座ったままでいてください」
「動かしてません」
「杉浦さん。上着は着ておられますか」
「着てます。外に出るつもりだったので」
「杉浦さん。今日は外が氷点下になります。膝から下を、上着で覆っていただけますか」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟でも構いません。覆っていただけますか」
「……覆います」
「杉浦さん。同じ建物に、ほかの方がおられるか教えてください」
「二階の人が、さっき出ていきました。声は掛けてません」
「掛けなかったのは、どうしてか教えてください」
「夜ですし。急ぎではないので」
尾花は書いた。その下の欄へ、目撃者 無し、と足した。
「杉浦さん。隊が出ます。着くまで、電話は切らないでいてください」
「切らなくていいんですか」
「切らないでください。切ると、こちらから掛け直すことになります」
「切りません」
尾花は枠を見た。八つのうち、光っているのは一つになる。
光ったまま、消えなかった。
*
一月十九日の三階は、暖房を入れていた。夜の当直で、椀は朝の分を残してある。
武藤とうふ店は七時十分に置いていく。一月は四丁になる。武藤は数える時、一丁ずつ声に出す。一、二、三、と来て、四だけ「四つ」と言う。一月は、そこで終わる。
寺尾剛が鍋の火を落とした。落としてから、蓋を斜めに掛ける。
「まあ待て。四つで終わりだ。二月になれば五に戻る」
二文で言って、寺尾は火の当番の札を裏返した。冬の間、この札は裏のままになる。
灰谷蒼汰は索を膝の上に広げて、端から端まで指で送っていた。三年、出る前に必ず一度やる。
「索は四本、乾いています。外は氷点下二度です」
言ってから、四本目を袋の上へ入れ替えた。冬は火の季節になる。火の日は、四本目を上にする。
七尾ひかりは酸素の残りを見てから、七つ数えた。七つで戻る。数え終わってから、袋の中を上から順に並べ直した。
袋の中の副木を、ひかりは冬の間だけ二本余分に入れている。冬は転ぶ人が多い。
多いのは、転ぶこと自体ではない。転んだ後で動かずにいる時間が長くなる。
夏に転んだ人は、その場で誰かを呼ぶ。冬に転んだ人は、まず自分で立とうとする。
立とうとして立てなかった後の時間を、ひかりは副木の本数で数えている。数え方を、誰にも言っていない。
桐島奏が、その横で同じ順に並べていた。並べ終わってから、袋の口を三度確かめる。
「奏さん。冬に転ばれた方は、先に何を見ますか」
「七尾 ひかりさん。冷えを見ます」
「はい。骨より先に、冷えを見ます」
「冷えは、どのくらいで来ますか」
「氷点下だと、座ったままで三十分から来ます。上着の外側からでは分かりません」
奏は頷いた。頷いてから、自分の順番へもう一つ足した。
逢坂澪は受信席の裏で、川沿い五丁目の建物の図を出していた。稲取荘のところに、印が一つ入っている。
「川沿い五丁目。木造二階建て、六戸です。建ったのは四十四年前になります」
「階段は」
「外の鉄骨です。北側です。段は十四段になります」
「灯りは」
「階段の上に一つ。下は無いです」
「氷は」
「日が当たりません。北側で、川からの風が抜けます」
久遠寺の質問は、三年、短いままになる。感想を挟んだことがない。
地下三層で、宮ヶ瀬佳代が盤の前に座っていた。腕の内側の時計は、四十一時間になる。
「宮ヶ瀬さん。冷えを外から見るものは」
佐波がそう訊いた。宮ヶ瀬は盤から目を上げずに答えた。
「作れません。服の上から中の温度を見る形は、まだ出来ていません」
この人は出来ていない側から言う。三年、そこが変わらない。
覚知の音が鳴った。
佐波が盤の横の梯子を上がっていった。上がった先が、二層の指令室になる。
澪が稲取荘の図を、机の中央へ寄せた。寄せてから、北側の階段に指を置いた。
「アンサー」
> ── はい。
「川沿い五丁目、稲取荘を」
> ── 電気は来ています。灯りが四つ、点いています。
「階段の下は」
> ── 音があります。人の呼吸が一つ。速さは普通です。
「ほかの音は」
> ── 川の音が入ります。……人の声は、通話の一つだけです。
「二階の人は」
> ── 六戸のうち四戸に人がおられます。階段の下の音に、どなたも近付いておられません。
「気付いていないのか」
> ── 分かりません。聞こえているかどうかは、こちらでは分かりません。
アンサーは、分からないことを分からないと言う。三年、そこだけは変わらない。
澪が図の縁から指を離した。
「座標、出た」
*
地下二層のポールを、迅が最初に下りた。二段飛ばしで踊り場を抜けて、下りきる前に走りはじめる。アンサーは一段ずつ下りる。
「発進」
合図は整備班が出す。六人ではない。
川沿い五丁目の稲取荘の前に着いたのは、二十一時四十七分になる。所要は九分だった。
一月十九日の夜で、川からの風が抜けている。北側の階段の下は、灯りが届いていない。
階段は外の鉄骨で、十四段ある。段の縁が、川の湿りで白い。
その下に、人が座っていた。
杉浦恒夫が、階段の一番下の段に背中を預けて座っている。七十四になる。上着の裾を、膝の上まで掛けている。
右の足の向きが、膝から下だけ外を向いていた。
「すみませんね。夜分に」
言ってから、杉浦は電話を持った手を少し上げた。切らないでください、と言われてから、そのままでいる。
ひかりが杉浦の前へしゃがんだ。しゃがんでから、目の高さを合わせた。
「杉浦さん。上着を掛けてくださって、助かりました」
「大袈裟ですよ、こんなの」
「杉浦さん。そのままでいてもらえますか」
ひかりは杉浦の指に触れた。触れてから、爪の色を見た。
次に、足首から先に触れた。触れる前に、触りますと言った。
「杉浦さん。冷たいところを教えてもらえますか」
「冷たくないです。落ち着いてます」
ひかりは、そこで手を止めなかった。止めずに、靴の中へ指を一本入れた。
入れた指を、すぐ抜いた。抜いてから、袋の口を開けた。
「五十一分です」
言ったのは蒼汰になる。二十一時三十八分から、二十一時四十七分まで。掛ける前が四十二分ある。
杉浦は、階段から落ちてから四十二分、掛けなかった。掛けなかった理由を、この人は言っていない。
寺尾がハンマーを担ぎ直した。担ぎ直してから、階段の下の土を足で二度踏む。
「まあ待て。ここは打てん。土が凍って浮いてる」
二文で言って、寺尾は建物の南側へ回った。回った先の舗装を、踵で叩く。
「ここなら効く。二本立てる」
澪が階段の下からソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「五名。階段の下に一。二階に四。撃てる」
撃った。低い音が、鉄骨の階段を上へ抜けた。
「四名とも動いています。誰も出てきません」
二階の四戸の窓は、四つとも灯りが点いている。点いたまま、開かない。
階段の下の空気が、また一段下がった。
「トリアージ」
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。ブレスが色を出す。
> 判定 ── 黒。要救助者、無し。倒してください。
階段の一番上の段の下から、白いものが垂れた。
垂れた先が、段を一つずつ下りてくる。下りた段の縁の白が、厚くなった。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
「急報 ── 通報!」
奏がダイヤルに指を入れた。一を回して、指を戻す。もう一度、一を回す。三度目に、九を回した。
> サイレン ── 着信。〈桐島 奏〉。応答、確認。
> ── 回線、残り 二本。市内 受信可能 八。
二本になった。一月の夜の九時で、残っているのが二本になる。
迅は右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。五人が続けた。
杉浦は、階段の下から、それを見上げていた。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
> 名を持っていく、影の現場 ─── サイレンゴールド!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
声は鉄骨の階段に当たって、二階の四戸の戸へ届いた。届いた先で、戸は一つも開かなかった。
「重装 ── 換装!」
> サイレン ── 重装。〈寺尾 剛〉。回線 ── 二本。
> ── 回線、残り 一本。市内 受信可能 八。
寺尾の背が厚くなった。厚くなった分だけ、動きが遅くなる。
遅い寺尾が、階段の下へ入った。入って、杉浦と階段の間へ背中を差し込む。
差し込んだ背中の上へ、垂れてきたものが下りた。
「まあ待て。落ちるのは俺の側だ。この人は動かすな」
二文で言って、寺尾は膝を段の縁へ掛けた。掛けた膝の下で、凍った土が割れた。
ひかりが杉浦の膝の上へ、袋から出した覆いを掛けた。掛けてから、足首の下へ手を入れた。
「杉浦さん。副木を当てます。当てる間、動かないでいてもらえますか」
「はい」
この日、この人が初めて、大袈裟ですよ、と言わなかった。
「斧!」
ギアの柄が半回転して、噛んだ。噛む音が、鉄骨の段の間で二度に割れて聞こえた。
迅の斧が、階段の中ほどで垂れているものの一本を横から割った。
割った先が、粉になって落ちた。落ちた粉が、段の上でまた白く固まる。
「上から来ます。十四段、全部です」
蒼汰が数を先に言った。言ってから、索を階段の手摺へ回す。
禍体は下りてこない。下りずに、段の縁を一段ずつ白くしていく。
白くなった段の上で、鉄骨が鳴る音が消えた。
消えた先で、二階の四戸の中の音が外へ出なくなった。
四戸の人は、四人とも起きている。起きたまま、外の音を聞いていない。
迅が階段の一番下の段に足を掛けた。掛けて、上を見た。
上を見てから、迅は段を上らない。上らずに、階段の外側へ回った。
回った先で、迅は鉄骨の支柱を両手で掴む。掴んで、揺すった。
揺すった鉄骨が、上まで鳴る。鳴った音は、白くなった段の上を通らずに、支柱の中を通っていく。
二階の一戸の戸が開いた。
開いた戸から、四十くらいの人が顔を出した。出してから、下を見た。
下に人が座っている。見えた瞬間に、その人は階段を下りはじめた。
「上るな。段が凍ってる」
三文字ではない。九文字になる。それだけ言って、迅は支柱から手を離した。
その人は、下りかけた足を止めた。止めてから、戸口へ戻った。
戻ってから、その人は隣の戸を叩いた。二回叩いて、間を空けて、また二回叩いた。
叩き方を、この人は去年の夏に教わっている。教わった場所は、この階段の上になる。
教えたのは、この建物へ来た隊の一人になる。名は覚えていない。覚えているのは、二回ずつ、間を空ける、というところだけになる。
その夏に叩いた戸は、今日と同じ三つになる。三つとも、同じ順で開いた。
二戸目が開く。三戸目が開く。四戸目が開いた。
四つの戸が開いた分だけ、二階の廊下が明るくなった。
明るくなった光が、階段の上から下まで落ちた。
白くなっていた段の縁が、光の当たった側から薄くなった。
「サイレンアックス ── 急救斬ッ!」
迅の斧が、階段の中ほどの芯を、支柱の側から横に断った。
断たれた先で、白いものが段を離れた。離れて、階段の外の土へ落ちた。
落ちた先で、鉄骨がまた鳴った。鳴った音が、二階の四戸まで届いた。
*
杉浦恒夫は、担架の上で二階を見上げていた。
二階の廊下に、四人が出ている。四人とも上着を羽織っている。
「すみませんね。夜分に」
杉浦がそう言った。言った先は、二階の四人になる。
四人は、それに何も言わなかった。言わないまま、四人とも階段の手摺に手を掛けている。
最初に戸を開けた人が、手摺から手を離した。離してから、下へ声を掛けた。
「杉浦さん。声、掛けてくれたらよかったのに」
杉浦は、それに答えなかった。答えずに、担架の縁を掴んだ。
掴んだ手の甲に、擦れた跡がある。階段の縁で擦った跡になる。
ひかりが、その手の甲へ手当てをした。手当てをしながら、杉浦の指をもう一度見た。
「杉浦さん。掛けてくださって、助かりました」
「大袈裟ですよ」
「四十二分、掛けずにおられました。四十二分の間、こちらは何も出来ません」
「そんな、大変なことでは」
「大変なことでした」
ひかりは、そこで理由を付けなかった。付けずに、覆いを掛け直した。
杉浦は、それに何も言わなかった。言わないまま、目を閉じた。
閉じた目の下の皮膚が、赤い。冷えた側の色になる。
担架が動きはじめた。動く先を、二階の四人が見ている。
見ている四人のうち、最初に戸を開けた人が、右手を耳の高さまで上げて、掌を外へ向けた。
上げてから、下ろした。
残りの三人が、それを見た。見てから、三人とも同じ形をした。
誰も何のためにやっているかを言わない。
階段の下の暗いところに、人が立っていた。
一月の夜で、その人は上着を着ていない。素手で、両手を下げている。
立っているのは〈自力〉になる。迅が、そちらへ体を向けた。
「そこだ」
「あの方は、四十二分、誰にも言いませんでした」
声はそう言った。誰も言い返さなかった。
「自分で立とうとして、止めた。止めてから、自分で決めて掛けた。あれは、あの方の力です」
「四十二分は要らない」
「要りますよ。要らないと言うなら、代わりに誰かが見つけるしかない。上に四人いて、四人とも気付かなかった」
言ってから、〈自力〉は自分の左の掌を右手で覆った。掌に、擦れた跡がある。
覆ってから、〈自力〉は階段の外の暗いところへ歩いていった。
歩いていった先で、落ちた白いものが土から起き上がった。
*
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「アパートの前には立てません。川の護岸が近すぎます。橋の南詰めだけ使えます」
「発進」
合図は整備班が出す。
サイレンファイヤーが橋の南詰めで立った。レスキューが右へ、クレーンが左へ、メディックが右の脚へ、ウイングが背へ回る。
立つ時、四本の脚が護岸の縁を外して置かれた。外した分だけ、置ける場所が狭くなる。
> ── 回線、残り 一本。市内 受信可能 八。
橋の上から、人が見上げていた。一月の夜の九時台で、通り掛かった人が七人いる。稲取荘の二階の四人が、廊下から見ている。
見上げているのは、橋の上と、二階の廊下からになる。
サイレンオーの左手は、握ったままだった。開かない。その握った左腕を、迅は稲取荘の北側の壁へ添えた。
添えた腕が、外の鉄骨の階段を横から押さえた。押さえた内側で、白いものの行き場が川の側だけになる。
川の側へ伸びた白いものは、護岸の上へ乗ろうとした。乗った先には、橋がある。
右腕が動いた。開く方の掌が、乗ってくる腹を横から受けた。受けた場所で、白いものが薄くなる。
薄くなった中から、階段の手摺が一本出てきた。四十四年、六戸の人が同じ場所を掴んできた一本になる。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
受けた掌が、手摺を避けて、白いものの芯だけを横から断った。
断たれた先で、形が保てなくなる。白いものは、ただの霜になって川の面へ落ちた。
落ちた霜の下で、鉄骨の階段の音が戻った。
戻った音を、橋の上の七人が聞いた。聞いてから、そのうちの二人が稲取荘の方を見た。
見た先の階段は、下まで灯りが届いていない。四十四年、下には灯りが無い。
*
地下三層で、戸倉がクレーンの左の脚の裏を拭いていた。拭いた布に、護岸の砂が付く。
「護岸の縁を踏みました。砂が噛んでます」
「噛んだままです。砂を抜く形は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、腕の内側の時計を見た。四十四時間になる。
佐波が川沿いの建物の表へ、五丁目の欄を書き足した。書き足してから、戸倉に言った。
「あの人、階段を上らないで、外から柱を揺すりました。段が凍ってたので」
「本人に言え」
「言いません」
それで終わった。佐波は表を畳んで、棚の二段目へ入れた。
三階の食堂で、寺尾が朝の分の椀を確かめた。一月の椀は、四丁分になる。
確かめてから、寺尾は自分の背中を一度回した。回した先で、肩が鳴った。
重装で背を厚くした日は、その日のうちに肩が抜けない。抜けないことを、この人は誰にも言わない。
迅は、その音を聞いていた。聞いていて、何も言わなかった。
尾花律子は受信席で用紙を綴じた。この日、保留は六件だった。最長は五分二十秒になる。
六件は、この三年で一番多い。多くなったのは、占有が八本になったからになる。
六件のうち四件は、市内のほかの町からの一般の入電だった。残る二件が、川沿い五丁目から来ている。
二件とも、稲取荘の前を通った人が掛けてきた。二人とも、階段の下は見ていなかった。掛けたのは、橋の上で見上げたからになる。
八本のうち二本は、寺尾の背を厚くするために使った。厚くした背で、この人は落ちてくるものを受けた。
尾花は、その二本を用紙に書かない。書く欄が無い。
書く欄の無いものが、この三年で三つある。三つとも、増えも減りもしていない。
三つを覚えているのは、この人だけになる。覚えていることも、書いていない。
一枚目の用紙の第一声の欄には、落ち着いてます、と書いてある。
その下の、通報者 自覚 なし、の欄を、尾花は消さなかった。
六人は、この人に礼を言わない。言わせない。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 二十一時四十七分。所要 ── 九分。
> 保留 ── 六件。最長 五分二十秒。
> 未着 累計 ── 一。
> 判定 ── 黒。破壊 ── 中。
> 損壊 ── 川沿い五丁目 稲取荘 外階段 鉄骨 三段 変形。手摺 二メートル 変形。
> 護岸 天端 四メートル 破損。橋 南詰め 舗装 六平米 破損。
> 救助 ── 一名。搬送 ── 一名。避難 ── なし。
> 受信 ── 覚知から臨場まで 保留 六件。占有 八本。空き 零。
> 覚知遅れ ── 受傷から通報まで 四十二分。目撃者 ── 無し。
> 音 ── 川沿い五丁目 外階段 音声 消失 十一分。
> 市内 単身の高齢の方が住む住戸 ── 一万二千四百戸。うち 外階段のみの住戸 二千百戸。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




