第3章 風の記憶 ― そして、医局へ ―
屋上に吹く風。そこには、母・美鈴の面影があった。
そして凪くんの前に、ひとりの兄が姿を現す。
屋上の扉を開けた瞬間、潮の香りを含んだ風がふわりと吹き抜けた。
青い空と海がひと続きになっていて、
病院の屋上とは思えないほど穏やかな光が満ちていた。
柊は目を細め、静かに言った。
「……いい場所だな。」
凪は頷きながら、視線をめぐらせた。
ハーブのプランターが整然と並び、
その奥に“美鈴ガーデン”と刻まれた小さなプレートが立っている。
「母さんがね、
“人の心にも風が通る場所を作りたい”って言って造ったんです。」
環はゆっくりと息を吸い、目を閉じた。
「……なんか、優しい香りがします。」
「ローズマリーとミントです。母さんが好きだった。」
風が三人の髪を揺らす。
時間がゆっくりと巻き戻っていくような静けさの中で、
澪が小さく微笑んだ。
「ここは、美鈴さんの“もう一つの診察室”だったの。
患者さんを連れてきてはね、“風の声を聞いてごらん”って。」
凪はその言葉に小さく頷いた。
「……やっぱり、ここに来てよかった。」
「私は医局に戻るわ。
あなたたちは、少し風と話していらっしゃい。」
そう言い残して、澪は静かに扉の向こうへ消えた。
――その背中を見送ったあと、
ふいに後ろから明るい声が響いた。
「おーい、ハル!」
凪が振り返ると、白衣の袖をまくり上げた男性が立っていた。
柔らかく焼けた肌と、人懐っこい笑み。
整形外科医・三男の凪 海翔。
「……海翔兄さん。」
「うわ、ほんとに帰ってきたのか!
しかも“仕事”でって……ハルらしいな〜。」
「まぁ、いろいろありまして。」
「あはは、そう言うと思った。
で、こっちの二人は?」
「如月です。アークシステムズのプロジェクト担当です。」
「同じく事務担当の如月環です。お世話になります。」
「どうもどうも。ハルの仲間か。
あいつ、昔から面倒見よくてさ、
気づいたら何でも背負ってるタイプなんだよな。」
「……想像できますね。」
「海翔兄さん、余計なこと言わなくていいですから!」
海翔は笑いながら手を振った。
「まぁまぁ。兄貴たちに会う前に笑っておいた方がいいぞ。
あの二人、いまだに“白衣が鎧”だからな。」
「鎧……ですか?」
「理屈とデータでできてる兄貴たち。
でも悪い人じゃない。
ただ、ハルが選んだ道が理解できてないだけだ。」
凪は少しうつむき、風に目を細めた。
海翔はその肩を軽く叩く。
「父さん、今日機嫌いいから。
“おかえり”って、たぶん言ってくれるよ。」
「……そうだといいな。」
「じゃ、行くか。医局で待ってるぞ。
あいつら、驚くだろうな〜。」
そう言って、海翔が先に階段を降りていく。
柊と環が視線を交わし、凪が小さく息を整えた。
――風が、背中を押した。
海翔兄さんの言葉に、少しだけ心がほぐれる。
けれどその先には、理屈と現実の世界――医局が待っている。




