21.見ようとしなかったもの
「……」
一通り最後までファイルに目を通した行人はそれを閉じると、ゆっくりと自分の手前に置いた。そして心を落ち着かせるためだろうか、お茶に口を付ける。
最初は温かかったお茶が、随分とぬるくなってしまったことに、行人は今更ながら結構時間を使っていたんだなと思ったのだった。
「どうだった?」
清香がタイミングを見計らって話しかける。正直、声をかけるかどうするか迷ったのだが、こちらから端緒を開いてやらなければいつまでも黙っているかもしれないと思い、水を向けたのだ。
「ええ…」
大きく息を吐きだしながら、腹の底から絞り出すように行人が答える。が、その先が続かない。とは言え、またしばらく沈黙が続くのは時間的にも望ましくないので、清香が再び水を向けた。
「中々だったでしょう?」
「全く…」
答えた行人が両手で額を抑えた。中身にどんなことが書いてあるか大体予想していた行人だった。そして、それは大体予想通りだった。そのため、今行人の心を支配しているのは、
(見るんじゃなかった…見なきゃよかった…)
その一点だけだった。
「で…」
行人が葛藤しているのを考慮に入れつつも、清香が身体を少し前のめりにする。
「どうする?」
それは、行人のこれまでの人生の中で最も重い『どうする?』だった。
「さて…」
清香から距離を取るかのように行人はソファーの背もたれに深く身を沈めた。
「どうしましょうかね…」
偽らざる本心を吐く。この言葉は、紛れもなくこの時の行人の心情を端的に表していた。行人はそのまま、もう一度視線を先ほどまで開いていたファイルに向ける。
「…まあ、腹違い…つまり親父が一緒っていうことだからある程度家と似たような環境だとは思ってましたけどね。でもねぇ…」
行人が重々しく息を吐きだした。
「何も揃いも揃って同じような環境下でなくてもいいのに…ってところですよ。率直なところは」
「そうね」
「それともう一つ、改めてなんですけどあの親父は本当にどうしようもないってことです。この場にいたらブチ殺してやりたいぐらいにはムカついてます」
(まあ…気持ちはわかるわね)
そのことには言葉を発することなく、清香は内心で同意した。立場上同じようなことは言えないが、この調査報告に初めて目を通した時には清香も同じ思いに駆られたのだ。実の息子である行人がそう思うのも無理はなかった。
「でも…どうなんですかね?」
清香がそんなことを考えていると、行人が不思議そうな顔をしてポツリと呟いた。
「? 何が?」
質問の意図がわからず清香が尋ねた。
「いや、俺はまだわかるんですよ、息子だから。男親があまり関心持たないのかもしれないっていうのは、まあそんなもんかなとも思えるんですけど、あいつらは娘でしょう? 男親にとっちゃ、それこそ目に入れても痛くないほど可愛いと思うもんなんじゃないですか? でも実際には…ねぇ?」
「ああ、そういうこと」
質問の意図を理解した清香が口を開いた。
「そうね。確かに普通に考えれば、男親にとっては娘は息子よりも可愛いかもしれないわ」
「でしょ?」
「でもねぇ、それはあくまでも普通に考えればの話だからね。実のお父さんに対しての意見だから行人くんはあまり聞いてて面白くないかもしれないけど、あっちこっちに女作って無責任に子供を作るような人だからね、そこら辺の感覚もイカレてるんじゃないの?」
「にしたって、相手は女の子ですよ? なのに…」
「どうやって遊んで暮らすかしか考えてなかったんじゃない?」
「……」
行人が返答に詰まった。辛辣だが、確かにそうかもしれないと思わせるほど父である一朗の糞っぷりは自身が身をもってよく知っているからだ。
「あの糞親父はホント…」
絶句して、行人はそれ以上の言葉が出てこなかった。それを見計らってと言うわけでもないのだろうが、清香がファイルに手を伸ばしてそれに再び目を通した。
「さっきの行人くんの言葉じゃないけど、時期の違いはあっても揃いも揃って皆母親もいないんだもんね。病死、蒸発、事故死…何故いないかの原因はそれぞれ異なっても、全員天涯孤独か」
「んでその後はまあ、親戚中をたらい回しにされるという、ある意味お決まりのコースですね」
「ええ。それでこれもお決まりだけど、皆何処行っても酷い扱いだったみたいね。このご時世にそんなテンプレみたいなことあるのかと思ったけど、あるんでしょうね実際に。何より…」
清香がファイルをテーブルの上に投げると、それをクイックイッと指さした。
「ここにあるんだもの」
「ですね…」
再び大きく息を吐きながら、行人は数日前の駅前での一件を思い出していた。
『お兄ちゃんのバカー!』
泣きながら茅乃と宮乃が自分に罵声を浴びせたのはそういう事情があったからだったのかと今にして思う。その後、咲耶がすごい顔を…それこそ親の仇でも睨むような顔で自分を睨んだのもこういったバックボーンがあったからだったのだろう。と、
(…いや、違うな)
ここまで考えたところで行人は内心でかぶりを振った。
(本当は薄々気づいてたんだよな。こんなことなんじゃないかなって。それを見ないふりをしていただけ、意識して目の中に入れなかっただけのことなんだよな…)
行人はそれを認めた。そう、本当はとっくに気付いていたのである、こんな事情なんじゃないかってことは。それは、生活能力のない子供が後先考えずに押し掛けてきたこと。そして、自身の腹違いの兄弟であるということは、父親が同じということ。
それを考えれば、何故義妹たちがあんな真似をしたのかは容易に想像のつくことだった。今回は皮肉にも大当たりだったが、もし外れていたとしても、当たらずとも遠からずの理由だっただろう。
(ああ、そうか…)
そしてそのことがまた、一つの事実を導くことになる。
(結局あいつらも俺と同じなんだな…)
何とも表現しがたい気分になりながら、行人はガシガシと頭を掻いた。
「度し難いな、我ながら…」
「……」
自嘲するかのように呟いた行人を、清香が複雑な表情で見ていた。それは、こうしたことが正しかったのかどうかを今も自問する故のジレンマだった。
(苦…)
思わずその後ろめたさから逃れるために口を付けたお茶は、先ほどまでとは違って冷たく、そしてどうしようもなく苦く感じたのだった。と、
「あいつら…」
不意に、行人がポツリと呟いた。
「ん?」
後ろめたさから逃れようとするためだろうか、清香がすぐに食いつく。自分がお節介でやったこととはいえ、ジッとしていると押し潰されそうに感じていたのだ。何でもいいから変化が欲しかった。
「あいつら、今何処にいるんですかね? それぞれの家に帰ったんでしょうか?」
「…知りたい?」
その意思を確認するかのように、清香がゆっくりと口を開いた。
「え?」
まさか答えが返ってくるとは思わず、行人はビックリしながら清香の顔を見た。
「会いたいんなら、会わせてあげるわよ。その後どうするかはあなた次第だけどね、行人くん」
「……」
試されるような視線を受け、行人は一瞬躊躇った。ここでどう返答するかは自分の人生における大きなターニングポイントだと行人も自覚しているからだ。
(会えばどうなるかも、会わなければどうなるかも、大体想像がつくな。さて…)
俺はどうするかなと考えた時、行人の脳裏に真っ先に浮かんだのがこの事態を作った元凶である父親の一朗のことだった。が、元凶故に頭に浮かべたくもないため、さっさとその姿を脳裏から追い払う。
(というか、あの糞親父のことは頭の片隅にでも置いときたくねえしな)
頭の中から一朗を爪弾きにすると、次に浮かんできたのは母親の葉子の姿だった。
(母さん…)
脳内で、生前の姿のまま優しく微笑む葉子に行人は語り掛ける。
(どうすりゃいいのかね、俺は)
語り掛けたところで、脳内の葉子が答えてくれるはずはない。当たり前の話だ。でも、それでも十分だった。
(そうだよな…)
時間にしてどのくらい経ったのだろうか、人生のターニングポイントを決めるにしては長すぎるような短すぎるような時間の後で、行人は徐に口を開いたのだった。
「俺は…」




