第44話 死んだことにされた運び手
王都西環の一斉照合を止めた夜。
照合保留へ移した人数と、氏名記録には一人分の差がありました。
地図にない零号倉庫。
名前のない登録。
その正体を調べ始めたシュウの前に、帰らない祖父を捜す少年が現れます。
記録の上では、祖父は八年前に死んでいました。
けれど少年は、今朝も同じ人が仕事へ出る姿を見ています。
「じいちゃんを返して!」
少年の声が、夜明け前の臨時仕分け所へ響いた。
十歳くらいだろうか。
片方の靴紐がほどけ、膝には泥がついている。
息を切らしながら、物流局長ダルメス・カインの外套を両手で掴んでいた。
「名前は」
ダルメスが聞く。
「トト。トト・バラン」
「お前ではない。祖父の名前だ」
「バル爺。みんな、そう呼んでる」
「正式名を聞いている」
「知らないよ!」
少年の目に涙が浮かぶ。
「じいちゃんは今朝、荷を運びに行った! 夜には帰るって言ったのに、まだ帰ってこない!」
「どこの倉庫だ」
「ゼロ」
その一言で、周囲の空気が変わった。
「ゼロって呼ばれてるところ。西三番倉庫の下から入るって」
零号倉庫。
俺たちが探していた入口を、この少年は知っている。
「誰に聞いて、ここへ来たんですか」
俺が膝をついて尋ねる。
「バル爺が帰らない時は、偉い人に言えって隣のおばちゃんが」
「いつも帰りが遅れることは?」
「ある。でも、朝の薬がいるんだ」
「薬?」
「じいちゃん、胸が悪い。夜の分しか持ってない」
今すぐ見つけなければ、朝まで保たないかもしれない。
零号倉庫の謎より先に、困っている人がいる。
「分かりました。捜します」
「本当に?」
「はい」
「シュウ」
セリア・グランツが俺の腕を見る。
ノアが結んだ青い紐。
魔流視を使った後の頭痛は、まだ残っている。
「見ません」
「まだ何も言ってない」
「顔が言っています」
「最近、分かるようになった?」
「必要なので」
セリアが少しだけ笑う。
すぐに少年へ目を戻した。
「トト。おじいさんの服は?」
「茶色。背中に黄色い継ぎがある」
「武器は?」
「持ってない。荷車の棒だけ」
「分かった。私も捜す」
少年の肩から、わずかに力が抜けた。
◇
「待て」
ダルメスが厚い帳簿を開いた。
「西三番倉庫の地下に、人が入れる区画はない」
「でも、この子は入口を知っています」
「子どもの話だけで、明朝便の復旧を止めるつもりか」
照合保留者四千八百十二名。
明朝までに、薬、食料、燃料の運び手を優先して戻さなければならない。
臨時仕分け所では、すでに物流局職員と倉庫番が確認作業を始めている。
ここで全員が地下へ行けば、王都の朝が止まる。
「止めません」
俺は答えた。
「復旧班と捜索班を分けます」
「また仕事を増やすのか」
「増えています。見つかったので」
「言い方というものがあるだろう」
「すみません」
ダルメスは眉間を押さえた。
「明朝便の優先復旧は私とカレンさん、リリアさんで続けます」
カレン・ベルシアが言った。
「現場の本人確認には、各倉庫の班長を入れます。シュウ様がいなくても進められます」
「地下の術式は、私が見る」
ミラ・フォルネが工具箱を閉じた。
「シュウは見なくていい」
「捜索は俺、セリア、ミラ、ジノ」
ジノ・バレットが顔を上げる。
「俺、決定済み?」
「地下の逃げ道を見つけられるのはジノです」
「そう言われると断りにくい!」
「断ってもいいです」
「もっと断りにくくなった!」
怖いのを隠すように早口になる。
それでも、ジノはすでに腰の短剣と小さな灯り石を確かめていた。
「白環は私と二名が同行する」
セルヴィス・アルカードが言った。
「零号倉庫が黒環術式の中枢なら、即時封鎖が必要だ」
「人がいるなら、先に出します」
「汚染の程度による」
「程度を確認する前に閉じないでください」
セルヴィスの目が細くなる。
「確認はする」
以前なら、ここで言い争いになったかもしれない。
今は完全に同じ考えではなくても、順番を共有できる。
「トトはここで待っていてください」
「俺も行く」
「危険です」
「じいちゃん、俺が呼ばないと出てこない!」
少年の声が震える。
「ゼロの仕事は誰にも話すなって言われてる。知らない人が呼んでも、隠れるよ」
バル爺は、見つかることを恐れている。
それでも家族には、入口だけを教えていた。
「入口までです」
俺が言うと、セリアがこちらを見る。
「中へは連れていきません。入口で呼んでもらい、カレンさんの支店員に預けます」
「約束できる?」
トトが聞く。
「危険なら、そこで止まってもらいます」
「じいちゃんを置いて逃げない?」
胸に刺さる問いだった。
「置いていかない方法を探します」
必ず助けるとは言えない。
それでも、人数に入らないから切り捨てることはしない。
トトは唇を噛み、うなずいた。
◇
西三番倉庫では、明朝の食料便を出す準備が続いていた。
袋詰めされた麦。
塩漬け肉。
共同炊事場へ送る根菜。
倉庫番たちは、照合保留の青白い登録環をつけたまま、二名確認で扉を開閉している。
「地下への入口?」
班長の男は首を振った。
「ここに二十年いるが、聞いたことがない」
「バル爺を知っていますか」
トトが前へ出る。
「背中に黄色い継ぎのある、じいちゃん」
男の顔が、わずかにこわばった。
「知らん」
「嘘だ!」
「仕事の邪魔だ。子どもを外へ出せ」
班長は倉庫番へ命じた。
セリアがトトとの間に立つ。
「触らないで」
「今は明朝便を出している! 食料が遅れれば、王都で何人が困ると思っている!」
「一人を捜したら、全部止まるんですか」
「余計な作業を増やすなと言っている!」
男の苛立ちは本物だった。
黒環会の仲間だからとは限らない。
人が足りない中で、予定外のことを持ち込まれた管理者の顔だ。
「出庫作業は止めません」
俺は倉庫の人員を見る。
「地下入口を知る人だけ、五分貸してください」
「そんな者はいない」
「では、なぜ名前を聞いた時に右の搬送台を見たんですか」
班長の目が揺れる。
魔流視ではない。
人の視線だ。
トトがバル爺の特徴を言った瞬間、男は右奥を見た。
「決めつけるな」
「決めつけていません。確認します」
リリアは復旧班に残っている。
だが、セリアも同じ動きを見ていた。
「私も見た」
男の逃げ道が一つ減る。
トトが突然、搬送台へ走った。
「ここだ!」
床へ置かれた空の荷板を指す。
「じいちゃん、この下に麦袋を三つ乗せるって言ってた!」
「止まれ!」
班長が少年の腕を掴もうとした。
セリアが手首を受け止める。
「子どもに触らないでって言いました」
声は静かだった。
だが、剣を抜くより怖い。
「秘密保持の契約があるんだ」
男は低く言った。
「話せば、俺の登録も消される」
「もう照合保留です」
俺が答える。
「今は中央から自動で消せません」
「そんな保証があるか!」
「四者確認がなければ、登録を戻すことも消すこともできません」
「その間、俺の家族はどうなる」
班長の目に、怒りと恐怖が混ざっていた。
「ここを失えば、住む部屋も配給札もなくなる。ゼロの連中を知らないふりすれば、地上の仕事だけは残すと言われた」
脅されていた。
同時に、誰かを隠す側へ回っていた。
「バル爺は、まだ下にいますか」
「分からない」
「最後に見たのは?」
「昨日の朝だ」
「死んだと知っているのに?」
ダルメスの声が、入口から飛んだ。
復旧班に残ったはずの物流局長が、厚い帳簿を抱えて立っている。
「何を言ってる」
班長の顔が青ざめる。
ダルメスは帳簿を開いた。
「バルという通称の運び手を照合した。正式名バルト・ハルン。八年前、西環北搬送路の崩落事故で死亡」
トトが振り向く。
「じいちゃんは死んでない!」
「記録では死亡している」
ダルメスは少年ではなく、班長を見る。
「死亡者を八年間働かせ、その賃金はどこへ計上した」
「俺は、上から割り当てられた荷を渡しただけだ」
「上とは誰だ」
「知らない」
「知らない相手のために、子どもの祖父を隠したのか」
班長は答えられなかった。
ダルメスは倉庫番たちの前で、自分の局長印を取り出した。
「西三番倉庫班長の入出庫承認権限を、調査終了まで停止する」
「待ってくれ! 明朝便は!」
「副班長が代行する。お前一人を外しても、仕事が止まらないようにするのが管理だ」
目に見える形で、権限が止まった。
しかし、班長を連れ去って終わりにはしない。
「家族の配給と住居は維持する」
ダルメスが続ける。
「お前の聴取と、家族の生活は分ける」
班長の膝から力が抜けた。
「……麦袋を三つだ」
かすれた声。
「荷板の右奥、重さを百二十斤に合わせると、下りの搬送溝が開く」
入口が見つかった。
◇
麦袋を三つ、荷板の右奥へ積む。
ミラが重さを測り、最後の一袋を少しだけずらした。
「百十九……百二十斤。来る」
石床の下で、古い歯車が動いた。
荷板の周囲へ細い隙間が開く。
そのまま、音もなく沈み始めた。
「戻す方法は?」
ジノが班長へ聞く。
「下の鎖を三回引く」
「壊れてたら?」
「知らない」
「そういうところを聞いてるんだよ!」
ジノはしゃがみ込み、開いた床下をのぞく。
「壁に足場がある。最悪、登れる。でもトトは無理」
「入口までの約束です」
俺は少年へ向き直った。
「ここでおじいさんを呼んでください」
トトは暗い穴へ顔を寄せた。
「じいちゃん!」
小さな声が、石壁に何度も反響する。
「バル爺! 俺だよ! トトだよ!」
返事はない。
代わりに、ずっと下の方から荷車の音が聞こえた。
零号倉庫は、まだ動いている。
「もう一回」
セリアが言った。
トトは大きく息を吸った。
「じいちゃん! 朝の薬、持ってきたぞ!」
今度は、遠くで何かが落ちる音がした。
それから、かすかな声。
「……トト?」
少年の顔が輝く。
「じいちゃん!」
「入ってくるな!」
しわがれた声が、急に強くなった。
「そこを離れろ! 見つかったら、お前まで消される!」
生きている。
そして、地上へ戻ることを恐れている。
「迎えに来たんだ!」
「帰れ!」
「嫌だ!」
「トト」
俺は少年の肩へ手を置いた。
「約束通り、ここから先は俺たちが行きます」
「でも、じいちゃん逃げるよ」
「逃げても捜します」
「嘘つかない?」
「嘘はつきません」
トトは胸元から、小さな薬包を取り出した。
「これ、絶対渡して」
「預かります」
俺が受け取ろうとすると、セリアが先に手を出した。
「私が持つ」
「俺では信用が?」
「途中で倒れた時、落とすでしょ」
「そこまで弱ってはいません」
「可能性の話」
否定しにくい。
トトは迷った後、セリアの手へ薬包を置いた。
「お願い」
「うん。必ず渡す」
少年はカレンの支店員に預ける。
荷板へ乗ったのは、俺、セリア、ミラ、ジノ、セルヴィスと白環騎士一名。
「ダルメス局長は地上を」
「言われなくても分かっている」
ダルメスは副班長へ明朝便の再開を命じた。
「地下の捜索で地上の出庫を止めるな。ただし、零号から上がる荷はすべて保留だ」
荷板が暗闇へ沈む。
頭上の四角い光が、小さくなっていった。
◇
零号倉庫には、二つの匂いがあった。
湿った石と、焼いた麦粥。
秘密の術式施設を想像していた。
実際にあったのは、低い天井の広い作業場だった。
古い荷車。
補修用の木材。
分解された魔道具。
壁際には、薄い毛布と食器が並んでいる。
人が暮らしている。
三十人以上。
老人。
片腕のない男。
幼い子を背負った女。
白環の古い外套を着た者もいた。
全員が作業の手を止め、俺たちを見る。
「白環だ!」
誰かが叫んだ。
「奥へ逃げろ!」
人々が一斉に動く。
武器を取る者はいない。
荷札を燃やし、寝床を畳み、子どもを抱えて暗い通路へ逃げようとする。
「待ってください!」
俺の声は届かない。
セルヴィスが白い小環へ手をかける。
「出口を封じる」
「やめてください!」
「逃げられれば、実態を確認できない」
「封じたら、話を聞けません!」
「逃げ道を残せば、黒環会の者も混ざる」
「ここにいる全員を、最初から黒環会として扱うんですか」
セルヴィスの手が止まる。
その時、奥の搬送路から悲鳴が上がった。
「台車が倒れた!」
「バルトが下だ!」
「またかよ、早く荷を出せ!」
人々の流れが二つに割れる。
助けに行こうとする者。
作業を続けろと叫ぶ男。
後者は灰色の革外套を着た監督だった。
「第一便まで四半刻だ!」
「人が挟まれてる!」
「バルトは登録にない! 欠員にならん!」
その言葉で、胸の奥が冷えた。
「どいて!」
セリアが駆け出す。
俺たちも後を追った。
狭い搬送路で、荷台が横倒しになっている。
金属枠の下から、黄色い継ぎのある茶色い上着が見えた。
「バル爺!」
セリアが膝をつく。
白髪の老人が、胸を押さえながら浅く息をしていた。
右脚が金属枠の下に挟まれている。
「トト……来たのか」
「入口までです。今は地上で待っています」
セリアは薬包を見せた。
「薬を預かりました」
老人の目が揺れる。
「帰せと言ったのに」
「帰りませんでした」
「あの子は、言うことを聞かん」
「知っています」
セリアの声が少し柔らかくなる。
「助けます。薬を飲むのは、それからです」
ミラが倒れた荷台を調べる。
「持ち上げたら駄目。右の支柱が折れてる。上の荷が全部落ちる」
頭上には、魔石を詰めた木箱が六段。
力任せに持ち上げれば、老人だけでなく周囲の作業員も潰れる。
「上の荷を降ろします」
俺が言うと、灰色外套の監督が怒鳴った。
「触るな! 王都北環へ出す第一便だ!」
「人が下にいます」
「だから何だ! バルトは八年前に死んだ人間だ!」
周囲が静まる。
監督は言葉を続けた。
「ここへ来た時、全員それを受け入れた! 地上の名簿から消える代わりに、仕事と寝床をもらった! 今さら白環へ売るつもりか!」
「売らないでくれ!」
片腕の男が叫ぶ。
「俺は黒環会に拾われたんだ! 地上じゃ誰も雇わなかった!」
「ここを閉じたら、子どもはどこで食べるの!」
女が子を抱きしめる。
黒環会は彼らを利用した。
同時に、地上が与えなかった仕事を与えていた。
善悪だけでは、ここにいる人を動かせない。
「閉じるとは言っていません」
俺は監督ではなく、周囲の人たちへ向けて言った。
「今はバルトさんを助けます」
「荷を遅らせれば、俺たちは切られる!」
監督が叫ぶ。
「誰に?」
「零号の管理者だ!」
「名前は?」
「知らん!」
「知らない人の命令のために、目の前の人を死なせるんですか」
「あいつはもう死んでいる!」
「俺には見えています」
老人の浅い呼吸。
震える指。
孫が持たせた薬。
「今、ここにいる一人です」
監督が俺の胸倉を掴んだ。
「きれいごとで、三十人を食わせられるか!」
セリアが立ち上がりかける。
俺は手で止めた。
監督の言葉にも、恐怖がある。
守りたいのは荷だけではない。
ここで暮らす三十人の仕事だ。
「第一便の届け先を確認します」
「何?」
「本当に四半刻遅れたら、仕事を失うのか。誰が困る荷なのか。確認して、その上で順番を決めます」
「連絡先なんかない」
「荷札は?」
監督の目が泳ぐ。
ミラが最上段の木箱を指した。
「札ならある。黒い紐で隠してる」
作業員が一本の棒で荷札を引き寄せた。
送り先は王都北環第二資材庫。
品名は、廃魔石片。
「廃材です」
「それでも第一便だ!」
「何に使うんですか」
「知らん!」
知らない荷。
知らない管理者。
それでも、遅らせるなという命令だけがある。
「この荷は止めます」
俺は言った。
「俺の判断です」
監督の手に力が入る。
「三十人の仕事を奪うのか」
「奪わせません」
「何ができる!」
「地上では、明朝便を戻すために人を探しています」
運び手が足りない。
倉庫職員も足りない。
ここには、八年間も記録に載らず働いてきた人がいる。
「零号の仕事を続けるか、地上の仕事へ戻るか。本人が選べるようにします」
「白環が許すと思うか」
セルヴィスを見る。
彼は零号倉庫の人々を見回した。
「術式汚染と関与の程度は確認する」
不安の声が上がる。
「だが、名簿にないことだけを理由に拘束はしない」
「本当か」
「白環の現場責任者として記録する」
監督の手が、俺の胸元から離れた。
「荷を降ろします」
俺はもう一度言った。
「手を貸してください」
すぐに動いた者はいなかった。
第一便を遅らせる恐怖。
白環へ姿を見られた恐怖。
今の暮らしを失う恐怖。
その全部が、足を止めている。
「俺はやる」
片腕の男が前へ出た。
「バル爺には、ここへ来た日に飯を分けてもらった」
「ロッカ!」
監督が呼ぶ。
「第一便が遅れるぞ!」
「もう遅れてる。人が挟まれた時点で止めるべきだった」
ロッカと呼ばれた男は、監督の目を見た。
「あんたの笛では、もう動かん」
腰につけていた作業札を外し、監督の足元へ置く。
続いて、子を背負った女が前へ出た。
「私も手伝う」
「子どもを奥へ預けろ! 木箱は二人一組!」
別の老人が声を上げる。
一人。
また一人。
作業員が倒れた荷台の周囲へ集まった。
「上段の左から降ろします」
俺が言うと、ロッカがすぐに首を振った。
「左は駄目だ。右の支柱で釣り合ってる」
「でも、折れているのは右ですよね」
「だから右へ荷重が残ってる。左を先に抜けば、上がバルト側へ倒れる」
俺には、荷台の構造が完全には分からない。
現場で何年も荷を積んだ男には分かる。
「すみません。順番をお願いします」
ロッカが少し驚いた顔をする。
「俺が?」
「この荷台を一番知っている人が決めてください」
「……右上を二箱。それから中央を一箱。空いたところへ支え棒だ」
「聞こえましたか!」
作業員たちが返事をする。
俺は前へ出ようとした。
セリアの手が胸を押さえる。
「シュウは何するの」
「木箱を」
「持てる?」
「二人なら」
「目、まだ痛いよね」
「少し」
「ふらつきは?」
「……少し」
「じゃあ、数えて」
「数える?」
「降ろした箱と、残った箱。順番がずれないように」
力仕事から外されたようで、胸の奥がざらついた。
俺が休めば、誰かが重い箱を持つ。
前の世界でも、それが嫌で席を立てなかった。
自分だけ楽をしている気がした。
「シュウ」
セリアが俺の名前を呼ぶ。
それだけで、考えていたことが止まった。
「今、必要なことをして」
「……分かりました」
木箱を持つ代わりに、俺は降ろす順番と置き場を読み上げた。
「右上、一箱目!」
「確認!」
「二箱目、下ろします!」
「中央へ支え棒!」
セリアは身体強化で荷台を支える。
足裏で床を掴み、焦って持ち上げず、荷が減る分だけ力を調整する。
ミラは折れた支柱へ測定具を当てている。
「あと二箱。次で右の圧が抜ける!」
ジノは逃げ道から余計な荷車をどけた。
「薬を使う場所、空けた! 運び出したら左へ!」
セルヴィスと白環騎士は、崩れかけた天井へ白い支えを入れる。
人を閉じ込めるためではない。
救出する時間を作るための白環だ。
「最後の箱!」
ロッカの声。
「セリア、少し上げて!」
「いくよ!」
呼吸を整え、両手へ力を流す。
金属枠が指二本分だけ浮いた。
ロッカとジノが、バルトの身体を引く。
「右脚、抜けた!」
老人が金属枠の下から出る。
セリアは急に手を離さず、ロッカの合図でゆっくり荷台を床へ戻した。
「救出完了!」
俺が叫ぶ。
作業場に歓声が上がった。
第一便は止まった。
だが、バルトは生きている。
◇
セリアが薬包を開き、バルトの口へ薬を入れた。
水を少しずつ飲ませる。
老人の呼吸が、ゆっくり落ち着いていく。
「トトが待っています」
俺が言うと、バルトは目を閉じた。
「地上へは戻れん」
「どうしてですか」
「わしは死んだ人間だ」
「生きています」
「記録の話だ」
バルトは自分の右脚を見る。
「八年前の崩落で、運送商会は死者を七人と届けた。実際に死んだのは二人だ」
「残り五人は?」
「治療費も、補償金も払えん運送商会が、わしらを死んだことにした」
息を整えながら、少しずつ話す。
「死者の家族には、見舞金が出た。生き残ったわしらが名乗れば、家族からその金を取り返すと言われた」
生きて帰れば、家族が借金を負う。
だから死んだまま、地下へ消えた。
「黒環会が助けたんですか」
「医者と寝床を用意した」
バルトは否定しなかった。
「代わりに、名前のいらん仕事をした。危ない荷も運んだ。それでも、地上で家族を飢えさせるよりましだった」
感謝と恨みが、同じ声に混ざっている。
「トトは、あなたが生きていると知っています」
「あの子の母親だけには、隠し切れなかった」
「戻りたくないですか」
答えはすぐに出なかった。
「戻れるものならな」
「戻れる形を作ります」
「簡単に言う」
「簡単ではありません」
死亡記録の訂正。
見舞金の扱い。
八年間の仕事と賃金。
黒環会へ関わった責任。
どれも、一晩では終わらない。
「でも、死んだまま働かせ続けるよりはましです」
バルトが、かすかに笑った。
「面倒な男だな」
「よく言われます」
「地上へ出たら、ここは閉じられるのか」
「すぐには閉じません」
セルヴィスが答えた。
「人員、術式、荷の行き先を確認する。危険な流れは止める」
「仕事は?」
「地上の復旧作業へ参加を希望する者は、仮登録を認めるよう提案する」
「白環が、名簿にない者を?」
「だから仮登録が必要だ」
セルヴィスの答えは硬い。
だが、切り離すだけではなかった。
「俺は出る」
ロッカが言った。
「片腕でも荷札は読める。積む順番も分かる」
「私は残る」
子を背負った女が言う。
「地上が本当に私たちを受け入れるか、先に見たい」
「それでいいと思います」
俺は答えた。
「全員で同じ選択をする必要はありません」
監督だけが黙っている。
足元には、作業員たちが返した札が重なっていた。
「第一便の権限鍵を渡してください」
セルヴィスが手を出す。
「俺を拘束するのか」
「救助を妨げた件は聴取する。だが、ここに残る者の生活を交渉材料にはさせない」
監督は腰から黒い鍵を外した。
それをセルヴィスの手へ落とす。
第一便は正式に停止した。
廃魔石片がどこへ流れる予定だったのかは、これから調べる。
今は、救助した一人を地上へ戻す。
◇
荷板が西三番倉庫へ戻った時、トトは支店員の腕を振り切って走ってきた。
「じいちゃん!」
担架の横へ飛びつく。
バルトは骨ばった手を伸ばし、少年の髪へ触れた。
「来るなと言っただろう」
「帰るって言ったのに帰らなかった!」
「すまん」
「嘘つき!」
「ああ」
トトは泣きながら、老人の胸へ顔を埋めた。
周囲の倉庫番が、仕事の手を止めて見ている。
ダルメスが帳簿を持って近づいた。
「バルト・ハルン」
老人が顔を上げる。
「八年前の死亡記録は、調査が終わるまで訂正できない」
トトの顔が曇る。
「だが、今日ここにいることは記録できる」
ダルメスは新しい紙へ、自分の局長印を押した。
「西環臨時復旧作業員、仮登録。氏名バルト・ハルン。現在、負傷治療中」
「じいちゃん、生きてるって書いた?」
「書いた」
「消さない?」
「四者の確認なしには消せない」
トトは紙を何度も見た。
文字を全部読めるわけではないらしい。
それでも、祖父の名前を指でなぞる。
「ここにいる」
少年がつぶやいた。
「じいちゃん、ちゃんとここにいる」
胸の奥が熱くなった。
大きな仕組みを変えたわけではない。
八年間を取り戻したわけでもない。
でも、一人の名前が今日へ戻った。
それだけは、誰にも消させない。
「シュウ」
セリアが俺の横に立つ。
「見つけられたね」
「皆のおかげです」
「それだけ?」
「トトが来てくれたからです」
「うん。それも」
セリアは何かを待っているようだった。
「……助かって、よかったです」
「やっと自分の気持ち言った」
「いつも言っていますよ」
「今のは、報告じゃなかった」
そう言われると、少し恥ずかしい。
俺は仮登録紙へ視線を戻した。
セリアも、それ以上は言わなかった。
◇
バルトを治療所へ運ぶ前。
セリアの剣が担架へ触れ、鞘の端に刻まれた紋章が見えた。
バルトの目が、その紋章で止まる。
「その剣……」
セリアが振り向く。
「何?」
「グランツ家のものか」
「そうだけど」
老人の指が震えた。
「レオン・グランツを知ってる?」
セリアの顔から、表情が消えた。
「兄です」
声は平静だった。
だが、剣を握る手が強くなる。
バルトは長い間、彼女の顔を見つめた。
「似ている」
「兄を、どこで見たの」
老人は零号倉庫へ続く荷板を見た。
「わしらが、まだ地上の名簿にいた頃だ」
「何があったの」
「あの人には、借りがある」
セリアが一歩近づく。
「どんな借り?」
バルトは答えようとして、激しく咳き込んだ。
治療師が担架を押す。
「続きは治療後です!」
「待って!」
セリアの手が伸びる。
担架には届いた。
けれど、無理に止めなかった。
兄の話を聞きたい気持ちより、老人の治療を先にした。
担架が倉庫を出ていく。
セリアはその場に残った。
「セリア」
名前を呼ぶ。
「大丈夫」
「そうは見えません」
「シュウに言われたくない」
いつもの返しだった。
でも、声が少し震えている。
「治療が終わるまで、俺も残ります」
「一人で残るって言い方、もう禁止したでしょ」
セリアはこちらを見ずに言った。
「じゃあ、二人で待ちましょう」
「うん」
短い返事。
肩が触れるほど近くに立つ。
離れた方がいいのか迷った。
セリアは動かなかった。
俺も、そのまま待った。
零号倉庫から救い出した一人は、八年前に死んだことにされた運び手だった。
そして、セリアの兄レオンについて、公式記録にはない何かを知っている。
第44話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、帰らない祖父を捜す少年トトと、八年前に死亡扱いされた運び手バルトを中心に描きました。
零号倉庫では、事故や補償問題によって地上の記録から消された人々が、名前のいらない仕事を続けています。
黒環会に利用されている一方、地上で得られなかった治療、寝床、仕事を与えられた恩を感じる者もいました。
シュウたちは零号倉庫そのものをすぐに封鎖せず、崩れた荷台に挟まれたバルトの救出を優先します。
荷降ろしの順番は、シュウではなく現場を知るロッカが決めました。
第一便を優先して救助を妨げた監督からは権限鍵が回収され、地上の西三番倉庫班長も入出庫承認権限を停止されています。
救出されたバルトは、王都西環の臨時復旧作業員として仮登録されました。
正式な死亡記録の訂正はこれからですが、「今日ここにいる一人」として公的な紙へ名前が戻っています。
そしてバルトは、セリアの兄レオン・グランツに借りがあると語りました。
次回は明朝便の復旧と零号倉庫の仮登録を進めながら、治療を終えたバルトからレオンに関する最初の証言を聞きます。




