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納期遅れで死んだ俺、異世界では魔力の詰まりが見えるらしい 〜最弱Eランクだけど、術式を読み替えて世界の流れを変えていく〜  作者: 好山 雪
第1章 月影の森で目覚める

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第1話 納期遅れの夜、青い森で目覚める

 午前一時三十七分。


 事務所の蛍光灯は、半分だけ落とされていた。


 人の気配が消えたフロアに、パソコンのファンの音だけが低く響いている。窓の外は真っ暗で、遠くの工場棟に残った非常灯だけが、ぼんやりと赤く光っていた。


 佐伯修司は、モニターに映る納期管理表を見つめていた。


 赤。


 赤。


 赤。


 画面の中は、遅れを示す赤いセルで埋まっている。


 その中でも、ひときわ目につく行があった。


 ――RZ-16制御弁ユニット。


 客先納期、今週末。


 外注加工戻り、未定。


 熱処理回答、未回答。


 研磨工程、能力不足。


 組立、部品待ち。


 検査、予定未確定。


 出荷、空欄。


 修司はマウスを握ったまま、深く息を吐いた。


「……これ、どうやって回答するんだよ」


 机の端には、上司が置いていったメモがある。


『朝一で回答。言い訳不可。客先優先』


 短い。


 けれど、その短さが重かった。


 客先優先。


 そんなことは分かっている。


 現場も頑張っている。外注先も無理をしている。調達も走っている。誰も遊んでいるわけではない。


 それでも、物は流れてこない。


 どこかで詰まれば、次の工程が止まる。


 次が止まれば、その先も止まる。


 そして最後に、客先への回答だけが生産管理に残る。


 修司はメール画面を開いた。


 件名はすでに入っている。


『【至急】RZ-16制御弁ユニット 納期再確認の件』


 返信欄には、何度も書きかけた文章が残っていた。


『現在、関係部署と調整中であり――』


 違う。


 これでは回答にならない。


『最短での対応を進めておりますが――』


 これも違う。


 客先が欲しいのは努力の説明ではない。


 いつ入るのか。


 何個入るのか。


 遅れた分をどう挽回するのか。


 それだけだ。


 修司は額を押さえた。


 頭の奥が鈍く痛む。


 胸のあたりも、少し苦しい。


 コーヒーを飲みすぎたのかもしれない。


 夕方から何も食べていないせいかもしれない。


 あるいは、ただ疲れているだけかもしれない。


「……明日、現場に確認して、外注にももう一回電話して……」


 独り言のように工程を並べる。


 加工。


 熱処理。


 研磨。


 組立。


 検査。


 塗装。


 出荷。


 頭の中に流れを描く。


 けれど、その流れは途中で何度も途切れていた。


 詰まっている。


 どこもかしこも、詰まっている。


 胸の痛みが、急に強くなった。


「……っ」


 息が詰まる。


 手からマウスが滑り落ちた。


 床に当たる小さな音が、やけに遠く聞こえた。


 立ち上がろうとした。


 けれど、足に力が入らない。


 椅子が後ろに倒れ、修司の視界が傾いた。


 モニターの中では、赤いセルがまだ並んでいる。


 赤。


 赤。


 赤。


 まるで、止まった流れに詰まった警告灯のようだった。


 最後に修司が見たのは、画面の片隅に開いたRZ-16制御弁ユニットの断面図だった。


 細い流路。


 圧力の逃げ道。


 詰まりを防ぐための分岐。


 油が流れるはずの道。


 その線が、ぼんやりとにじむ。


 そして、すべてが黒く沈んだ。


挿絵(By みてみん)


     ◇


 冷たい。


 最初に感じたのは、それだった。


 頬に当たる土の感触。


 湿った草の匂い。


 耳元で鳴る虫の声。


 修司はゆっくりと目を開けた。


 そこに、事務所の天井はなかった。


 蛍光灯もない。


 モニターもない。


 書類も、空の缶コーヒーも、上司のメモもない。


 代わりに視界いっぱいに広がっていたのは、青く光る葉だった。


「……は?」


 思わず声が漏れた。


 木々が立ち並んでいる。


 幹は太く、見たこともないほど高い。枝葉は夜の中で淡く青く輝き、森全体がぼんやりと水の底のように照らされていた。


 空を見上げる。


 月が、二つあった。


 一つは白く。


 もう一つは、薄青く。


 修司はしばらく、その二つの月を見つめていた。


 寝ぼけている。


 そう思いたかった。


 けれど、冷たい土の感触も、草の匂いも、夜気の冷たさも、やけに現実的だった。


 修司は起き上がろうとした。


 その瞬間、違和感に気づいた。


 体が軽い。


 肩も重くない。


 腰も痛くない。


 手を見る。


 見慣れた四十代半ばの手ではなかった。


 皮膚には張りがあり、指も少し細い。爪の形は自分のものに似ているが、明らかに若い。


「……なんだ、これ」


挿絵(By みてみん)


 服も違う。


 着ていたはずのワイシャツではなく、粗い布のシャツ。革のベルト。丈夫そうなズボン。足元には革のブーツ。


 スマホを探した。


 ない。


 社員証もない。


 会社の鍵もない。


 代わりに腰の小さな袋から、銀色の硬貨が三枚出てきた。


 見たことのない文字が刻まれている。


「財布が……これだけ?」


 修司は乾いた笑いを漏らした。


 夢にしては、妙に細かい。


 転生。


 異世界。


 そんな言葉が頭に浮かんだ。


 昔、漫画や小説で読んだことはある。


 けれど、自分がそうなるとは思わなかった。


 それに、もし本当に異世界だとしても、もっとこう、神様が出てくるとか、能力の説明があるとか、そういう流れではないのか。


 少なくとも、森の中に放り出されて銀貨三枚というのは、あまりに説明不足だった。


「……終電を逃した時より、きついな」


 そう呟いたときだった。


 草むらの奥で、何かが動いた。


 修司は息を止めた。


 低い唸り声。


 獣の匂い。


 青い葉の陰から、黒い影がゆっくりと現れた。


 狼。


 最初はそう思った。


 だが、違う。


 大きすぎる。


 肩の高さは、人の胸ほどある。毛並みは夜に溶けるような黒。額には、黒い角が一本伸びていた。口元からは白い息ではなく、青白い霧のようなものが漏れている。


 修司の背中を冷たい汗が伝った。


 これは、犬ではない。


 狼でもない。


 魔物。


 その言葉が、なぜか一番しっくりきた。


「……冗談だろ」


 足が動かない。


 逃げなければ。


 そう思うのに、体が固まっている。


 魔物が一歩近づいた。


 黒い爪が土をえぐる。


 唸り声が低くなる。


 次の瞬間、修司の視界に奇妙なものが見えた。


 魔物の体の中を、青い線が流れていた。


 血管ではない。


 神経でもない。


 もっと淡く、光の糸のようなものが、体の中を巡っている。


 その青い流れが、右前脚に集まっていく。


 集中している。


 偏っている。


 負荷が、そこに集まっている。


 修司は息を呑んだ。


 見覚えがあった。


 いや、正確には、見たことがあるわけではない。


 だが、その感覚は知っていた。


 油の流れ。


 工程の流れ。


 詰まり。


 偏り。


 負荷集中。


 前世で、何度も何度も見てきたものに似ていた。


「右……前脚……?」


 魔物が地を蹴った。


 速い。


 黒い影が一気に迫る。


 修司は避けられない。


 その瞬間、横から赤い影が飛び込んできた。


「下がって!」


 澄んだ声が夜の森に響いた。


 金属音。


 魔物の爪と、細身の剣がぶつかる。


 火花が散った。


 修司の前に立っていたのは、赤い髪の少女だった。


 年齢は十代後半くらいだろうか。革鎧を着て、腰には短剣、手には細身の剣を握っている。


 その背中は大きくない。


 むしろ、魔物と比べれば小さい。


 けれど少女は、修司をかばうように立っていた。


「大丈夫!? 立てる!?」


「た、たぶん……」


「なら木の後ろへ! こいつ、月影狼ルーナ・ヴォルクよ!」


 聞き慣れない名前だった。


 けれど、今は意味を考えている余裕はない。


 少女は剣を構え直す。


 その手が、わずかに震えていた。


 怖いのだ。


 当然だ。


 彼女だって、怖いに決まっている。


 それでも逃げない。


 修司は木の根元まで後ずさった。


 月影狼が低く唸る。


 青白い霧が濃くなった。


 まただ。


 修司の目に、青い流れが映る。


 今度も右前脚。


 そこに力が集まっている。


 飛びかかる前の予備動作。


 攻撃の起点。


 修司は反射的に叫んだ。


「右前脚だ!」


「えっ!?」


「右前脚に力が集まってる! そこから来る!」


挿絵(By みてみん)


 少女は一瞬だけ迷った。


 だが、月影狼はすでに動いていた。


 黒い体が沈む。


 右前脚に青い光が集まる。


 次の瞬間、月影狼が跳んだ。


 少女は修司の言葉を信じた。


 正面から受けず、半歩だけ横へずれる。


 そして剣の柄で、月影狼の右前脚を強く打ち払った。


 体勢が崩れる。


 巨大な狼の体が、地面に滑った。


「今っ!」


 少女の剣が青い夜を切った。


 刃が月影狼の首筋を捉える。


 黒い毛並みの間から、青白い光が弾けた。


 月影狼は一度大きく痙攣し、それきり動かなくなった。


 森に静けさが戻る。


 修司はその場に座り込んだ。


 膝が笑っていた。


 呼吸がうまくできない。


 少女も剣を下ろし、大きく息を吐いた。


「……助かった。今の、よく分かったね」


「いや……俺にも分からない」


「分からないって?」


「見えたんだ。あいつの体の中を、青い線みたいなものが流れていて……右前脚に集まってた」


 少女は目を丸くした。


「魔力の流れが見えたの?」


「魔力?」


「えっと……あなた、本当に何も知らないの?」


 修司は答えに詰まった。


 何も知らない。


 その通りだった。


 自分がどこにいるのかも、何が起きたのかも、目の前の少女が何者なのかも分からない。


 ただ一つ分かるのは、さっきまで日本の工場で納期表を見ていたはずの自分が、今は二つの月が浮かぶ森の中で、角の生えた狼に襲われていたということだけだ。


「……たぶん、何も知らない」


 修司がそう言うと、少女は困ったように眉を寄せた。


 それから、剣を鞘に収め、少しだけ表情を緩めた。


「私はセリア。セリア・グランツ。アルメリアのアヴァントゥリースト見習い」


「アヴァン……?」


「アヴァントゥリースト。魔物討伐とか護衛とか、採取とか、そういう依頼を受ける人たちのこと」


「……冒険者みたいなものか」


「ぼうけんしゃ? よく分からないけど、たぶんそんな感じ」


 セリアは倒れた月影狼をちらりと見た。


「それより、あなたの名前は?」


「佐伯修司……いや、こっちだと、シュウ・サエキでいい」


「シュウね。変わった響きだけど、覚えやすいわ」


 セリアはそう言って、月影狼の額にある黒い角へ近づいた。


 腰の短剣を抜き、慎重に根元へ刃を入れる。


「何をしてるんだ?」


「討伐証明。月影狼は角と魔石が証明になるの。素材としても売れるし」


「素材……」


「知らないの? 魔物を倒すと、角とか牙とか皮とか魔石が取れるでしょ。組合に持っていけば買い取ってくれる」


 修司は倒れた月影狼を見た。


 魔物の体からは、まだ淡い青い光が漏れている。


 その光は少しずつ薄くなっていた。


 流れが抜けていく。


 そう感じた。


「その角……根元から切ると、何か抜けないか?」


「え?」


「いや、うまく言えないけど……青い流れが角の根元に残ってる。全部切ると、流れが散る気がする」


 セリアは短剣を止めた。


 半信半疑という顔だったが、少しだけ刃を入れる位置を変える。


 角の根元を少し残すように、慎重に切った。


 黒い角が外れる。


 すると、角の内側に淡い青い光がわずかに残った。


 セリアの目が大きくなる。


「……魔力が残ってる。普通より状態がいい」


「そうなのか?」


「うん。素材の価値、少し上がると思う」


 セリアは不思議そうに修司を見た。


「シュウ、あなた本当に何者?」


「俺が聞きたい」


 修司は苦笑した。


 そのときだった。


 倒れた月影狼の背中から、細い黒い糸のようなものが伸びているのが見えた。


 青い流れではない。


 黒い。


 濁っている。


 それは月影狼の体から森の奥へ、細く細く続いていた。


「……なんだ、あれ」


「あれ?」


 セリアが同じ方向を見る。


 だが、彼女の目には何も見えていないようだった。


「黒い糸みたいなのが……森の奥へ伸びてる」


「黒い糸?」


「この狼、自分の意思で動いてたのか?」


 自分で言ってから、修司は背筋が冷えるのを感じた。


 何かが、この魔物を動かしていた。


 そんな気がした。


 セリアの表情も硬くなる。


「魔物を操るなんて、普通はできないよ。召喚士でも、契約した魔物を動かすくらい。野生の月影狼を操るなんて……」


 その言葉が終わる前に、森の奥から遠吠えが響いた。


 低く。


 深く。


 腹の底を震わせるような声。


 修司は反射的に身を固めた。


 セリアの顔から血の気が引く。


「今の……まさか」


「知ってるのか?」


「月影狼の群れを率いる上位個体。黒月狼王チョールヌィ・ルーナ……昔話だと思ってたけど」


 黒月狼王。


 名前を聞いただけで、先ほどの月影狼よりもはるかに危険な存在だと分かった。


 修司は森の奥を見た。


 青い葉の光の向こうに、黒い流れが続いている。


 見に行くべきではない。


 情報が足りない。


 戦力も足りない。


 前世でも、そうだった。


 状況が分からないまま突っ込むと、ろくなことにならない。


 現場確認は必要だ。


 だが、安全確認もせずにラインへ入れば事故になる。


「行かない方がいい」


 修司は言った。


 セリアが驚いたように見る。


「気にならないの?」


「気になる。でも、今行ったら死ぬ」


「……それは、そうかも」


「まずは街に行きたい。できれば、人のいるところへ」


 セリアは少し考え、それから頷いた。


「分かった。アルメリアまで案内する。ここからなら、歩いて一時間くらい」


「助かる」


「その代わり、組合でちゃんと事情を話してね。森の中で倒れてた人を放っておくわけにもいかないし。それに……」


 セリアは修司の目を見た。


「魔力の流れが見える人なんて、聞いたことない」


 修司は答えられなかった。


 自分でも分からない。


 ただ、胸の奥に妙な感覚が残っていた。


 月影狼の青い流れ。


 右前脚に集まる力。


 そして、森の奥へ伸びる黒い糸。


 あれは、ただの魔物の動きではなかった。


 誰かが、何かを詰まらせている。


 そんな感覚があった。


     ◇


 セリアに連れられ、修司は森の中を歩いた。


 月影の森。


 セリアはこの森をそう呼んだ。


 夜になると葉が青く光り、月の魔力を受けて魔物が活発になるという。


「本当なら、Dランクの私が一人で奥まで入る場所じゃないんだけどね」


「Dランク?」


「ああ、そこからか。アヴァントゥリーストにはランクがあるの。Eが見習い、Dが駆け出し、Cで一人前。Bが熟練、Aが英雄候補、Sはもう伝説級」


「会社の等級みたいなものか……いや、違うか」


「カイシャ?」


「こっちの話だ」


 修司は曖昧にごまかした。


「じゃあ、俺は?」


「登録してないなら、たぶんEから。剣も魔法も使えないなら、なおさら」


「最下位か」


「でも、最下位から始める人なんて珍しくないよ」


 セリアは軽く笑った。


 その明るさに、少しだけ救われる。


 歩きながら、修司はいくつかのことを聞いた。


 ここはエルディア大陸。


 この国はアルヴェリア王国。


 近くにある街がアルメリア。


 人間に近い種族はリュードと呼ばれ、他にも森に住むレスニク、獣の特徴を持つズヴェーリ、鍛冶や鉱山に強いグノーム、翼を持つクルィーロ、竜の血を引くドラコニドなどがいるらしい。


 覚えることが多すぎる。


 だが、不思議と修司は冷静だった。


 新しい職場に異動した時のような感覚に近い。


 部署名。


 品番。


 工程。


 担当者。


 最初は意味不明でも、一つずつ覚えるしかない。


「お金は?」


 修司は腰袋の銀貨を見せた。


 セリアはそれを見て頷く。


「セレブ銀貨が三枚。質素な食事なら何回かできるし、安宿なら一泊か二泊くらいかな」


「……つまり、余裕はないな」


「ないね」


 即答だった。


 見知らぬ異世界。


 身分証なし。


 仕事なし。


 戦闘力なし。


 所持金は安宿数泊分。


 修司は小さくため息をついた。


 前世でも余裕はなかったが、ここまでではなかった。


 それでも、不思議と絶望だけではなかった。


 少なくとも、目の前には案内してくれる人がいる。


 そして、自分には何かが見えている。


 それが何の役に立つのかは、まだ分からない。


 森を抜けると、遠くに灯りが見えた。


 石壁に囲まれた街。


 門の上には、剣と翼を組み合わせた旗が揺れている。


 荷馬車が門をくぐり、槍を持った守備兵が周囲を見張っている。


 人だけではない。


 長い耳を持つ者。


 獣の耳と尾を持つ者。


 小柄でがっしりした体格の者。


 異世界。


 その言葉が、ようやく現実味を帯びてきた。


「あれがアルメリア」


 セリアが言った。


「まずは組合に行こう。シュウの登録と、月影狼の報告をしないと」


「ああ」


 修司は頷いた。


 その時、ふと背後を振り返る。


 青く光る森。


 その奥に、黒い糸のような流れがまだ残っている気がした。


 見えないはずのもの。


 けれど、自分には見えるもの。


 あれは何なのか。


 なぜ自分はここに来たのか。


 なぜ、魔力の流れが見えるのか。


 答えは何も分からない。


 ただ一つだけ、修司の胸に残っている言葉があった。


 詰まっている。


 この世界のどこかで、何かが詰まっている。


     ◇


 同じ頃。


 月影の森のさらに奥。


 古びた石畳が苔に覆われた旧街道に、黒い外套の男が立っていた。


 足元には、黒い輪のような魔法陣が刻まれている。


 その中心に置かれた黒い石へ、森の淡い魔力が少しずつ吸い込まれていた。


 男の前に、女が片膝をつく。


「月影狼が一体、討伐されました」


「ただの討伐か?」


「いえ」


 女はわずかに顔を伏せた。


「黒輪の流れが乱れています」


 男の指が、ぴくりと動いた。


「断たれたのか」


「違います。剣で断たれたのではありません。流れの起点を読まれ、逸らされたような痕跡があります」


「逸らされた?」


「偶然にしては、あまりに正確です」


 男は黒い石に浮かぶ波紋を見つめた。


 黒い輪の内側に、わずかな歪みが残っている。


 それは力任せに破壊された跡ではなかった。


 流れの弱い場所を見抜かれ、そこから支えを外されたような跡だった。


「その場にいた者は」


「赤髪のDランク見習いが一人。それから、登録記録のないリュードらしき男が一人」


「剣を振ったのは?」


「赤髪の小娘です」


「なら、もう一人を調べろ」


 女が顔を上げる。


「剣を振らなかった方を、ですか?」


「そうだ」


 男は静かに言った。


「剣士なら斬ればいい。魔術師なら封じればいい。だが、流れを読む者は厄介だ。我らが作った詰まりを、詰まりとして見てしまう」


 その言葉に、女の表情がわずかに強張った。


「白環の連中が聞けば、目の色を変えるでしょうね」


「だからこそ、先に知る必要がある」


「始末しますか?」


「まだだ」


 男は森の奥へ視線を向けた。


 そこには、巨大な黒い影がうずくまっていた。


 青黒い毛並み。


 額に伸びる大きな角。


 黄金の瞳。


 その首元には、黒い輪のような術式が食い込んでいる。


 黒月狼王チョールヌィ・ルーナ


 森の王と呼ばれた魔獣は、低く唸った。


 それは服従の声ではなかった。


 怒りでもない。


 苦しみを押し殺すような、深い声だった。


「流れを読める者は、邪魔にもなる。だが、使い道もある」


 男は黒い石へ手をかざした。


 魔法陣の輪が、わずかに濃くなる。


「森の流れも、街道の流れも、いずれ我らの輪の中に入る」


 黒月狼王が再び唸った。


 その声に、森の青い葉がかすかに震える。


 黒い魔法陣が脈打つ。


 森の青い光が、また一つ、黒に沈んだ。


 佐伯修司はまだ知らない。


 自分が見た青い流れが、この世界を覆う大きな歪みへとつながっていることを。


 そして、黒環会こっかんかいと白環の守りはっかんのまもりて


 相反する二つの環が、まだ名も知らぬEランクの男に目を向け始めていることを。

挿絵(By みてみん)

ここまで読んでいただきありがとうございます。


次話では、シュウがセリアとともにアルメリアの街へ向かい、この世界の組合やランクについて少しずつ触れていきます。

よろしければ、続きも読んでいただけると嬉しいです。

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