おりっちゃん
祖母がまだ、少女だったころ。
上の学校に行くのは、農家の娘には難しいことだった。
子供の名前や、孫の名前を忘れても、
決して忘れない名前がある。
おりっちゃん。
おりっちゃんは学校の先生の娘で、祖母と仲良しだった。
初等科を出て上に進んだ女の子は、同級生ではおりっちゃんだけだった。
祖母は語る。
紺の袴に二本の白線。
女学校の制服。
その袴を翻して自転車に乗るおりっちゃんを、畑仕事をしながら毎朝眺めた。
真っ黒に日焼けした顔が普通の中で、おりっちゃんだけは白くて奇麗な顔をしていた。
初等科の頃は、おりっちゃんにだって勉強は負けなかった。
学校が休みの日に、遊びに行った。
教科書を読んでくれたけれど、ほとんど理解できなかった。
難しそうなその教科書を読ませて欲しかったけれど、言い出せなかった。
おりっちゃんの白い指が、教科書をめくるさまが、眩しかった。
土が皮膚の内側まで入り込んだような、汚れた自分の手では触れられないと思った。
農家の娘に勉強はいらねぇ。
父の目を盗んで本を読んでは叱られていたけれど、その日を境に読書をやめた。
遠い目をして、繰り返し繰り返し祖母は語る。
白線は二本。
一本じゃなくて、二本。
一本は裁縫学校の袴だから。
祖母は歌う様に語る。
春は山のふもと、緑に萌え、
おりっちゃんが朗読してくれた教科書の一節。
そこだけを、覚えている。
春は山のふもと、緑に萌え、
その続きを、祖母は知らない。
ただ、夢見るような遠い目をして歌う様に繰り返す。
紺の袴に白線二本。
自転車に乗って、袴の裾を翻すおりっちゃん。
決して、上の学校に行きたかったとは言わず、ただ繰り返す。
眩しそうな顔をして。
紺の袴に白線二本。
自転車に乗って、袴の裾を翻すおりっちゃん。
毎朝、畑で泥にまみれながら見送ったおりっちゃん。
おりっちゃんに、逢いたいなぁ。
そのまま祖母はうとうとと、夢と現の狭間に目を閉じる。