第一章 完璧令嬢のリーガル・バスター
断罪の夜会と、分単位で計算された完璧な請求書
「リベラ・ゴルド! 貴様のような嫉妬深く陰湿な女は、次期皇帝たる私の妻に相応しくない! ただいまこの瞬間をもって、貴様との婚約を破棄する!」
ルナミス帝国の中心にそびえ立つ、豪奢な皇城のグランドボールルーム。
天井から吊るされた巨大な魔導シャンデリアが眩い光を放ち、帝国全土から集まった高位貴族たちが優雅に談笑していたその空間は、たった一人の青年の怒声によって、水を打ったような静寂に包まれた。
声の主は、ルナミス帝国第一皇子にして次期皇帝と目される青年、ユリウス・ルナミス。
彼は豪華な式服に身を包み、その腕の中には、ピンク色のふんわりとしたドレスを着た、涙ぐむ小柄な男嬢令嬢——ミラの肩を抱き寄せていた。
「ああ、ユリウス様……私のような身分卑しき者のために、あのような恐ろしいお方を敵に回してしまわれるなんて……っ」
「泣かないでおくれ、ミラ。君の真実の愛と純真な心は、私が必ず守り抜く。この悪逆非道な女の手からな!」
ユリウス皇子は、大勢の貴族たちが息を呑んで見守る中、ホールの中心でただ一人、静かに佇む女性を指差した。
その女性こそが、ゴルド商会最高法務顧問であり、ユリウスの(今や元となった)婚約者、リベラ・ゴルドである。
彼女は、タローマン特製の最高級シルクに防弾・防刃の魔法コーティングが施された、深い夜闇のようなミッドナイトブルーのイブニングドレスを完璧に着こなしていた。背筋をピンと伸ばし、形の良い唇には、崩れることのない優雅な微笑みを浮かべている。
周囲の貴族たちはヒソヒソと囁き合った。
『あぁ、可哀想に。ゴルド商会の令嬢とはいえ、あのように公衆の面前で恥をかかされるとは』
『無理をして笑っておいでだ。今にも泣き崩れてしまわれるのではないか?』
『それにしても、ミラ男爵令嬢への陰湿な虐めとは……』
周囲からの同情と嘲笑、そして好奇の視線が突き刺さる中。
当のリベラ本人の内面は、彼らの予想とは全く異なるベクトルで極めて冷え切っていた。
(——あーあ。ついに言っちゃったよ、このバカ皇子)
リベラは内心で深大なため息をついた。
悲しみ? 絶望? 嫉妬?
そんなものは一ミリたりとも存在しない。彼女の頭の中で今、高速で回転しているのは「契約解除に伴う損害賠償の算定」と「法的処理のプロセス」だけである。
なぜなら、リベラ・ゴルドの前世は、日本政府の首席国際法務官にして、内閣府特命法務調査官。そして何より、泣く子も黙る「悪人専門の法律事務所」を裏で取り仕切っていた、元レディース総長の天才弁護士、桜田リベラ(享年30歳)なのだ。
(真実の愛だの何だのと吠えているが、要するにこれはただの『一方的な契約不履行』。しかも、公衆の面前での名誉毀損というボーナス付き。私としては、慰謝料と違約金を満額回収するための、これ以上ない完璧なシチュエーションを向こうから用意してくれたわけだ)
リベラの視線の先では、なおもユリウス皇子が声高に叫んでいる。
「聞いて驚け! このリベラは、私の愛するミラに対し、階段から突き落とそうとしたり、教科書を破り捨てたり、あまつさえ魔導長距離自爆ドローンをけしかけようとしたのだ! このような残虐な女を、帝国の母とすることなど断じてできん!」
(ドローンって……。私がそんな足のつく非効率な物理攻撃をするわけないでしょうに。やるならゴルド商会の経済網を使って、男爵家の息の根を合法的に完全に止めるわよ)
リベラは心の中で毒づきながら、ゆっくりと、洗練された動作で一歩前へ出た。
コツン、と彼女の履くピンヒールが大理石の床を叩く音が、静まり返ったホールに響く。
「……ユリウス殿下。そして、ミラ男爵令嬢」
リベラが口を開くと、その凛とした、しかしどこか絶対零度の冷気を孕んだ美声に、ホールにいた全員が息を呑んだ。
「左様でございますか。私といたしましても、殿下からの婚約破棄の申し入れ、確かに承りました。両家の合意に基づき、ただいまこの瞬間をもって、私たちの婚約は白紙撤回されたものといたします」
「……は?」
予想外のあっさりとした返答に、ユリウス皇子が間抜けな声を漏らした。
泣いてすがりついてくるか、あるいは嫉妬に狂ってミラに掴みかかってくると思っていたのだろう。
「ふ、ふん! 強がらなくていいぞ、リベラ。今更泣き喚いて謝罪するなら、私の側室の末席くらいには置いてやっても……」
「お気遣い痛み入りますが、そのような非生産的なポジションは私のキャリアプランには含まれておりません。それよりも殿下」
リベラはにっこりと、背筋が凍るほど完璧な営業スマイルを浮かべた。
そして、彼女の手元にある、見た目は小さなイブニングクラッチバッグ——実はドワーフの最先端技術で作られた『時間停止&空間拡張機能付き魔導ビジネスバッグ』——にスッと手を差し入れた。
「婚約が正式に破棄されたということで、速やかに事務手続きに移行させていただきます。……つきましては、こちらの書類にサインをいただけますでしょうか?」
ドサァッ!!
リベラがバッグから取り出し、近くのテーブルに叩きつけるように置いたのは、厚さにして約15センチ、ページ数にして1000ページは優に超えるであろう、分厚く束ねられた書類の山だった。
「な、なんだそれは……!?」
「ごく一般的な『請求書』でございます」
リベラは書類の一番上にある、綺麗にまとめられた表紙をペラリとめくった。
「ルナミス帝国法務省制定・帝国・商会融合新六法全書、第420条『婚約不履行に伴う損害賠償責任』および、ゴルド商会基本契約第8条に基づき、殿下へご請求申し上げます。
まず、過去3年間、殿下が『体調不良』と称してミラ様とお茶会をされている間に、私が代行いたしました帝国執務務の代行費用。公式文書の代筆が計4,821件。最高レベルの国家機密を含みますため、特別専門職の時給換算を適用し、深夜残業代および休日出勤の割増賃金(150%)を加算しております」
「は……? だ、代筆だと……?」
「ええ。次に、昨年西の領地で起きたロックバイソンの暴走事故の際、殿下がご遊戯に夢中になられていたため、私がゴルド商会の私兵と魔導ヘルメット部隊を動かして鎮圧した際の軍事出動費、ならびに事後処理のコンサルティング費用。
さらに、殿下が裏カジノで作られた借金150万ゴールドを、我が商会が無利子で立て替えていた分の『即時一括返済』のご請求。
そして最後に、先ほどの『根拠のない虚偽の事実による公衆の面前での名誉毀損』に対する精神的苦痛への慰謝料……これらを全て合算いたしまして」
リベラは言葉を区切り、すっと目を細めた。
その瞳の奥には、獲物を完全に法網の檻に閉じ込めた、法務官特有の冷酷な光が宿っていた。
「しめて、金貨350万枚(日本円にして約350億円)。分単位で正確に計算してございます。もちろん、遅延損害金は本日より年利14.6%で発生いたしますので、ご承知おきくださいませ」
「さ、さんびゃくごじゅうまん……っ!?」
ユリウス皇子の顔面から、一瞬にして血の気が引いた。
金貨350万枚。それは一国の皇子といえど、個人のポケットマネーでどうにかなる金額ではない。国家予算の数パーセントに匹敵する、正気の沙汰ではない莫大な金額である。
「な、舐めるな! 誰がそのようなふざけた書類にサインなど……!」
「おや、お支払いいただけませんか? それは困りました」
リベラは困ったような顔を作ったが、その口角は完全に上がっていた。
「お支払いのご意思がないとみなした場合、ゴルド商会の規定により、ルナミス帝国皇室へ貸し付けている全ての融資を直ちに引き上げ、殿下個人の口座および資産を『合法的に』凍結させていただくことになりますが、よろしいでしょうか?」
「なっ……! き、貴様、たかが商会の娘の分際で、皇族を脅す気か!! 近衛兵! この不敬な女を今すぐ捕らえろ!!」
逆上したユリウスが叫ぶと、周囲を警備していた数十名の近衛兵たちが一斉に魔導ライフルを構え、リベラへと殺到しようとした。
——しかし。
「……あーあ。うちのリベラを泣かせる(泣いてないけど)奴は、どこの王族だろうが、私のトンファーの錆にしてやるから……覚悟しなさい?」
突如、ホールの隅のビュッフェコーナーから、ボリボリと人参スティックを齧っていた小柄な影が、弾丸のような速度で飛び出した。
頭に生えた長いウサギの耳をピンと立たせ、タローマン製の特注安全靴を履いたその少女——元レオン・ハート獣人王国の第三姫君にしてリベラの親友、キャルル・ムーンハートである。
キャルルは一切の躊躇なく、大地を蹴り上げた。
「月影流——『乱れ鐘打ち』!!」
ドンッ! ドゴォォォンッ!!
目にも留まらぬ連続回し蹴りが炸裂し、完全武装していたはずの近衛兵たちが、まるでボウリングのピンのように次々と宙を舞い、ホールの壁へと叩きつけられていく。
寸止めと峰打ち(トンファー)を極めたその一撃は、一切の流血を伴わずに、数十人の大男たちをたった数秒で物理的に沈黙させてしまった。
「ひぃっ……!?」
腰を抜かし、ミラと共に床にへたり込むユリウス皇子。
惨状を見下ろしながら、リベラはふわりと優雅に微笑んだ。
「さて、殿下。暴力による解決は不可能であることが証明されましたね。……慰謝料と賠償金、一括でお支払いいただきますよ?」
かくして、帝国全土を揺るがす「完璧令嬢」による、合法かつ徹底的な逆襲の幕が、今ここに上がったのである。
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