(42) 終幕
「お客さん、そろそろテント閉めるよ。具合でも悪いの?」
声をかけられてやっと我に返ったクリス。隣ではウィリアムも同じような反応をしている。夢現というか、思考がふわふわしていて現実と夢が曖昧だが、この声をかけてきた少年は現実のものだろう。
「ああ、すまん。すぐに出る」
慌てて立ち上がると、ぽたりと何かが床に落ちた。
「……泣いてんですか?」
ぽたり、ぽたりと溢れる涙は止まることなく頬を濡らす。ウィリアムがハンカチを差し出すとありがたくそれで拭うが、見るとウィリアムも涙をはらはらと流していた。
「あー……お前達の芝居に、感動したのじゃ。ここの頭に面白かったと伝えといてくれ」
テントを後にして、二人してぐすぐす鼻を鳴らしながら夜の街を歩く。お互い何も言わない。というか言葉に出来なかった。先ほど見たお芝居がどうにも頭から離れないのだ。カラスの言葉とあの芝居が妙にリンクする。
身体の奥底にある何かが、あれは真実だと泣いて訴えている気がした。
◇
モニカがいる夏のキリギリス亭に戻ると中は活気だっていた。どうも団体客がいるようで、モニカや店主のジュリオが忙しそうにしている。可愛らしい店の制服に身を包んだモニカが時折り乳を揺らしながら注文をとったりグラスを下げたりしている。
「あ、クリスさん。おかえりなさい」
モニカがクリスを見つけると声をかけた。とびっきりの笑顔で迎えてくれた少女に、クリスはその場で膝をついた。
おかえりなさい。
おかえりなさい。
おかえりなさい。
エコーの様に頭の中で響くモニカの声。脳内では新しい家の玄関先でクリスを迎えるモニカの光景が一瞬で広がった。「ご飯できてますよ。あ、お風呂にしますか? それとも……」恥ずかしそうに目線を逸らすエプロン姿の新妻モニカ……
「ぬぉおおっ、可愛すぎる! 誰じゃこんなにわしの心臓と頭をかき乱すのは! モニカじゃ! マイスウィートハートラブリーモニカっ!」
白い目のウィリアムにひょいと抱えられロメオがいたテーブルに座らされる。瞬時に幸せ家族計画を練るクリスはいずれ授かる子どもの名前を考えていた。
そこへ近くの席いた客がひょいと顔を近づける。
「お前、喋るとイメージ変わるなぁ」
「あぁん?」
見ればやたら美形の男が両脇に女を侍らせてこちらを面白そうに眺めていた。その姿にこの団体客は劇団の奴らかと納得する。
「なんじゃ、オカマか」
「……この野郎」
笑顔は崩さずこめかみをピクピクさせている目の前の男はあの劇団の一番の花形役者だ。名はディエゴといい、パレードでは女王、劇中は神カリオンを演じていた。打ち上げだからか今はラフな格好をしているがそれでも色気漂ういい男だった。だから余計にいけすかないとクリスは思う。あっちいけペッペッ。
「なあ。お前、劇団入らないか? 面も良いし物怖じしない。声も通る。演者向きだぜ」
「断る。色々ワケアリの身じゃ。目立ちとうない」
違う席ではおそらく道化師だったであろう男が店の客に声をかけていた。メイクと奇抜な服がないとこうも印象が違うものか。上背はありおおむね平凡な顔つきだが、特徴的なのはつり上がった糸目だった。
「お姉さん、前世って信じますか?」
声をかけられた女性はまんざらでもなさそうだ。しかし身内がからかって「でたークラウンのご当地ナンパ」「毎度よくやるよなぁ」と口々に言うもんだから、女性は怒ってクラウンの足を思いっきり踏みつける。絵に描いたようなフラれ方に一同失笑。これぞまさに憐れな道化師である。
彼らがさっきまであの芝居をやっていたかと思うと不思議だ。演者はこんなに俗なのに、あの芝居の雰囲気は神々しくまさに一級品。ただの演劇なのに本当に楽園での出来事を切り写したようだった。感情移入してしまったのは、あの蜘蛛の化身だ。女神が好きで、最後の最後まで共にいたかったのに、置いていかれた憐れな蜘蛛。
「クリスさん目が赤いです。どうかしたんですか?」
『どうしたの?』
心配そうに覗き込むモニカの顔が、見知らぬ女性と重なった。モニカに似ているけど雰囲気は違うその人が、自分を瞳に移している。闇に属する穢れた自分を。
『お腹が空いているの? じゃあこれをお食べなさい。遠慮はいらないわ』
遠い昔のかすれた残像。優しい手が頭を撫でてくれる。その人は何よりも欲しかった愛情をくれた。
『ふふ、優しい子ね』
「……っ、」
止まったはずの涙がまた頬を伝う。
「あ、あの、なにか嫌なことがありましたか?」
自分を案じて悲しそうな顔をしたモニカ。彼女の指先がクリスの涙を拭う。優しくてあたたかいモニカの手だ。その瞬間、クリスは理解した。身体の奥底にいた何かと自分自身がひとつにまとまった。言葉にはできない何かを得た。
「違う、違うんじゃモニカ。……嬉しいんじゃ。——また、貴女に会えて」
頬に添えられたモニカの手に自分の手を添える。それはまだ彼女よりほんの少し小さかった。
「モニカ、わしと結婚してほしい」
隣にいたウィリアムが吹き出した。自分でも唐突だと思う。肩書きも何にもないただのクリス。年齢も若ければ成長途中の小柄な背丈は自分でも嫌になるほどだ。面倒な身の上に付きまとう追手だって軽視できない。それでもクリスは伝えたかった。真剣な自分の想いを。
「モニカとずっと一緒にいたい。モニカの唯一の男になりたい。助け合って苦楽を共にする生涯伴侶に、どうかわしを選んでほしい」
ぱちぱちと瞬きしたモニカはクリスの言葉を飲み込むと、みるみる顔を赤くした。その様子に多少の手応えを感じる。少なくとも異性としては見てもらえている。もう、あの時のような何もできない女の子ではないのだ。ふと牢番の爺の笑顔が思い浮かんだ。
クリス達のやり取りを今や店中の人間が息を潜めて見ていた。絶句しているのは店主のジュリオだ。せっかく来てくれた可愛い従業員を横から掻っ攫われてはたまらない。劇団の連中も面白そうに成り行きを見守っていた。花形役者のディエゴは、上手いことモニカを引き込めばクリスも一緒に釣れるかもと悪巧みをし、クラウンと呼ばれていた男はモニカを食い入るように見つめている。
「クリスさんのお気持ちは嬉しいです。ただ、私、まだそういうの分からなくて……」
ここでタイミング悪く、扉が開いて新しい客がやってきた。
「ここでモニカが働いてるって本当かカラス」
「あはは、面白いメンツが揃ってるなぁ」
エリとカラスだ。その二人も店も異様な雰囲気をすぐに感じた。みんなの視線の先にクリスとモニカがいる。
「今すぐ……じゃなくて、結婚の約束をしているでも良いですか?」
その返事に誰かが息をのむ。
恥ずかしそうにほほ笑むモニカに、クリスは全身が喜びで高揚した。
それすなわちOKと同意義。
幸せ家族計画にGOサイン。
「全然いい! うわーんモニカぁあ! 好きぃ!」
クリスはその細い腰に抱きついて、思いっきり胸に顔を埋めた。久しぶりのふわふわな谷間に高速頬擦りをかましてしまうのはもはや本能だ。抗うことなど不可能である。
顔を真っ赤にして「ひぇぇ」とか細い悲鳴をあげるモニカ。鼻血を出して倒れるウィリアムの横からロメオが慌てて飛び出してクリスを引き剥がす。まさかの展開にエリは絶句し、カラスは笑い転げていた。ジュリオは父親のように「うちの娘はやらん」と鼻息を荒くして、チティティカ村ではプリシラの背に悪寒が走った。
「あの、お名前を教えてもらえませんか」
しれっとクラウンがモニカに近づく。クリスは自分の嫁にたかるハエを叩きのめそうと殺気立たせるが、そこへエリが突っ込んで来た。
「お、お前、抜けがけずりぃだろ! 俺だって!」
襟元を掴んでガクガク揺さぶるが、そこは勝者の余裕なのか鼻で笑うクリス。言っておくがクリスは度量が狭い。嫉妬にかられながらも物陰で見守るしか出来なかったあの日を忘れはしないのだ。しかしカラスがそこへ割って入った。
「まあまあ、まだモニカは結婚したわけじゃない。婚約したってだけだよ。モニカには誰かのアプローチを受ける権利があるさ」
仲裁とも言えないそれは余計にクリスを腹立たせ、その高貴な緑眼でギロリと睨めつけた。まったく気にする風でもないカラスはクリスの耳元に小さく囁やく。
「……僕との賭け、忘れてないだろうね?」
くつくつと笑う異国の服をまとう美貌の男。まったくどいつもこいつも! とクリスは鼻息を荒くした。確かにモニカは可愛いし優しいしおっぱいだし可愛い。誰だってモニカが好ましいと思うだろう。だからこそ譲れない。絶対にだ。様々な思惑が渦巻くこの店で、クリスは大きな声で叫んだ。
「わしに癒しと幸せとおっぱいをくれるのはモニカだけじゃ! 絶対に他の奴には渡さんぞ!!」
そう言ってエリを振り切り、モニカに勢い良く突進して抱きいた。早くも独占宣言してしまったが気を悪くしなかったろうかとちょっとだけ焦る。腕を腰に回してぎゅーっとくっつくと、モニカの手がクリスの頭を優しく撫でてくれた。その手のあたたかさに涙が出そうになった。
「うふふ、なんだか照れちゃいますね」
モニカは数日前を振り返る。わずかな荷物を持って貧乳信仰の村を出奔したあの日。自分に自信がなく、村の人から悪魔の申し子だと指を差され、毎日戦々恐々していたけれど、あの日を境にモニカは少しずつ変わった。今では見える世界がどんどん広がって、不安もあるけれど毎日が新鮮で楽しく、そのきっかけをくれたクリスに心のそこから感謝をしていた。
まだ彼に恋心を抱いているとは言えないけれど、モニカは予感がしている。
クリスのおでこに唇を寄せ、小さく口づけをした。きっと笑顔が溢れる未来が待っている。その時に一緒にいてくれるだろうモニカだけの王子様。
「世間知らずなふつつか者ですが、よろしくお願いします」
悲鳴にも似た絶叫が店内に響き渡った。そこからまた夏のキリギリス亭はてんやわんやの大騒ぎ。外では月明かりが地上をほのかに照らし、女神チティティカはその様子を呆れながら見守っていた。
これは一人の少女が神々に振り回される物語。
いや、今となっては神々も振り回されていると言っても良いだろう。
かつて多くの愛に溢れた女神は、たったひとつの深い愛を夢見た。人に生まれ変わったモニカは果たしてそれを手に入れることができるだろうか。未来のことは誰にも分からない。それは彼ら自身がこれから切り開き、示してくれるだろう。
「モニカ。幸せになろうな」
ふくよかなモニカの胸に包まれたクリスは、本当に嬉しそうに顔をほころばせていた。
おわり
以上で本編は終わりです。
次ページは完全な作者あとがきと次作告知です。
ここまでお付き合い頂きありがとうございました。




