(22)逃亡
クリスは見た。人が動物になる瞬間を。過去と未来を見渡す力をもつと言われる人間は、自在に変身もできるのか。クリスもウィリアムも特殊な身体をしているが、カラスだってとんでもない。ただの人間にできるはずがない。この世界には大なり小なり神の存在があり、その力は健在だ。土地ごとにそこを守る神がいて、人々は感謝し敬い、時に恐る。よって物語にあるような人が魔法を使うなんてことはない。
「おい、ウィリアム。見たかさっきの……」
「見ました。小さい犬に変身しました」
「そんなのができる人間なんぞ聞いたことがない。あれはいったい何者だ」
人が持っているとすれば神に愛されたゆえの加護、あるいは疎まれての呪い。もしや人ではないとしたら……
「それもですけど。お嬢、良いんですか。カラスの奴、モニカ嬢のとこ行っちゃいましたよ」
ウィリアムは固まる主人に声をかけた。ハッとしてレンガ道を見るともうそこにはカラスの姿はない。
「わしのモニカが危ない!」
「いやお嬢のじゃないと思いますけど」
クリスは急いでレンガ道をかけた。ウィリアムはちょっと悩んだが、小さな主人の後を着いて行く。モニカの風呂を覗くわけではない。あくまでお嬢の子守りだ、と心で唱えながら足早に歩みを進めた。木々を抜けるとすぐ独特の匂いがした。ごつごつとした岩場が広がり、立ち上る湯気が見える。そして道の先に脱衣するためのこぢんまりした小屋があり、目隠しの為の柵が申し訳程度に立てられていた。
「お嬢、俺はこれ以上いけません」
ウィリアムが色々と察して辞退を申し出た。賢明な判断だ。どう考えても役に立ちそうにない。
「任せておけ」
クリスは力強くほほ笑むと、その美しい髪をなびかせ、脱衣所に突撃していった。脱衣所はせまく、四人で利用したらすぐ手狭になるくらいの大きさだ。奥には湯殿に通じる扉があり、そこは今閉じられてある。
「わんちゃんはどこから来たの?」
「ワンっ」
「ふふ、このお湯とっても気持ちいいね。カラスさんの言う通りね」
「ワンワンっ」
「あっ、くすぐったいったら……」
クリスはドアノブに手をかけて固まった。モニカの声が聞こえてきたからだ。もちろんモニカをカラスの魔の手から救うために来たのだから彼女がいるのはごく自然なのだが、もしかしたら全裸であることに気づいて一瞬の戸惑いができた。
(……モニカは裸? いわゆる全裸? 生まれたままの姿? ならばそれを一方的に見るというのはどうなんじゃ。服をきたワシが中に入ったら恥ずかしいのではないか。わしも服を脱ぐべきか。いやしかしそれはできん。こういうのはもっとお互いを知ってから順序良く——)
相変わらず下世話な考えを始めたクリスだったが、一瞬思考に影がさした。頭に過ぎったのは呪われた自分の身体。どんなに顔が良かろうと、この身に潜む恐ろしいモノに誰もが恐怖する。実の両親でさえだ。クリスは自分の小さい身体をぎゅっと抱きしめた。
(……そうだ。この身体は、見せられぬ)
ちゃぷちゃぷという水の音で我に帰る。いかん、目的を見失うところだった、とクリスはひとつ大きく呼吸をした。不届き者のカラスを浴場から叩き出すのだ。服を着たままで構わない。ウィリアムには無理だ、だから自分がやるしかない。
(だいじょうぶ、落ち着け。モニカのナマ乳は見たことある。あれはすごかった。今日はもっとすごいだけじゃ)
落ち着けていないのに本人は気づけない。
「ねえ、ワンちゃん。聞いてくれる? 私ね、今とっても楽しいの」
扉一枚隔てた空気から、モニカの声が聞こえた。クリスは思わずドアノブにかけた手をピタリと身を止めてしまう。
「村を出てから、本当にビックリすることばかりなの。嬉しいことも困ったこともあったけど、村にいたら絶対に経験できないことばかりだったわ。クリスさんやウィリアムさんに会えて良かった。すごく勇気をもらえたの。雑貨屋のおばあちゃんも、エリにも。……あはは、もちろんワンちゃんにも会えて良かったわ。ふふ、くすぐったいってば」
ぴちょん、と雫が水面に落ちる音がする。一つの小さな雫が波紋をおこし、それが次々と水面に広がっていく。
「本当に、今この瞬間が愛おしいわ」
おそらくモニカの本心だろうが、クリスはちょっとだけ胸騒ぎを覚えた。もう味わう事ができないかのようにも聞こえる。しかし考え過ぎだとしてクリスは頭を横に振った。どうもモニカとスペラーレで別れて以来、感情のアップダウンが激しい。
「なんだか暑くなってきたから、もう上がっちゃおうかな。ワンちゃんはどうする?」
ちゃぷんと水が跳ねる音がする。
「ワン!」
あがると聞こえてクリスは慌てた。全裸のモニカがこちらへ来る。上から下までもれなく肌色の彼女がお湯を滴らせてやってくる。隠れるべきかと小屋を見回しても、どこにもそんなスペースなんて無い。ならば逃げるかと振り返ったところで次のモニカの言葉で再びフリーズした。
「じゃあ一緒に行きましょうか。あ、だめよそんなところ舐めちゃ……」
推測するに、全裸のモニカが子犬を抱き上げている。ならばあの犬畜生めの口の位置はどの辺りになるか? 乳だ。乳しかない。
(カラスの奴っ!!)
クリスが鬼ような形相でドアノブを掴もうとした瞬間、ガチャリと開いた。
「わ、クリスさん」
モニカの顔が見えてクリスはとっさに目をぎゅーっとつぶって視界を閉ざした。
「ち、違うんじゃモニカ! わしは決して覗きをしようなんて思ってはいない! ただおぬしの身を案じてだな、」
手をばたばたさせて言い訳がましく言い立てる。しかしモニカはなんとも思っていないようだ。
「お湯とっても気持ちよかったですよ。カラスさんは服を脱いでって言われたんですけど、一人じゃよく分からないので足だけお湯につけてました」
「……うん?」
クリスは恐る恐る、緑色の目を開く。そこには白いブラウスに赤いスカートを着たモニカがいた。下は素足である。そして黒い子犬は足元にいて、ハッハッと尻尾を振っている。唖然とするクリスを見て、犬は笑ったような表情をした。
◇
気づけばもう子犬の姿は無かった。聞きたい事はあったが仕方がない。ウィリアムとも話し、せっかくだからとモニカに風呂の入り方を教え、三人交代で温泉に入ることにした。こういう事は滅多にない。
クリスのまだ幼い肢体が惜しげもなく陽の下にさらされた。他には誰もいない。白く瑞々しい肌に、黄金の髪。深い緑の瞳は宝石のようにきらめいて、縁どるまつ毛が影を落とす。しかしその背中には——
その白い背中の全面に大きなアザがあった。しかもその形は大蜘蛛のように胴体に頭、左右に4本ずつ足があるように見えるのだ。このような跡が残るケガを負ったことはなく、産まれてきた時からあるアザだった。ただ偶然にこんな形なのか、それとも何かの呪いなのか。
「アカ、いつもご苦労だな。わしはしばらく風呂に入るから、濡れないように外で遊んでおれ」
クリスの髪から、ピンッと小さなものが跳ねた。それは小さな赤い蜘蛛で、岩場を伝って高い場所へ移動していく。
クリスは湯に身体を沈めると、ほっと息を吐いた。足先からじわじわと疲れが溶けて消えるようだ。いつ倒れるかも知れぬ旅暮らし。辛いこともあるが、楽しいこともある。あの時の暮らしに比べたら、よっぽど生を実感できるというものだ。クリスはこの瞬間が愛おしいと言ったモニカに、大いに賛同したのであった。




