3 奥手にも程がある(いい加減観念なさい)
私の目の前には挙動不審なイグナーツが座っている。右を見たり左を見たり上を向いたり下を向いたりと忙しい。しかし、決して正面を見ることはない。
「顔を見て話がしたいってお願いは聞いてもらえないの?」
すると、イグナーツがぴたりと動きを止めた。
「みみみ密室に二人きりでいるだけでも十分に譲歩しております」
「そう。じゃあ私にも考えがあるわ」
私は立ち上がると、よろめきながら前に出る。イグナーツの「危のうございます姫様!」という叫びを無視して、イグナーツに覆いかぶさるようにして背後に両手をついた。
「姫様、近い、近い!」
「貴方が悪いのよ。我慢なさい……エルゼ、もう二周くらい延長よろしく!」
「かしこまりました!」
私は御者台に座るエルゼに指示を出すと、威勢のいい返事が返ってきた。これは二周といわず、こちらが戻るように言うまでひたすら街中を走るに違いない。実を言えば私とエルゼと御者はぐるなので、イグナーツは退路を塞がれているのだ。参ったか。
「姫様?! これはどういうことですかっ!」
ガチガチに固まってしまったイグナーツが、恨めしげに私の顔を見ようと顔を上げて……そのまま高速で俯いた。何故だろう、彼の耳が真っ赤になっている。よく見ると首筋まで赤い。
「さて、私はこのまま話してもいいのだけれど?」
「ひひひ姫様、ここ、このままだと、揺れたらお」
「お?」
イグナーツの口は「お」と開いたままだ。仕方がないので彼の胸をちょいちょいとつつくと、からくり人形のようにぎこちなく動いた。
「おって何?」
「お、お」
「お?」
「お胸が! 自分の! 顔に!」
激しく肩で息をするイグナーツは、極度に疲労しているように見えた。私も疲労した。大声で何ということを叫ぶのだこの護衛は!
このままでは埒があかず、私は大人しくイグナーツの隣に座り直すことにした。揺れて危ないのでちょうどそこにあった腕に自分の腕を回すと、「はうっ!」という変な叫び声が上がる。筋肉質な腕は触っていて気持ちいい。なんというか安心感があるので、ついつい揉んだり撫でたり頬ずりしてしまってもそれは不可抗力だと思う。
「姫様は、自分の忍耐力をお試しになられているのですかっ!」
「もちろんよ。貴方のぶっとい忍耐力をぎったんぎったんに切り刻んでやりたいくらいだもの」
「ぴゃっ!」
なんとも奇妙な短い叫びは、確かに目の前の護衛から聞こえた。日頃から物陰に隠れて私を見ているので、イグナーツは私と面と向かうとどうにも情けない一面が前面に押し出されてくるらしい。
遠くからこちらの様子を見ている時は、あんなにキリッとしていて格好いいのに。いや、格好いい時と気持ち悪い時があるので一概には言えないけど。でも、私の贔屓目に見ても、イグナーツは端正な顔立ちで涼しげな目元が超絶格好いい騎士なのだ。可愛い女の子から恋文を貰っているところだって、私は何度か見た。要するに、モテないわけではなく、仕事に熱心なあまり私生活がズタボロな男なのである。
私の質問をのらりくらりと躱すくせに、目だけは鋭くて正気と狂気の狭間をゆらゆらと揺れているイグナーツは、正直私のことをどう思っているのだろう。散々私を褒め称え、気がある風な態度を見せる彼の本心を知りたい。私の不毛な想いが実るものなのか、確かめたくなるのは仕方がないことだと思う。
「ねぇイグナーツ。ここ一ヶ月くらい、お父様と水面下でごそごそ動いているの、私は知らないわけじゃないのよ」
「なっ、何をおっしゃって」
「誤魔化さなくてもいいわよ。どうせ私の噂話のことでしょ」
「それは姫様がお気になさることは」
「で、私はどこの誰と婚姻を結ばなければならないの?」
イグナーツは何も答えなかった。言えるはずがない。だってこれは、極秘裏に進んでいる決定事項だから。私にバレないように緘口令が敷かれていることくらいわかっている。姫とは名ばかりだけど、頭にまでお花畑に侵食されているわけではない。
「私も十八だもの。このまま悠々自適な暮らしができるわけないって理解しているつもり。でもね、ただでさえ誰も見向きもしてくれないのに、噂のせいで益々婚期が遠のくからって勝手に話を進めるのはいかがなものかしら?」
八つ当たりするみたいに、私はイグナーツの手を揉んだり、お腹を拳で叩いたり、腕に額をぐりぐりと押しつけてみた。何も言わないし抵抗すらしないものだから、だんだんと遠慮がなくなってしまう。意地になって手をカプッと噛んでみたら、やっと動いてくれた……けど、なんかこう、全体的に生気がないのはどうして?彼は私の方を見ないまま、どこか遠くを見ているような、焦点が合わない目をしている。
「イグナーツ、何か言って」
「姫様が」
「私が?」
「姫様がどこに行かれようとも、自分はお側におります」
ほら、いつもこれ。
護衛という立場から逸脱しない私自慢の騎士イグナーツ。口ではあんなことを言ってても、私と彼はただの主従関係で成り立っているのであって、そこからは抜け出せない。
「その必要はないわよ」
「姫様?」
「私が婚姻を結んだら、貴方を自由にしてあげるわ」
私はイグナーツの腕を放した。所詮現実はこんなものなのだと、色々諦めたくなる。恋愛小説のように劇的で刺激的な禁断の愛など、実ったとしてもその後は転落人生なのだから。例えば駆け落ちしたとして、私が何かできるかと言われても何もできない。精々素人お菓子を作るくらいか、上手でもない刺繍が少し。お金を稼ぐなんて無理なのだ。貴族の端くれとして、それなりの家柄の夫と婚姻し、子供を生み育てていくしかない。
――なんということ……そんなことなら私が努力すればよかったじゃない。
バリバリお金を稼いで夫を養えるように勉強をすればよかったのだと、ここに来てから気づいてしまった。イグナーツに、不自由はさせないから私の夫になりなさい!と言えるくらいになればよかったのだ。傭兵として名を馳せたお祖母様みたいに。お父様はそれがすごく嫌だったみたいだけど。ああ、私の馬鹿。
馬車はゆっくりと進んでいく。今どこのあたりを走っているのだろう。もう戻ろうかと私が考えていると、隣に座っているイグナーツの様子がおかしなことに気づいた。膝の上で握られた拳がぶるぶると震え、引き結ばれた口は……何というか、ものすごく食いしばってる。
「自分は、用無しということでしょうか」
「嫁ぎ先の家に護衛は連れていけないわ」
「承服し兼ねます」
「貴方の仕事がなくなるわけじゃないわ。お父様は貴方をとても頼りにしているもの」
夫ができるのに懸想している護衛を連れていくなんて、どんな禁断の愛よ。しかも相手にその気はないとか、不毛というより煉獄の大地に張り付けになり、焼け焦げて死んでしまいそうだ。精神的に。
しかし、イグナーツはそんな風には考えていないらしい。自分の仕事は私の護衛しかないとすら思っていそうだ。有能なお父様の騎士なのだから、本来の仕事に戻れるとは考えないのだろうか。
イグナーツがすごい勢いで私の方を向く。その目は血走っていて、もはや正気の狭間を飛び越えてしまっているように見えた。怖いからそんなに凝視しないでほしい。本当に。なんかそのままバリバリ食べられそうだし。
「姫様のお側に置いてください」
「無理よ」
「では姫様が雇ってください」
「私が自由にできる資産なんてないわよ」
「無償でいいので、今まで通りお側に」
「なんでそこまで私の護衛にこだわるの!」
「自分は、姫様の護衛です」
「なんなの、私がいないと死んでしまう呪いでもかかってるの? お別れするのはすごく寂しいけれど、仕方ないでしょ」
「嫌です、別れたくありません!」
「無理だから!」
「無理じゃありません!」
ギラギラとした目で、イグナーツが私を睨みつけんばかりに見てくる。まるで、捨てないでというように、すがりつくように。ああ、駄目。この顔はずるい。
「自分は、何があっても、姫様のお側に!」
そこで私ははたと気づいた。
何なのだ、この会話は。まるで別れ話が拗れて揉めている恋人同士のようではないか。おかしい。どうしてこうなった。
しかし、私はここに光明を得る。
イグナーツはどうあっても私と一緒にいたいらしい。本人が言っているのだから間違いない。しかも無償でもいいと、確かにそう言った。
私は彼の手にそっと触れる。今にも襲いかかってきそうなくらいギリギリの状態の彼は、私のその手を握りしめてきた。握りしめて、というよりも握りつぶつす、というくらい力が入っている。痛い痛い痛い痛い、ちょっと本気で骨がゴリゴリいってるから。
「そう、貴方の気持ちはよくわかったわ」
「……わかってくださいましたか」
イグナーツの手の力が少しだけ緩む。よかった、私の手は無事だった。
「ずっと私の側にいたいのね?」
「もちろんです」
「夫がどんな人であっても?」
「…………自分は、いつでも姫様の幸せのために」
「私は資産なんてないから、無償よ?」
「自分には蓄えがあります。むしろいつか姫様のために使いたいと日々節制を」
そうだった。イグナーツは『趣味、物陰に潜んで私の護衛をすること』と公言してはばからない無趣味な男だった。私が意見を受け入れてくれたと思ったのか、彼の表情は少しだけ優しさを取り戻している。いつものように目がキラキラとし始めた。まだ油断ならないけど。
「だったら、いい案があるの」
「案、でございますか?」
「そう。これなら貴方の望みも私の望みもどちらも叶う、素敵な提案なんだけど」
「はあ。それはどのような話なのでしょうか」
私は深呼吸をして、緊張を紛らわせる。失敗はできない。きっと大丈夫。でももし断られたらどうしよう。などと今さら考えていても仕方はない。腹をくくれ、シュテファーニエ。
「イグナーツ、私って可愛い?」
いきなりそんなこを聞かれたイグナーツは、目を点にして私をまじまじと見てきた。自分からこんな質問をしたのは初めてだから当たり前だ。何言ってるんだこの人、というような目ではないのでよしとしよう。
「あっ、当たり前ではありませんかっ! 時にお可愛らしく、時に美しく。微笑むだけで誰彼構わずすべてを虜に! 数多の男たちを惑わせる姫様は、妖精かと見紛うくらいに自慢の、自慢の姫様です!」
「そ、そう……相変わらずね、イグナーツ」
相変わらずイグナーツの審美眼は病んでいる。こんな風に褒められても信じられるわけがない。しかし、彼は多分、本気でそう思っているのだ。恍惚としたような顔になり、私をこれほどかというくらい褒め殺す彼の口は止まらない。
「そのけぶるような金色の髪も、深い深い空の青を映した瞳も、本当は誰にも見せたくないのです。独り占めにしておきたいと思える至宝にございま――」
「いいわよ、独り占めにして」
「は?」
「そんな風に思ってくれているのなら、貴方にしか見せなくていいって言っているの」
「自分にとって夢のようなことなのですが……ご冗談を」
イグナーツが呆気にとられたような顔で私を見ている。私の顔は、きっと真っ赤になっているのだろうけれど、今はそれを気にしてなんていられない。
「冗談は言わないわよ」
「姫様?」
「貴方はこれから好きなだけずっと側にいていいし、私を独り占めできる。私は貴方を公然の場に連れ回して、一緒に散策したり買い物したり夜会にだっていけるの」
イグナーツの顔は、何かを期待しているように喜色と不安が入り混じっている。大丈夫、いける。私も彼も、つまるところ、ずっと同じ気持ちを抱えていたのだから。私は押し倒すように、彼の身体に乗り上げた。抵抗もなく仰向けになるの胸に手を当てると、ドキドキがはっきりと伝わってくる。本気の照れ顔も格好いいなんて、この護衛反則すぎ。
「何を、何をお考えに」
「私、貴方が好きよ」
「ひ、め」
「私の夫になって、イグナーツ」
「なりませんっ」
「私に貴方以外の人を夫にしろと言うの? 私は嫌、耐えられない。好きな人じゃないと嫌」
鼻がツンと痛くなってきて、目にじわりと涙が浮かぶ。私だって誰でもいいわけじゃない。婚姻は、好きな人としたいという、普通の女の子のように憧れているのだ。イグナーツの瞳に葛藤が見える。ごめんなさい、貴方の忠誠心を試すようなことをして。でも、今回ばかりはその厳しい心に負けてちょうだい。
「好き、ずっと側にいて、私を護って……ね? お願い」
馬車がガタンと大きく揺れた。それが道のせいなのか、はたまた中に乗っていた人のせいなのか、それは言わないでおく。
しかしこの後、エルゼが不審に思って声をかけてくるぐらい街中を走りまくった馬が、とうとう疲弊してしまった。馬に可哀想なことをしたけれど、私に後悔はない。そのエルゼと御者から叱責されているのはイグナーツだったけれど、彼の顔はとても晴れ晴れとしていて、幸せそうで。叱られている途中で私の方をちらりと見てきた彼に、私も幸せいっぱいの笑顔を返した。
――まったく、奥手にもほどがあるわよ。
私はヒリヒリと痛む唇をそっと撫でる。奥手なくせに、こういうことはとても手が早かった。まあ、イグナーツの唇も同じように赤く腫れているから痛み分けってところかしら。情熱的すぎてその先を想像するのは少し怖いけど。全然嫌じゃない。むしろ彼の深い深い愛を感じられて、私の顔はにやけっぱなしだ。嬉しい。幸せ。そんなことを思いながら、私は次の段階に進むにはどうすればいいのかを考え始めた。