隠者4~姫の戦術
皇太子アンセムは、いつもの日課である夕食後のランニングをこなしている。
彼は両親からこの後宮という広大な建物に住む事を強制されても、この毎日の運動を欠かしていない。
彼のために走りやすいように、わざわざ後宮の外周は整備されていた。
彼は、2か月前の19歳になったばかりの日、両親によって無理やり後宮に入れられた。
彼の父、アスンシオン帝国皇帝のアンセム・シオン・マカロフは、大陸中で誰しもが認める英雄肌の人物だが、唯一、従兄弟で皇后のエリーゼに対しては事実上尻に敷かれて頭が上がらず、側室を持つことを許されなかった。
彼の祖父の時代、皇帝リュドミル・シオン・マカロフは、邪悪な暗黒神イ=スによって身体を乗っ取られ、さらに国の女神であるシオンの力も奪ったといわれている。
帝国は悪しき存在によって操られ、ラグナ族達は人間としての尊厳を奪われた。
彼の父は、それを倒す為に立ち上がり、解放戦争に勝利し、邪悪なる精神を打ち破り、祖父を退位させたのである。
祖父の退位後、大陸に住むラグナ族の諸国は「ラグナ族の盟約」を結んだ。
これは、ラグナ族の種族の誇りは、ラグナ族によって守るという事を誓うものである。
ラグナ族の特殊能力は、創造主から与えられた大切な力、安易な時勢に流されて失ってはいけない。しかし、かといって個人の恋愛を強制するわけにもいかない。
そこで、ラグナ族の諸族は人々の身分を、血脈を守る者と自由を守る者、つまり王族貴族と市民に分けた。王侯貴族には血脈条項に則った特殊能力の維持義務、市民は“啓蒙の法”に則った自由と権利を定めた。
つまり、種族の血脈的な身体の立場と、種族の精神的な自由の立場を分けたのである。
王侯貴族は特権があるが、恋愛の自由はない。そして、帝国の皇家はラグナ族の特殊能力維持のための「ラグナ族の盟約」の代表として主導的な立場に立たなければならない。
しかし、現在、皇帝の血脈を持つ男子は父と、息子である彼しかいない。祖父は「ラグナ族第一主義」に基づいて、大量の子供を生産したが、男はほとんど作らなかったのである。
皇家の存続を危惧した帝国政府と母のエリーゼは手を組み、「ラグナ族の盟約」に従って後宮を整備させた。母親というのは、夫が他の女と寝るのはダメだが、息子が多数の女を持って子を為すのは良いらしい。
そして、さっそく盟約に従い、皇帝家に忠誠を誓う各貴族家、そして盟約の参加国は娘を後宮に供出することになった。
つまり、ここに捧げられた娘達を皇太子である彼が相手することは、男性的快楽の為ではなく種族の誇りという種族の盟約が与えた義務である。
そのため、彼は士官学校を卒業した直後から、ここで生活することを強制されている。
ランニングを続けていると、ボイラー室の脇に佇んで、煙突の先を見上げる娘がいた。
彼女は妃の1人、メトネ・デューク・カラザールである。彼女は典型的なアリス族の甘ったるい容姿を備えていた。
「“しょぼん”、降りてきなさい~」
メトネの視線の先にある煙突の梁には、猫が入り込み、降りられなくているようだ。
アンセムは彼女に声を掛ける。
「メトネ、また猫が問題を起こしたのか」
「あ、アンセム。いいところに来た~ 助けて」
彼女は得意の甘いおねだりで懇願する。彼女は後宮が出来てからすぐに入宮し、毎日、あらゆる手段で彼に甘えて来た。
だか、彼女はこんな弱々しい容姿だが、実際はラグナ族第一主義によって強化された特殊能力を複数持っている。実際のところ、もし彼女に“フェロモン”と“贖罪”の能力を使われたら今のアンセムは簡単に篭絡されるだろう。
だが、それをすると他の妃達が黙っていない。おそらく後宮内で女同士の壮絶な内戦になる。彼女達妃はそういう意味もあって、ここでは能力を使わなかった。
もっとも、アンセムは彼女達の法的な夫であるので、いつでも彼女達の身体を自由に出来るし、ラグナ族の特殊能力は“ヴェスタの加護”を失うと喪失するので、いつでもそれを奪う事ができる。しかし、今のところその関係まで到達した妃はいない。
「アンセム、ちょっと肩を貸してよう。“しょぼん”がまた煙突に登っちゃって」
「いい加減にちゃんと躾けたらどうなんだ」
「もう、男でしょ。女の子が頼んだんなら、喜んで『はいっ』って返事しなさいよ」
「はいはい」
アンセムはメトネを軽々と持ち上げる。小柄なアリス族を肩車することなど、身長190cm近く、鍛え上げられた壮健な男子には余裕のことだ。
「さすがに高いわ~ やっぱり男は違うわね」
「そうだね」
メトネの感想に、アンセムは話を合わせる。
「ほらっ、“しょぼん”こっち来なさい!」
メトネが手を広げると、その太った猫は彼女の胸に飛び込んできた。飛び跳ねるさまは相変わらず不格好で滑稽だ。
その肥満した猫が飛び込んだ際に強い衝撃があったが、土台を支えるアンセムは微塵も揺るがない。
アンセムはそっとメトネを降ろす。
「ふふっ…… あははっ」
メトネは急に笑い出した。“しょぼん”を抱えたまま楽しそうに笑う。さすが美少女種族といわれるアリス族の容姿だけあって笑い出す仕草も可愛い。
「どうしたんだいメトネ、何かおかしい?」
「だってアンセムは、私の男でしょ。男っていうのはやっぱりこうじゃないとね。って思ったの」
「まったく、メトネは楽しい性格だよなぁ」
アンセムは、微笑むアリスの美少女を眺める。
どこからみても若くて美しい少女だ。こんな美少女が後宮にはたくさんいる。
アンセムは産まれてからしばらくの間、ずっとタイミィル半島のノリリスクで、解放運動に明け暮れる両親と離れて暮らしていた。
戦いに勝って、祖父が退位し父が皇帝になってから、彼は帝都に呼ばれ、女ばかりの怪しい士官学校へと入れられた。
そこにいた娘達は、要するにアンセムの側室候補達である。
卒業後は、そのまま自分と女生徒ごと後宮に放り込まれた上、その後宮にいる娘はすべて自分の物で、好きにしていい、むしろそれは種族の義務だと言われたのである。
「うーん、どうしたの? アンセム。男なら、女の子いっぱいの楽園を楽しんだら?」
「いやぁ、なんか種族の義務とか仕事みたいでさ。これじゃ、まるで種馬みたいじゃないか」
「でも、きっとスカッとするよ? 男は女を抱いて気持ちいいように身体の構造ができているんだよ?」
メトネは意外と擦れている子らしい。はっきりとそう主張する。
「女性の気持ちを考えると、そういう気分にはならないよ。それに男の身体の快楽なんて、女の身体の快楽と比べたら比較にならないからね」
「うふふ。まるで昔、長く女をやっていたみたいな言い草ね~」
メトネは意地悪そうに微笑みながら答える。
男女の快楽は、ラグナ族という種族が、その生理的責務の報酬として用意しているものだが、彼の自我という精神は、それに屈服させない。
「でもさ、今、ここにいる男はアンセムだけなのよ。女だって、男に愛されたいわ。それは分かっているでしょう?」
「そうだなぁ……」
アンセムは煙突の先を見上げながら言った。
「ちゃんと段階を踏んでさ、全ての女性を物ではなく、ひとりの女性として、そして人として、本気で愛していると伝えないとね」
アンセムが真剣な顔で答えるので、メトネはまた可笑しくなってしまう。
「でも、それって浮気な愛じゃない? 本気の愛がいくつもあるなんて、男にとって都合よすぎない?」
メトネの問いに対して、アンセムは答える。
「私は1人しか愛していないよ。ラグナ族という種族の女性としての“宮”を持っている女性だけをね」
メトネはそれを聞いて意地悪そうな顔をして返す。
「まぁ、精々、男として、ここにいる人数分の“あたし”を楽しませてよ」
「そりゃ大変だ……」
呆れる顔のアンセム前にメトネは、再び意地悪な顔をして迫って来る。
「今回は“しょぼん”を助けてくれたから。ご褒美にキスしてあげる」
どこかで見たようなシーン。
だが、抱き着いて来ようとするメトネの額をアンセムは手で押さえて距離を取った。
男の腕は長く、メトネはアンセムに近づけない。
「ちょ、ちょっと~ 何をするのよ~」
不貞腐れた顔をするメトネ。
「ご褒美なんてお断り。誘われたって応じないさ。こういうのは誘われるんじゃなくて、私が決めさせてもらうよ」
アンセムはそういうと、メトネの身体を壁に押し付ける、そして優しくキスをした。
メトネは目を閉じ全てを彼に委ねている。
「ん……」
その静寂はしばらく続いた。
そして、唇を話すと、アンセムはそっとメトネを降ろす。彼女の顔は赤らめ、目は潤んでいるようだ。
「じゃあ。また、後で」
アンセムはそう告げると、そのまま走り去って行った。
何事も無かったかのように、ランニングを継続する。
「うふふ、あたしが選んだだけの事はあるわね。面白い男だわ」
走り去りゆく男を見つめながら、女は静かに呟いた。
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深夜、アンセムは後宮の屋根に登って夜空を見上げている。
凍てつくような寒い空気の向こうに、光輝く白き星エルタニンがある。
そして天の川付近には、禍々しい凶星アアルが輝いている。
メイド長は彼が屋根に登る事や夜更かしを厳しく注意したが、彼は改めない。改めるつもりもない。
ここで独り、静かに星を眺めることがとても好きだった。
すると、彼の世界に梯子を掛けて登ってくる娘がいる。
「アンセム~」
「また来たのか、堕ちたら危ないぞ」
「うふふっ、今日は“VAF”付けているから大丈夫よ~」
メトネは“ヴェスタの加護”から発生される“VAF”を身に付けている。この力により、刺すような寒さでもそれほど感じないし、この程度から落下してもケガはしないだろう。
彼女は、毛布を持って来ていた。そして、アンセムの身体に優しく掛ける。
「身体冷やすと風邪ひいちゃうよ」
彼女はそう言うと、自らが掛けたその毛布に一緒に入りこんでくる。
毛布だけでなく、彼女の温もりがとても暖かい。
「星空が好きなんて、随分感傷的なのね」
メトネはお決まりのセリフを呟いた。
「レン先生にプラネタリウムで見せてもらった星空は、明るい星が多くて、羨ましい世界だったんだな。それに比べればなぁ」
「なーんだ、アンセム。面白くないの」
メトネが不貞腐れながら言う。
「で、どうするの?」
「どうするって?」
「もう恥ずかしいから女の子から言わせないでよ」
メトネは小さくなって寄り添って来る。
「そういえば、昔はここでやっちゃったんだっけ? でも、あの時は女同士だったから、まぁやったうちに入んないよな」
「な…… なんてデリカシーのない男なの。サイテー!」
メトネは膨れている。
しかし、アンセムはメトネを見ていない。ずっと夜空を見上げたままだ。
「まったく、男っていう生き物は、愛する女より星空の方がいいわけ?」
メトネは耳元で優しく囁く。
アンセムはそれを聞きながら呟いた。
「……凶星アアルは、どんどん太陽系に近づいている。その影響は次第に出るだろう。ハイラルに天文台を建設中で、シオンに情報を集めて影響を計算させる予定だけど、どうなるかはわからない」
そもそも“ヴェスタの加護”があるのだって不思議な事だ。
種族の宝を守るための不思議な力。奇跡のひとつだろう。これがなければ、人類は寄生細菌ボルバキアにやられて滅亡していた。
ラグナ族が持つ様々な特殊能力はこの“ヴェスタの加護”を副次的に利用したに過ぎない。
「ラグナ族の特殊能力には、世界を救うヒントがある。それを研究しないとね」
メトネはそれを聞くと組んでいた腕を離した。
そして、男の隣に一緒に座って、夜空を眺めている。
「アンセムったら、世界を救うなんて、大きい夢語っちゃってさー」
「悪いかい?」
「いつも言っているでしょ。あたしの夢は、大きい世界を持っている男の傍にいたいって」
「そうだったね」
「それはね、いつだってお姫様の願いを叶える為の、最強の戦術なのよ」
このお姫様は、物語のお姫様のように、敵に捕まって勇者に助けられたりしない。
このお姫様は、勇敢なお姫様のように、自ら武器を持ち男と並んで勇ましく戦ったりしない。
このお姫様は、お飾りのお姫様のように、自分の意志を持っていない人形ではない。
けれどこのお姫様は、それらとはまた別のやり方で自分の願いを叶えた。
それは、女の子の持つ最強の戦術、姫の戦術という生き方なのだろう。




