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俺の求めた…… (後)

 日夜、世界中で起こっている事件に比べれば、とても些細な出来事なのかもしれない。

 しかしその出来事は、一人の少年の運命を大きく変えるほどだった。


「私があのときにちゃんと謝っていれば……そうすれば、あなたがいなくなることもなかったのかもしれない。本当はもっと早くに言うべきだったのに……」

 自責の念からなのか、茜はリョウを直視することができなかった。

 俯き、地面のコンクリートとリョウの足元だけが視界に映る。

「でも、みんなが涼の変化になんの疑問も持たなくなって、私もそんな涼といることが当たり前になって……私の出会った涼は、ずっと涼のままだったんじゃないかって、何もかもがあやふやになっていって……それでも涼と過ごす毎日が楽しかった」

「…………」

「そうやって積み重ねてきた日々が、あの日の真実で壊れてしまうのが……私の知っている涼が、またどこかに行っちゃうんじゃないかって、考えるだけで怖くて仕方がなかった」

 リョウは背を向けたまま黙然と聞き続けた。

 茜が嗚咽を交えながら告白する、長年溜め込んでいた胸の内のすべてを。


「全部、私のせいよ……ごめんなさい。もう謝っても許されることじゃないかもしれないけど、きっと私のせいで、あなたには辛い思いをさせることになってしまったから……」

「っ……自惚れるなよ」

 低く、怒りを含んだ声で、リョウは茜を叱咤する。

 果たして怒りの矛先は、本当に茜だけに向けられたものだろうか。

 茜は涙に濡れた顔を上げ、リョウの背中を見つめる。

「俺は俺のために、アイツに後を任せて、お前たちの前から消えたんだ。お前なんかのせいでも、お前なんかの為でもない。すべては俺のためだ! なに勝手に罪の意識を感じてるのか知らねぇが、俺はあの日のことなんてこれっぽっちも、なんとも思っちゃいない」


 他人なんてどうでもいい。

 それが今のリョウ。

 自分さえよければ、それでいい。

 それが今日までの少年のすべて。

 そううそぶき続けて、今日という日まで生きてきた。

 しかし、その想いとは裏腹に少年の肩は小さく震えていた。


「涼……」

 それに気づき、茜は恐る恐る手を伸ばす。

「──俺に触るなっ!! もういいっ! もう……やめてくれ……」

 肩の小さな震えは、いつしか背中にまで伝播し、少年の苦悩に満ちた声をも震わせていた。

「なんで……なんでお前は、いつもそうなんだ…………いつも突然俺のところに来て、俺を俺の世界から引っ張り出そうとする……ッ」

 一言発するたびに、頭が割れそうになる。

 彼女を拒絶するたびに、胸の奥が引き裂かれるような激痛に襲われる。

 早く、こんな煩わしい痛みからも解放されたい。

 何もかもを手放して楽になりたい。


 ──すべては俺自身のために。


「俺の手を引こうとするな、俺に希望を見せるなっ。これ以上──俺に関わるなっ!!」

 希望を見せられるからこそ、それが手に入らないとわかったときの絶望が、ひとしおに大きくなる。

 ならばそんなものは初めから見ない方がマシだと、たとえ目の前に蜘蛛の糸が垂らされようとも掴むことを拒んできた。

 その傷ましいほどの苦悩に少女は我がことのように怒った。

「……だったら……だったら笑ってよ! そんな辛そうな顔しないで。私のことなんてどうでもいいから……もっと楽しそうに笑ってよ! じゃないと、私は涼をほっとけない、ほっとかない! いつまででもずっと涼のことを待っててやるんだから──」

 言葉に並べてみれば、それはとても簡単だった。

 だが、その言葉の一つ一つが、リョウの心に深く染み込んでいった。


 苦痛に苛まれていたときとは違う、胸の奥が締めつけられるような切ない想いに駆られる。

 それはリョウが生み出した闇に覆われ、隠されてしまっていたモノ。

 リョウが失い、あきらめ、また取り戻さんとしていた、人を想う大切な感情。


「なんだ……これは……?」

 溶けた氷に水滴が垂れるように、リョウの頬を雫が伝った。

 今まで少年が秘めていた想いが、心に巣食っていた漆黒が、あふれ出る。

「…………」

 怒りが、憎しみが、悲しみが、痛みが……

 リョウがその心に縛り付けていたものがすべて、涙となって浄化されていく。


「……俺は……俺は、恐れていたんだ。この手で……お前を傷つけてしまうことを……」

「そんなことで、私は涼を嫌いになったりしない」

「本当は嫌だった。どこにも……自分の居場所がないことが……ずっと、孤独でいることが……」

「涼はもう一人ぼっちなんかじゃない。あなたの周りにはたくさんのあなたを待ってる人たちがいる」

「違う……俺じゃダメなんだ。俺は俺を変えられなかった……こんな俺の存在は、周りを不幸にするだけだ……」

「ううん、そんなことはない。涼はちょっと不器用なだけ。涼に優しさがあることも、ちゃんと私は知ってる。だからもう帰ってきて……」

 黒一色に染め上げられていた『神谷 涼』の世界が美しく彩られていく。

 鮮やかな茜色に────




 ──ああ、これが俺が求めた……『光』か。

   なんて暖かいんだろう。

   だけど、やっぱり俺なんかには不釣り合いだ。

   闇の中で生きていた俺には、お前の光は眩しすぎる──




「ありがとう、茜。俺を待ち続けてくれて」

 振り向いたリョウの顔には、いまだ涙を流しながらも、穏やかな笑みが浮かんでいた。

「でも──もう、お別れだ。俺はお前とは、いられない」

 一転して喜びが、悲しみへと変わっていく。


 ついにリョウは、涼と同様に己に欠けていたものを完全に取り戻した。

 しかし、それが必ずしも幸せだけを呼び込むとは限らない。

 今まで欠けていた部分を補い合っていた曖昧な二つの存在が、それぞれに完璧な個を得たということは、裏を返せば、どちらか一つの存在で事足りてしまうということでもあった。

 二人の『神谷 涼』は、それぞれが一人の人間になりすぎてしまったのだ。

 互いの存在意義すら、打ち消しあってしまうほどに……


 このとき『神谷 涼』の肉体の司令塔である脳は、機械的にある選択をしていた。

 そしてその結果が、リョウだけに告げられていたのだ。

 治まるどころか、いまだに増していた痛みによって──お前はもう必要ないのだ、と。


 一つの肉体に二人の人間は必要ない。

 肉体にかかる余計な負荷を無くすための、片方の人格の消去という無慈悲な決断だった。

 リョウは、それに抗おうとは思わなかった。

 最期の最後に、得難きものを得ることができたのだ。

 俺の求めたものの『代償』としては十分だと、少年は心静かに運命を受け入れた。


 突拍子もない別れに、どうして、と泣きせがむ茜の手をリョウは困ったようにそっと剥がした。

「悪いな。どうしてと言われても、もうどうしようもないことなんだ」

「本当に……私たちは、もう……会えないの?」

 過去から失われかけていた二人の時間は、光の速度のように過ぎ去っていく。

「大丈夫だ。俺がいなくなってもお前にはアイツがいる」

 そう、自分が消えても『神谷 涼』という存在は在り続ける。

 きっともう一人の自分が、これからもうまくやってくれる。

 その様を見ることは叶わないが、これもまた少年が望んでいた結末の一つだ。


「さよならだ、茜……」

 にもかかわらず、なぜリョウは、こんなにも拳を握り締めていたのだろうか。

 消えることは、怖くない。

 因果応報だと馬鹿にされても悔しくない。

 なのになぜ、こんなにも心が痛いのだろうか。

 運命というシナリオは、ただ一つの終わりへと向かっている。

 もはや何を祈っても無駄なのに、望んでも空しいだけなのに、奇跡なんて起こるはずもないのに……


 ──俺はもっと、ここに居たい──


 少年は強く心に願ってしまった。

 奇跡を信じてしまった。

 そんな願いが受け入れるはずもなく、次第に視界は霞み、意識がぼやけていく。

 夢を見ることもなく、悠久の眠りに落ちていくような微睡の中で、ふとリョウは声を聞いた。


(──それが、君の願いなんだね)


 ハッとして、目を開けてみれば、そこにはもう一人の自分の姿。

 意識の狭間で二人の『神谷 涼』は対峙する。


「…………」

 何も言葉が出ないリョウに、涼が勝ち誇ったようにいたずらに笑いかけた。

「ふふ、どうやら『賭け』は、僕の勝ちみたいだね」

「……はっ、今さらそんな結果になんの意味もないだろ」

 勝敗がどっちに下ろうが結果は変わらない。

 涼が残り、リョウが消える。

 それが定められた道筋だと、気のないように自嘲するリョウの返答に涼はかぶりを振った。

「いいや、君は消えないよ」

 その言葉の真意をリョウは掴み切れなかった。

 だが、涼の含みをはらんだような微笑みに確かな不吉を感じた。


「何を、するつもりだ……?」

「僕なりに考えてみたけど、やっぱり残るべきは、君の方だ」

「っ…………」

 驚愕にリョウが狼狽する。

 脳裏に浮かんだ”もしや”を実行しようとしている涼をリョウは咎めた。

「馬鹿か、お前。俺の”身代わり”になろうとしてるなんて、正気の沙汰とは思えないぜ」

 そう、涼はリョウに代わって、自らの人格を抹消させようとしていた。

 涼が消えることを免れたのは、長いあいだ体を使って馴染んでいたから、程度の理由であり、二つが一つになるのであれば、肉体的にはどちらでも構わないのだ。


 これが『賭け』に勝った涼の命令だというのなら、リョウはそれに従わざるを得ない。

 ただの口約束にしても、あの『賭け』は二人が自分の人生を差し出す覚悟で行った決闘。

 その結果を反故にすることはプライドが許せない。

 だからといって、受け入れがたいのも事実。

 これが勝利者の行いだと、なぜ納得することができようか。


「違うよ。僕は、ただ戻すだけさ。本来なら君が持っていて然るべきだった普通の日常にね」

 何を持って普通というのかは人それぞれだろう。

 誰しもが息をするのと同じように、当たり前の様にやっていること。

 それをリョウは望んでいた。

 時に楽しみ、時に怒り、時に笑い、そして時に泣く。

 人らしく生きること。

 そしてそれは、自分では叶わないとあきらめた夢でもある。

 涼は、リョウから託されたその夢を突き返したのだ。


「僕の存在なんて、もともとはただのイレギュラーでしかない。今になって思えば、僕は君が逸れた筋道を戻すために生まれてきたんじゃないかとも思えてくるよ」

「……いいのかよ? お前がいなくなれば、本当の意味で俺を止められる奴はいなくなる」

「もうそんな心配なんてしてないよ。僕を止めてくれた君ならきっと、この先も力の使い道を誤ることはないだろうから」

 遠まわしに「やめろ」と必死で言い聞かせてくれるリョウの姿が、涼にはこの上なく嬉しかった。

 少し前までは、ただの『人形』だったもう一つの存在が、ここにきて信頼に足る『相棒』にまで変わっていたのだ。


 涼の決意は揺るぐ気配がない。

 涼を止めるには、もう力づくで抑えるしかないのだろう。

 行き場のない怒りを噛み殺し、リョウは今にも襲いかかりそうな体を抑えつける。

「認めねぇ……たとえ、それが勝利したお前の望みだったとしても、俺は認めねぇ。こんなことされて生きながらえたとしても、俺がみじめなだけだ」

 申し訳ないという気持ちもあったが、これがリョウの為だと考えた涼の優しさ。

 自分よりも他人を優先してしまうその根底だけはいつまでも変わらない。

 リョウは、それを一番よく知っている。

 その上で提案をした。


「……戻ってこい」

「え……?」

「このまま勝ち逃げなんて真似は許さねぇっつってんだよ。次は俺が勝つ。だから、いつか必ず戻ってこい。そのときまで、お前の帰る場所は俺が陣取っておいてやる」

 これは永遠の別れではない──させない。

 再開のある一時的な離別。

 それが条件だとばかりに一方的に涼へと約束を取りつけた。


「……ふ、ふふ……ははは!!」

「チッ、笑ってんじゃねぇよ」

「ごめん、ごめん」

 とは取り繕うものの、涼は笑いを噛み殺しきれない。

 あのリョウからそんなことを言われるなんて夢にも思っていない不意打ちだ。

 なんの準備もしていなかった心は喜びに満ち、目尻に涙が浮かぶほどだった。


 別れの時は刻一刻と迫る。

「これは命令なんかじゃなく、僕からのお願いだ。誰かれ構わず人助けしてくれなんて言わない。君の手の届く範囲だけでもいい。君にとって大切に思える人たちだけでもいい。そんな人たちがもし困っていたら、少しだけでも手を差し伸べてくれたら、僕は嬉しいよ。あと、お父さんたちのことも、ね」

「……ああ、約束してやるさ」

「本当に大丈夫かな?」

「はっ、その程度のことなら造作もねぇよ」

 リョウは強がりながらも高らかに宣言する。


 そして別れの時は来た。

「あれほどうっとうしく思っていたお前の存在だが、今はなんだ、その……少し寂しく感じる」

「ありがとう。僕も君でいることができてよかったよ」

「勘違いすんな。俺は俺、お前はお前だ。いい機会だから、昔に言った『俺はお前だ』ってのもこの場で撤回させてもらうぜ」

「そうだね。僕たちは僕たちだから、今こうして話すことができるんだろうね。そろそろ行かなくちゃ」

「……ああ」

 名残惜しそうにリョウはつぶやいた。


「俺はお前のことを忘れない……いつでも、好きなときに帰ってこい」

 そう言いながら差し出された左の手のひら。

 涼もその手に自分の右手を合わせ、

「うん、いつか必ず。じゃあ、またね」

 満ち足りた笑顔を浮かべたまま、光の粒子となるように静かに消えていく。

「……またな」

 孤独な空間を見上げながら、リョウは最後までその光を見送った。


 この晩、街は数年ぶりの大雪に見舞われた。

 きっと今年のクリスマスは、さぞ美しい銀世界に包まれた、幻想的なものになるだろう────

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