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それが俺たちだ (後)

 軽快な足音がこだまする廊下。

 それは、ひと仕事を終えた達成感に包まれながら、気分よく敵陣の中を我が家のように闊歩しているリョウの姿だった。

「なあ、急ごしらえの割には、よくできたと思わないか? さっきの舞台は」

(よくできたかどうかはともかく、手際は悪くなかったと思う。でも、あまりふざけてると逆に足元をすくわれるよ)

「はっ、せっかくの機会なんだ。お前ももっと今を楽しめよ」

 涼の注意すら意に介さず、リョウは鼻歌でも歌いそうな気持ちの浮かれようだ。


 今回の一連の騒動。

 それはリョウにしてみれば、過去の行いがあったとはいえ勝手に恨みを買われて引き起こったことに他ならない。

 たとえ学校の誰が襲われようが自分には無関係であり、正義の心に目覚めて悪事を裁くつもりなど毛頭なく、向かってくるならば蹴散らす程度の心持ちだった。

 それが相方の無謀な行動によって半ば巻き込まれる形で参戦する羽目になったわけだが、次第にリョウは状況をおもしろおかしく楽しみだしていた。


 思わぬ強敵との会偶。

 万全の状態でなかったとはいえ、まさかの苦戦を強いられ、窮地に立たされるなど予期せぬ事態が連続する中、リョウが何よりも予想していなかったのは、もう一人の自分との共闘だった。

 これに至っては、とっくの昔に諦めていたと言ってもいい。

 しかし紆余曲折はあったものの、もう一人の存在の理解と協力を得られた今、リョウにすればこの勝負、もはや負ける要素は何一つないものとなったのだ。

 そうなれば、さっさとこの場を片づけ、何事もなかったように家路についてもよかったのだが、今回のような荒事は、おそらく一生でもあるかないかの珍事。

 せっかくの機会なのだからと、とことん趣向を凝らし、とことん追い詰め、とことん満喫してやろうという興じるための戦いに変わりかけていた。

 その一環として実行したのが、先ほどのB級映画じみた演出だ。

 即興で考えた舞台ではあったが、本人的にはなかなか満足のいくものに仕上がったようである。


(油断大敵。まだ敵は半数以上いるんだ。相手の出方次第じゃ、今の僕たちでも危なくなる状況はいくらでも考えられる。楽観するには早すぎるよ)

「やれやれ、お堅いところは相変わらずか」

(一応、君の危なげな行動を律するのも僕の務めの範囲だと思ってるからね)

「ったく、口うるさいのまで顕在ときやがった」

(僕だって好きでこんなことを言ってるわけじゃないよ)

「どうだかな。お前とのコンビも今すぐ解消してやりたいところだが、あのすかした銀髪野郎をぶちのめすまでは辛抱してやるさ」

 遊び半分な気持ちではあったが、結果的にリョウの最終目的も涼とは相違ないようだった。

(お願いするよ。彼を止めないことにはこの騒動は収まりそうにないからね。だけどその前に……)

 ああ、と頷きリョウは立ち止まった。

「まずは────目障りなハエを叩き落さねぇとなっ!!」


 言い終わるよりも早く、リョウは片膝をついてしゃがみ込んだ。

 間を置かずして、背後から頭上を通り過ぎる銀の煌めき。

 一瞬の目視でリョウが確認したソレは、どこか見覚えのある一本のナイフだった。

 だとすれば、それが明確な殺意を持って放たれたものであることは疑いの余地がない。

 勢いをなくした刃が床に落ちる前にリョウは素早く振り返り、体制を立て直す。

 廊下の先には、夜の闇に同化するように全身を黒一色で覆った男の影が一つ。

 男はリョウと目が合っても沈黙を貫いたまま、懐から取り出した新たな刃を投げつけた。

 銀色の軌跡を一直線に残しながら、ナイフはリョウの額めがけて飛んでくる。

 黙然とリョウはその光景を眺めていた。

 身を守ろうとする動作も見せずにナイフの到来を待ち続け、そして────飛んできたナイフの柄を難なく掴み取った。


「…………」

 さすがの男も、今のリョウの行いに驚愕の色を滲ませた。

「おいおい、まさかもう万策尽きた、なんて言わないでくれよ」

 嘲るようにして言葉を投げるリョウ。

 無表情のまま棒立ちだった黒ずくめの男は、怒りをあらわにすると思いきや、白い歯を見せて不気味な笑いを漏らした。

「あ~あ、馬鹿だなお前。今ので死んどけば、楽に逝けたのに。そんな中途半端なことするから……あれ? 殺しちゃダメなんだっけ?」

 唐突にぼそぼそと饒舌な一人語りを始める男。

「でもそれって、生きてさえいれば何してもいいってことだよな? 頭だけでもいいって言ってたし……でも頭と体を切り離したら普通に考えて死ぬだろ。んだよ、魚みたいに腹かっさばいて刺身にしてやろうと思ったのに。あれ、でもここで生かしたって結局後で死ぬんだから意味ねぇじゃん、あっはっはっ!!」

 一向に口を止めない男にリョウはどうしたものかと頭を掻く。


「あぁ、ダメだ。あれ思い出したら、もう我慢できねぇ。少しくらい切ったって、人間そう簡単には死ねぇよなぁ」

 精神の異常性すら感じさせる男が語る内容は、耳を疑いたくなるようなものばかりだった。

「それにしても楽しかったなぁ、こないだの狩りは。お前と同じ服着た奴らを切りまくってさぁ、泣きながら、やめて、やめてって言う奴の手とか足にゆっくりナイフをぶっ刺してやるの。スゲー最高だったぜ」

 『神谷 涼』を探すため、涼と同じ学校の生徒たちが無差別に襲われたのはすでに周知の事実だが、その内容までは教師からも知らされてはいなかった。

 生徒が襲われて、怪我をして、病院に運ばれた、と簡潔に伝えられただけ。

 どのような痛みと恐怖を記憶に刻まれたかなど、リアルな情報は被害者とそれを与えた加害者にしかわかりえない。


「他にもさぁ、お前のこと知ってる風の奴がいたから、情報吐かせるためにいろんなとこ切り刻んでやったんだ。もう少し時間があれば、内蔵抉り出して────」

 命を奪われた者がいなかったことが、不幸中にして幸いだと周囲の大人たちは言うだろう。

 しかし身に覚えのない、とばっちりといっても過言ではない状況下で拾った命の代償はあまりにも大きく、最低最悪の記憶として被害者の心に刻まれてしまう。

 弱者にとっては、それが死の一瞬よりもつらい永遠にさえなりかねない。

 そんな辛さを身に染みて知っているからこそ、リョウは内から伝播する”彼”の蒸留された怒りを余すことなく認識していた。


「──はっ、やかましいんだよ、ドサンピンが」

 思い出に浸りながら恍惚に語る男の声にリョウの声が割って入った。

「聞いてもねぇことをペラペラと。よくもまあ、そんなに舌が回るもんだ。けど、そろそろ黙った方がいいな。お前がその汚ねぇ口を開けば開くほど、これからお前の味わう苦痛がデカくなるんだからなぁ」

「はぁ? 何言っちゃってんのお前。まさか、さっきのマグレで調子に乗ってる?」

 リョウの横やりに我に返った男は、気分を害したようにサングラスの下でリョウを睨みつけた。

「なんなら試してみるか? 本当にマグレだったのかどうか」

「チッ、余裕こいてられるのも今の内だぜ。こいつを見ても同じことが言えるか? ああっ!?」

 男が黒いジャケットを広げて見せると、その内側には数十本という無数のナイフが隠されていた。

「なんだ、そいつで曲芸でも見せてくれるのかい?」

「望みなら見せてやるよ。とっておきの人体解体ショーだ────しゃあっ!」


 男は即座に懐から抜き取ったナイフを両手に一本ずつ構え、投げつける。

 加えて、間髪入れずにもう一本、計三本のナイフがリョウへと襲いかかった。

 先ほどのようにナイフを掴み取っても、右と左で二本を防ぐのが限界。

 三本目を避ける動作を見せれば、その隙に四本、五本と新たな投擲を続けるだけ。

 男のとった戦法は相手の命を顧みることなどしない、物量でのゴリ押しだ。


「ふん──」

 襲い来る死の投擲を鼻で笑い、リョウは左手で遊ばせていたナイフの柄をギュッと握りしめた。

 一直線に虚空を走る切っ先を前にしても、リョウは一糸も取り乱すことなく、目にも止まらぬ速さで左肩から先を動かした。

 一振り、二振り、三振り。

 続けざまに三度、金属を弾く音が響き、三本のナイフが向きを変え、あらぬ方向へと飛び散っていく。

 リョウは掴むでも避けるでもなく、構えたナイフでもって、三本すべてのナイフを打ち払ってみせた。


「…………」

 芸達者と呼ぶには、あまりにも人間離れした芸当。

 泰然とした態度でたたずむ男だが、それは現実に起きた出来事にまだ認識が追いついていないだけだった。

「そういやテメェには、借りがあったな。ついでだ、借りは利子つけてきっちり返してやるぜ」

 路上での一戦に水を差されたことを思い出したように宣言すると、リョウはにんまりとした薄笑いを浮かべ、切っ先を男へと向けた。

「ッ……ほざきやがれっ!!」

 驚愕よりも怒りが先に立ったらしい男は、沸き立つ怒気と強まる殺意に後押されるままに、懐から新たに取り出したナイフをリョウ目がけて投げ放った。

 獣のように呼吸を荒げながら、上着の内に備えられたナイフを次々と取り出し、ずさんな投擲を繰り返す。


 そんな男の一挙手一投足をリョウはすべて『視て』いた。

 振りかぶった腕、ナイフを手放す角度、踏み出す足。

 得られた情報から導き出された解と卓越した身体能力が合わされば、時速百キロにも満たないナイフを弾くことなど今のリョウには造作もなかった。

 視覚にさえ収めてしまえば、銃弾を躱すことも可能となるかもしれない。


 幾たびも鳴り響く刃と刃のこすれ弾ける音。

 延々と浴びせられるナイフの雨のうち、リョウは体に刺さる軌道上のものだけを的確に弾き飛ばしていた。

 そしてついに無傷のまま最後の一本まで押し寄せるナイフを打ち弾いたリョウに、ナイフを投げつけながらもじわじわと距離を詰めていた男が直接襲いかかる。

 投げナイフが意味をなさぬとみるや、右手に持ったナイフで直接リョウを切りつけにかかったのだ。

「死ねぇえええっ!!」

 男の振り下ろしたナイフは、リョウが無造作に振り上げたナイフとぶつかった衝撃で宙を舞った。


「う……あう……」

 得物を失った男は必死に懐をまさぐり、次なる武器を取り出そうとするが、すでに備蓄は尽きていた。

「おやおや、もう弾切れか。で、次は何を見せてくれるんだ?」

 左手に持つナイフを見せつけるようにリョウは一歩、男へと近づく。

 足元に転がる武器を拾う、などという隙をリョウが与えてくれるわけもなく、男はどうすることもできずに後ずさった。

 絶体絶命の状況の中、男が最後にとった行動は、

「──ひ、ひぁあっ!!」

 逃走。

 リョウに背を向け、一目散にこの場を逃げ去ろうと走り出した。


 離れていく男の背中をリョウは追いかけようとはしない。

 だからといって、男を逃がすつもりもなかったが。

 リョウは、ナイフを持つ左手を大きく引いた体制をとると、

「──忘れもんだぜ。逃げるのなら、こいつも持っていきなっ!」

 下手投げの要領で、勢いよくナイフを投げつけた。

 低空を滑るようにして走ったナイフは、逃げる男のふくらはぎに狙い澄ましたように突き刺さる。

 ナイフの刺さった痛みと驚きで転び、腰をぬかした男にリョウは悠然と歩み寄った。


「どんな気分だ、刃物が体に刺さるってのは? 痛いのか? それとも熱いって感じるのか?」

「ひ……ひいぃい……」

「まあ、どっちでもいい。お前には、これからもっと痛い思いをしてもらうんだからな。一生忘れられない思い出にしてやるぜ。くく……」

 リョウの表情を見上げる男の顔は恐怖に色濃く染まり、歯をガチガチと震わせていた。

「お前の大好きなナイフで切り刻んでやってもいいんだが、悪いな、あいにく得物を使うのは俺の趣味じゃねぇ。なんたって”こいつ”の方が、より直に感触を愉しめるからなぁ!」

 拳を握り、力を込める。

「俺は雑把な性格だからよ。解体なんてみみっちいモンは性に合わねぇんだ。だから──もっと大胆に破壊といかせてもらうぜっ!!」


 こうしてまた新たな脱落者が追加される。

 ひととおりの”破壊作業”を終え、拳に付着した血を舌の先で舐め取ると彼らはまた、次の標的を探すためにその場を後にしたのだった。


──残り七人。




 木製の愛刀を携えながら、男は室の戸を開けた。

「見~つけた」

 建付けの悪くなった古びた戸の奥では、窓から入る外光に照らされながら立つ少女が一人。

 少女は、お嬢様のような儚げな雰囲気と男を威嚇するように見据える凛々しさを兼ね備えていた。

「誰かと思ったら、このあいだの女か」

 見覚えのある顔に男は嬉しそうに顔をほころばせる。

「こんなところまで何しに来たんだ? あのカミヤとかいう糞ガキを助けにでも来たのか、あぁん?」

「……あなたに教えることなんて何一つありません」

 少女は泰然とした態度で答え、傍らに立てかけられていた、どこぞから拾ってきた鉄筋に手をかけた。

「あ? なんの真似だよ、それ?」

 訝しみながら、少女の持つ鉄筋を見つめる男。

 少女は鉄筋の端を両手持ちで握り、体の正面へと構える。

 それは以前、この男がリョウとの戦いで見せた構えと全く同じであった。


「はーん、なかなか様になってんじゃん。もしかしてお前、ケンドーとかやってたクチ?」

 彼女が見せたのは、正眼の構えと呼ばれるもの。

 剣の道を少しでもかじっている者ならば誰もが知っている基本の構えだ。

 この男は言わずもがな、それに相対する少女『津山 美咲』にも武道に対する心得があったのだ。

 幼き頃から美咲が外の世界を必要に怖がる症状に悩まされていたときに、護身の一環として苦し紛れに学んだ技術。

 美咲にとっては苦い記憶だが、彼女自身それがこんな形で役に立つとは夢にも思わなかっただろう。

 なぜなら、こうして男の気を引くために十分に機能していたのだから。


「ムリムリ。お嬢ちゃん如きが、俺に敵うわけねぇだろ。そんなことより連れの居場所を吐きな。そうすりゃ俺が、そんな棒切れで遊ぶよりもっと楽しいこと教えてやるよ。どうせ男とヤッたこともねぇんだろ?」

 もはや相手にすらならないと男は木刀を構えることもせずに、美咲に下卑た言葉を投げかける。

「そんな不埒な心持では、私に勝てませんよ」

 それでもなお、美咲の心は揺るがなかった。

「ケッ、まあ、そんなにヤリてぇってのなら相手になってやってもいいけどよ。俺にひれ伏した姿でってのもいいシチュだ」

 すべては男の意識をその身に釘付けにするためだ。


 男の背後に忍び寄る影。

 足音を消し、息を殺し、恭太郎はその隙をずっとうかがっていた。

 正面からでは勝てないと踏んでの闇討ち。

 今の恭太郎たちには、卑怯だのなんだのと手を選んでいられる余裕はなかった。

「そういや、さっき逃げろって叫んでたのは男の声だったよなぁ? まさか、この部屋のどっかに隠れてんのか────例えば俺の後ろとかよ」


 バクッ、と美咲の鼓動が一度、高鳴った。

 ただのハッタリか、それとも……

 内心の動揺を隠し、体裁を繕い続ける美咲。

 決して恭太郎の方に目を向けることはしなかった。

 己の役に徹し、恭太郎の成功を信じ続ける。

 しかし男は、すべてを見抜いていた。

 彼女たちの必死さをあざ笑うかのように。

 仮にも手練れとして集められた男。

 頭に血が上りやすいのが欠点ではあったが、こうして余裕を振りまいているときの彼はなかなかにしたたかだ。


 恭太郎が急いで振り下ろした鉄筋を男は木刀で難なく受け止め、そのまま壁際まで押し返した。

「ぐ、ぬぬっ」

 恭太郎が押し返そうとしても男はビクともしない。

「俺が生きて連れて来いって言われたのは、あの憎たらしい糞ガキだけだ。それ以外は何も言われてねぇ。あの嬢ちゃんは俺がいただく。メガネ、お前はここで死ね」

 卑しい目で男はつぶやいた。

 死ねと言われて死ねるもんか、と恭太郎は必死の形相で歯を食いしばり、押しつぶされまいと全身で押し返す。

 そんな恭太郎の目にふと映ったのは、男の下卑た顔ではなく、その背後に立つ美咲の固く結ばれた表情だった。

 あのいつも笑顔を絶やすことのなかった美咲が初めて見せた武人のような頼もしい顔つき。

 矛先を向けられた男は背中越しに美咲の刺すような闘志に気づき、恭太郎を壁に押しつけるのをやめた。

 代わりに横薙ぎに木刀を払い、軽く恭太郎を室中に散らばっていた残骸の中へと吹き飛ばす。


「やめろよ。そんな顔されたら、女だろうがなぶり殺したくなっちまうだろうがよ」

 興奮に上気する体と気分を抑えるように男は美咲を見咎める。

 なおも変わらぬ美咲の表情に男の中で彼女に対する認識が改まった。

 この女は敵であると────

「──逃げろ津山!」

 立ち上がれぬ恭太郎の叫び。

「逃がさねーよっ」

 木刀を構え、踏み込む男。

 彼らの声は、今の美咲には届いていなかった。

 それほどに美咲の心は明鏡止水の如く澄んでいた。


 男の動きに合わせたように踏み出された美咲の足。

 振り下ろされた直後の木刀を柳の枝のようにしなやかに鉄筋で受け流し、一切の無駄のない剣捌きでもって、男の右手に鉄筋を振り下ろした。

 炸裂したのは、後手必殺の見事な小手打ち。

 今回は小手ではなく皮手袋の上からだが、その程度の厚さならば、鉄筋の威力は十分に男の手に痛みとなって届いているはず。

 しかし、男はまるで平然とした様子だった。

 男の手から木刀を叩き落とすのが美咲の狙いではあったが、鉄筋を伝播するしびれるような衝撃が、この一手が悪手であったことを示していた。

 人の体とは思えない、明らかに固いものを叩いたときの手のしびれ。

 何を予想していたのか、男は仕込んでいたのだ。

 皮手袋の下に鉄板のような金属の板を。


「なんだ、意外とできる嬢ちゃんじゃねぇか。けど、ぬるいぬるい」

 これが剣道というルールの上でなら美咲の一本が決まっていたのかもしれないが、これはルール無用の戦争。

 最初で最後のチャンスに急所を狙えない美咲の甘さと優しさが、悲運にも彼女のわずかな勝利の可能性を握りつぶしてしまった。

 男は美咲の力を侮っていた。

 その慢心をつくことが美咲が勝利を得るための唯一の方法であったが、今の手腕を見せられては、男の慢心も消え失せてしまっただろう。

 このようなチャンスはもう二度と訪れない。


「どれ、いっちょこの俺が稽古をつけてやるよ──おらぁ!」

 男の豪快な一太刀を美咲はかろうじて鉄筋で受け止めた。

 が、体重も筋力も、力という面ですべてが劣る美咲では、簡単に体ごと弾き飛ばされてしまう。

「ケッ、やっぱ女とヤリあってもつまらねーな。どうだ? 今ならまだその顔に傷をつけるのは勘弁してやるぜ」

「…………」

「色気振りまきながら俺にお願いしてみろよ。助けてくださいってよぉ」

「……あなたなんかにそんな真似をするくらいなら、私は──死んだ方がマシです」

「言うねぇ。だったら泣き喚きながら──」

 ──逝っちまいな。

 と、口に出そうとした直後、男の肩に何かがぶつかったような衝撃があった。

 ぶらされた体を正しながらも、男は衝撃の飛んできた方向に顔を向けると、奥にあるもう一つの戸の前に見覚えのない女が立っていた。

 ショートヘアのいかにも気の強そうな、男の好みとは正反対の女。

 彼女は手にコンクリートの欠片を持っている。

 今の衝撃も、おそらくそれを投げつけられたのだろう。

 すでに次弾を投げつける準備も万全のようだった。


 そして男が初めて目にする彼女──『西崎 茜』の到来は、三人がこの窮地を脱するための準備が整ったことを意味していた。

「津山!」

「はい!」

 男が茜に気をとられていた隙に、二人の準備もまた整っていた。

 すでに男の懐へと踏み込んでいた美咲。

 美咲を迎撃するため、木刀を振り上げた男の腕に彼女を守らんとにじり寄っていた恭太郎が飛びかかる。

「やぁあああっ!」

 美咲はすかさず鉄筋を下から振り上げ、男に前回からなる鬱憤のすべてをぶつけた。

「こいつも、おまけだぜっ」

 鉄筋の一太刀に加え、恭太郎に渾身のグーパンもとい正拳を頬へ叩きつけられた男は、がっ、と息を吐いて床を転がった。


「二人とも急いで!!」

 この程度の攻撃で男を倒せないことは重々承知。

 美咲と恭太郎はすぐさま転がる男のもとを離れ、茜と共に奥の戸から廊下へと脱出し戸を閉めた。

 逆上した男もすぐに三人の後を追うが、いくら引いても戸は頑なに開かなかった。

 仕方なくもう一つの戸から出ようとしても、こちらも同じように開けない。

「畜生がぁ! ここから出しやがれっ!!」

 美咲と恭太郎が時間を稼いでいるあいだに、茜は一人で着々と別の準備をしていたのだ。

 そこら辺から運んできたガラクタを用いて、戸を外側から封じるための準備を。

 このまま逃げてもいずれは追いつかれると踏んだ三人は、束になっても敵わないことを承知で男を迎え撃つことにした。

 すべては男を倒すためでなく、この室に閉じ込めるため。

 運に助けられたところもあっただろうが、被害が恭太郎の軽傷にとどまったのは幸いといったところか。

 かくして恭太郎たちは、目論見どおり男から逃げ延びることに成功したのだった────




 恭太郎たちが男を閉じ込めてから五分ほどが経ったころだろうか……

 戸を内側から激しく殴打する音に誘われて、一人の少年がその場を訪れた。

 バキバキと軋む音を立て、壊れていく戸。

 レールからもはずれ、粉埃が立つ室内から男は無事に生還を果たした。

「糞がっ! あのガキどもぶっ殺してやる…………っ、てめぇは」

 そんな男の目に飛び込んできたのは、驚くことなかれ彼らが血眼になって探している『神谷 涼』本人だった。


「愉快な音が聞こえて来てやってみたが、どうやらハズレを引いちまったらしいな」

 大仰にガッカリとする様を見せつけながらリョウは言った。

「こんなところで一人遊びか? すいぶんと──」

「──構えろ、糞ガキ」

 リョウを見た瞬間、男は先の怒りを忘れたように静かな猛りを見せた。

 その有様はリョウにも意外だったようで、

「? よく聞こえなかったな。悪いがもう一度、頼む」

 ついつい聞き返してしまうほど。

「構えろ。あのときの決着をここでつけてやる」

「決着、ねぇ」

 呆れた風にうそぶくリョウ。

 そんなものは、つけるまでもないとでも言いたげだ。


「てめぇみてぇな糞ガキにこの俺が劣っているはずがねぇんだよ!」

 それは男のプライドの故か、または前回の雪辱を果たすためか、はたまた荒々しくも彼が歩んできた道を否定されたくはなかったのか……

 とにかく、男がリョウに向けた感情には並々なら迫力があった。

 純粋であるがゆえに黒く淀んだ負の感情を浴びせられ、リョウは嗤う。


「いいぜ、テメェには遊びはなしだ。実力の差ってやつをわからせてやるよ。来な」

「────ッ!!」

 恨めしいうめき声と共に、一つの影が床を蹴った。

 駆けるその姿は一般人から見れば、畏怖すべき獣にも見えただろう。

 しかし、そこで嗤う少年にとっては、下賤な犬畜生程度の存在でしかなかった。


 決着はひどくあっけのないものだった。

 鋭い牙のように振り下ろされた一閃を躱すと同時に、リョウは男の腕を肘打ちと膝蹴りで挟み潰して破壊する。

 遊びはなし、という言葉に嘘偽りはなく、続く拳に容赦はない。

 腹を穿ち、顎を跳ね上げ、上がった顔を地面に殴りつける。

 痛みに苦しむ暇もなく男の意識は刈り取られた。


 意識を失う直前に男は走馬灯のように思い出していた。

 前回の戦闘、リョウが男の渾身の刺突をためらうことなく掴み取っていた姿に魅せられ、恐怖した自分を……

 そしてその昔に、銀髪の男に完膚なきまでに叩きのめされ、従わされ、それ以降もう誰にも屈指はしないと誓った日の想いを……

 男が次に目覚めたとき、彼が自慢の木刀を手にすることはもう二度とはないだろう。

 男が体験し、見せつけられた現実は、

「──はっ、テメェごときが俺に敵うと思うのか?」

 その体以上に男の心を粉みじんに砕いてしまったのだから。


 また一人、また一人とリョウの毒牙にかかり、深い絶望の中に放り込まれていく。

 それを成すたびにリョウの精神は昂ぶり、大きな刺激の快感が押し寄せていた。

 しかし、何度その絶頂を味わおうが、リョウの心は一向に満たされることはなかった。

 何度うずく体を静めても、また衝動はやってくる。

 いつまで同じことを繰り返していればいいのか……

 その終わりの時が来るまで、リョウはずっとその力をふるい続けるだろう。


「おっと、次は団体さんのご到着か」

 気づけば、前に二人、後ろに二人。

 リョウを囲むように四つの人影が現れた。

 これもまた一癖も二癖もありそうな屈強な男衆。

「卑怯だとは言わせないぜ。こっちも手段を選んでいる場合じゃなさそうなんでな」

 一人や二人ならいざ知らず、四人同時とはいかがなものか。

「ああ、構わねぇよ」

 手足一本ずつで一人を相手にすればいいか、なんてふざけたことをリョウは考えてみる。

「この光景を前にしてもそんな生意気な口がきけるとは、狂ってるぜ、お前」

「はっ、狂って結構。どんな状況でも見苦しく足掻き、生き続けてきた────それが俺たちだ」


 見えない終わりに行き場のない焦燥を感じるようなことがあったとしても、リョウはすべてを黒につぶす。

 見果てぬ答えにたどり着いたとき、少年はいったいどんな結末を望むのだろうか────

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