君がいて、僕がいる (後)
男は、冷えきった床に手をつきながらゆっくりと立ち上がった。
「なんだ……今のは……?」
まるで狐にでもつままれたかのような気分。
だが、顔にはまだ拳の感触が残っている。
夢や幻ではない。
自分が殴り倒されたのは事実なのだと男は理解した。
幸いなことに殴られたダメージ事態は大したことなく、視界の揺れも治まっている。
戦闘の続行は十分に可能だ。
体の機能のチェックを終えたところで、男は疑問を覚えた。
なぜ、追撃をされなかったのかと。
絶好のチャンスを奴は逃したのだ。
少年は男の目の前で、ただ呆然と突っ立っているだけだった。
逃げることも隠れることもせず、男が立ち上がるのを待っていたかのように。
しかし、そうではない。
「ん? 起きたのか」
少年のその口ぶりは、男のことなどまるで眼中にない様子だった。
「悪いな。さっきの一撃は俺にも予想外でよ、起きてくれてよかった。あんな結末は俺も本望じゃないんでね」
少年はずいぶんと落ち着き払っていた。
先ほどの激情は微塵も見られない。
「続きを始める前に教えておいてやる。少々、事情が変わってな、ここからは二人でいかせてもらうぜ」
「二人だと?」
少年の言葉を聞き、男は周囲を警戒する。
何もしてこなかったのは仲間を呼ぶためか、と疑心が男を包んだ。
そんな男の様子を見て、少年は苦笑を漏らす。
「違う、違う。俺の言うもう一人ってのは、ここにいる」
男の勘違いを訂正し、少年は自分の頭を指さした。
「……頭がイカれちまうほど殴った記憶はないぜ」
つまらない冗談だと、まるで相手にする様子のない男。
辛辣な返答に少年はくすりと笑った。
「何が違うのかは、すぐにわかる。教えてやるよテメェの体でな」
瞬間、空気が重みを帯びて淀む。
それは構えを持たぬ少年が、臨戦態勢に入った証でもあった。
肌を刺すような緊張感の中。
「へっ、寝言は──」
雰囲気に急かされるように男は動いた。
「──寝て言いなっ!!」
吠えると同時に飛び出す。
問答無用、先手必勝の極意。
放った最速の左はしかし、少年の鼻先で止まった。
男が意図的に止めたわけではない。
単純に届かなかっただけだ。
──俺が距離を見誤った……?
いや、そんなわけがないと男は己の技量を疑わない。
浮かぶ疑問は、少年の足元に目を向けた瞬間に解消された。
ほんの半歩ほどだが、少年は身を退いていたのだ。
男は思わず息を呑んだ。
少年と拳の隙間は、わずか数センチ程度。
攻撃の間合いを正確に把握していたとしても、こんな真似ができるわけがない。
幾重の偶然が重なって起きた小さな奇跡だと思わずにはいられなかった。
「どうした、この程度で何を驚いている? だから言っただろ、さっきとは違うってよ」
図星を突かれ、男は色濃い動揺を表した。
そんな動揺をかき消すように、続けざまに第二射を放つ。
奇跡は二度も起こらない。
いや、起こさせまいと、悪夢を打ち破るような一撃。
だが、男は続けざまに悪夢を見る。
拳が打たれる直前に横に動いた少年が、放たれた男の腕を悠々と掴み取る様を。
「飛んでくる矢は正面じゃなく、横から掴む方が簡単、か。なるほどな」
一人で納得したようにつぶやき、にたりと少年は嗤う。
男の中に生まれた焦りは、次第に恐れへと変わり始めた。
恐れからか、掴まれた腕を男は引き戻せない。
反撃が来るはずだと身構えたが、少年に攻撃の気配はなかった。
むしろ逆。
あれほど苦しめられた男の左腕を少年はためらいもなく開放したのだ。
「次は、ちゃんと正面から掴んでやるよ」
「なん、だと……?」
何気ない遊び心は、男にとって最大の侮辱となる。
少年を見つめる男の体が、わなわなと震えだした。
「さっさと来いよ。それとも今のでブルっちまったか?」
この言動に男のプライドはいたく傷つけられた。
「ッ──舐めるなぁあ!」
感じていた恐れをかき消すほどの憤怒。
修羅の猛撃が少年に迫る。
だが、空を裂く拳の雨を悠々と潜り抜け、少年は男の背後へと回り込んだ。
「逃がすかぁ!」
声が轟く──振り向き、踏み込み、拳を穿つ。
獲物を逃がすまいとする男の機敏な動き。
しかし、その光景はすでに──
(肩口から最短距離をまっすぐ打ち抜く拳。確かに厄介極まりないけど、予測は十分に可能だ)
──『神谷 涼』には、視えていた。
全身全霊の拳はいとも容易く、少年の手に捕えられた。
愕然とする間もなく、男の腹部に小さな拳がめり込む。
「ここなら、いくら捻っても避けられないだろ?」
腹から背中を突き抜けるような衝撃に男がうめき声を上げて苦しむ。
が、倒れない。
ズタボロにされたプライドではあるが、男を支えるにはまだ事足りた。
すぐさま距離を取り直し、体制を立て直す。
「はっ、さすがは経験豊富。殴られることにも慣れてるってか」
このままでは確実に負ける。
そんな直感が、男の頭を急速に冷却させた。
そして、認めた。
ただ本能のままに戦っていた小さな獣が自分たちを脅かすやもしれぬ存在にまで昇華したことを。
一度、深呼吸をし、乱れた心を落ち着けると男は少年を観察するように凝視した。
少年と拳を交えれば交えるほど男は底知れぬ違和感を感じずにはいられない。
飢えた獣のような戦い方から一転して、大胆さを残しつつも冷静さを兼ね備えた少年の戦い方。
これが少年の本来のスタイルだと言われても男はにわかには信じないだろう。
体に染みついた習性は一朝一夕で抜けるものではない。
本能のままに戦う獣の動きは、何よりも馴染んでいるように思えた。
そう考えるともはや、あれは先ほどまでの少年とは別物という結論に至る。
ありえないことだと思いながらも、今の男ではそう言う以外に説明のしようがなかった。
”ここからは二人でいかせてもらう”
この言葉の真意を理解できぬ男では、これ以上の答えを導くことができない。
もはや考えても無駄だと、吹っ切れたように男は最後の攻防に臨む。
しかし男の推測はおおむね的を得ていた。
『神谷 涼』には二つの人格が存在する。
今、表に出て戦っているのはリョウだ。
ここに来てから男と何度も拳を交わした少年。
それは間違いない。
違っていたのは中身の方。
よってリョウの動きが先ほどまでと違うのも至極当然のことだった。
なにせ、今のリョウは自分で考えてなどいないのだから────
運動と思考の分担。
それが今の『神谷 涼』の強さ。
『神谷 涼』の体に宿る二つの人格。
理知的な涼と野性的なリョウ。
それぞれがそれぞれにしかない”対極”の力を持っていた。
ゆえに、彼らの長所は短所となり、彼らの短所は長所となる。
知識があってもできる技術がない。
技術があっても生かす知識がない。
それでは宝の持ち腐れ。
知識と技術は二つ揃って初めて強大な力となるのだ。
だから役割を二人で分け合った。
己の短所を、もう一人の長所へと置き換えるために。
依然として衰えを知らぬ男の拳撃。
しかし、腕の長さと踏み込みの歩幅から涼はすでに男の攻撃半径を算出していた。
同じような攻撃では、もはや今のリョウには一生かかっても当たらないだろう。
自分の攻撃が見切られていることは、男は百も承知だったが、やすやすと敗北を喫するつもりはなかった。
直線の軌道が読まれているのならば、上下の軌道に切り替えるまで。
まともに打たれたであろう経験もなく、目も慣れていない初見の拳。
情報になければ、予想することはできないと男は考える。
拳でリョウの逃げ道を塞ぎ、誘導する。
そして男は次の一撃の為に腰の横に拳を据えた。
チャンスは一瞬。
絶好のタイミングを逃さずに、溜めに溜めた拳を突き上げた────
攻撃を避ける間も、リョウは常に五感を研ぎ澄ませていた。
リョウが目で視て、耳で聴き、肌で感じた情報は、涼によって逐一分析される。
体は熱く、頭は冷ややかに。
リョウが集め、涼が作り、リョウが動き、涼が直す。
集めた情報から、理論を組み立て、実行に移し、誤差を修正する。
正確な情報によって得た結果は予想を超えた予測となり、男の行動をすべて見透かすまでに至る。
下から突き上げられる男の拳に足を掛け、リョウは宙を一回転した。
着地と同時に地面を蹴り、男との距離を一瞬でゼロに。
男はアッパーを打ち終えた直後。
次のリョウの攻撃を防ぐことはできない。
歯を食いしばり、男はリョウの攻撃に備える。
直後、必中不可避の乱撃が男に降りかかった。
嵐のような暴打。
その一撃一撃は、鍛え上げた男の強靭な肉体に亀裂を入れ、破壊していく。
逃げることも、倒れることも許されない。
男から飛び散る赤がリョウの顔を汚した。
(──そこまでだ)
停止の声にリョウはピタリと攻撃の手を止めた。
同時にすでに意識を断たれていた男は、ぐしゃりと地面に倒れ伏したのだった。
男を見下ろし、リョウは息をつく。
「ふん、手こずらせてくれやがって。だがまあ滅多に味わえないスリルだった。テメェにその気があるのなら、また相手をしてやるよ。その気が残っていたらなぁ」
苦戦という初めての経験。
結果は勝利に収めたものの、納得のしがたい過程。
そんな経緯があったにもかかわらず、リョウは妙な充足感に満たされていた。
「さて、これからどうするか。まさか逃げるなんて言わねぇだろ?」
(そうだね。最初はその予定だったけど、彼らがこの惨状を見たら、警戒して逆に行方をくらませてしまうかもしれない。余計な猶予を与えず、彼らを無力化してしまおう」
「そうこなくちゃな。しかし、後続が来ねぇな。こっちはまだまだ暴れ足りねぇってのによ」
(たぶん待っているんだよ。僕たちがこの人たちに連行されるのを。それほど彼らは信用されていたんだと思う)
「なるほど」
確かに信用を与えられるだけの実力はあったとリョウはうなずいた。
(けど、そろそろ敵も動くはずだ。偵察の一人や二人くらいは派遣されてもおかしくはない時間だしね)
「偵察か……ちょうどいい」
薄い笑みを浮かべるリョウの頬を窓から吹き込む風がそっと撫でた────
「……遅いね。いくらなんでも手間取りすぎだ」
大の男たちが集まる室の中で、銀髪の男がふとつぶやいた。
つぶやきの声は、室中の視線をその身に集める。
涼がこの室を逃げ出してから、すでに十五分ほどが経過。
銀色の髪をいじりながら虚空を見つめる男は嫌な予感を消し切れずに立ち上がる。
「誰か様子を見てこい」
トップの指令に男たちのあいだで誰が行くのかと視線の討論が始まった。
「俺が行く」
すぐに一人が名乗りを上げる。
「状況がわかったらすぐに連絡をよこせ」
わかった、とうなずき、名乗りを上げた男は室を出ていった。
それを見届け、男はタバコに火を灯す。
ふぅ、と口から紫煙を吐き出すと銀色の髪をなびかせながら再び腰を下ろした。
数分後、偵察に出た仲間からの連絡が届いた。
鳴り響く携帯を取り出し、銀髪の男は咥えていたタバコを離す。
「もしもし、俺だ。そっちの様子はどうなってる?」
『…………もし…………けて……』
電話の向こうは何やら忙しい様子だった。
ガサガサと這いずるような音も聞こえ、相手の声がよく聞こえなかった。
「なんだって?」
聞き取りづらい、と言いかけたとき異変は起きた。
『──た……だずげでぐれぇぇぇえッ!!』
叫び声は、電話越しの異常をこれでもかと知らしめた。
「ッ──どうした、何があった!?」
尋常ならざる事態に銀髪の男も思わず声を荒げる。
携帯が地面に落ちたであろう音がすると、偵察に出た男の声は聞こえなくなった。
通話は、まだ途切れてはいない。
耳を澄ましてみれば、電話越しには一人の足音。
電話を拾いなおした足音の主が、銀髪の男に喋りかけてきた。
『くく……ごきげんはいかがだ?』
「キミは……」
聞き覚えのある声に、指に挟んだタバコが落ちる。
「……他の奴らはどうしてるのかな?」
『ああ、あんたのお仲間なら三人とも寝てるぜ』
男の悪い予感が的中してしまった。
思わず手に力が入り、ミシッ、と携帯が軋みを上げる。
「やってくれたねぇ──カミヤ君。いったいどんな方法を使ったんだい?」
『わざわざ語るまでもねぇな。すぐにテメェも同じ、いやそれ以上の目に遭うんだからよ』
「まさか、俺に勝てると本気で思ってるのかい?」
『本気も何も、こっちはハナからそのつもりだ』
「…………」
自信に満ちた声と傲慢な態度は、男が知った涼の印象とは大きくかけ離れていた。
聞こえる声は同じでも、それ以外はまるで別人。
正義感があり、良い子ぶったことを言っていた面影はない。
まるで悪魔にでも魂を売りとばしたような邪悪さを電話越しでもうかがわせる。
「どうやら俺はキミのことを見誤っていたようだねぇ。これは少し反省が必要かな」
『はっ、今ごろ気づいても遅ぇよ。テメェらはもう地獄の入り口に片足を突っ込んだも同然。誰一人として、ここから逃がさねぇぜ。くく、残りは十人……せいぜい首を洗って待ってな』
「……ああ、楽しみにしているよ」
そして、二人を繋いでいた電話が切れた。
「ふふ、ふふふっ……勘違いはいけないなぁ。逃げられないのはキミの方だぜ、カミヤ君」
ひどく醜悪な笑みを浮かべながら男はつぶやく。
「思い知らせてやるよ、この俺に楯突くことがどういうことか。キミの命を代償にねぇ……!」
少年の罪はただ一つ。
「あのガキを捕えろ! 生きて俺の前に連れて来れば、頭だけだろうがなんだっていい!!」
それは、この男に刃向ったこと。
ただ、それだけだ────




