僕の過ち (前)
月曜日の朝。
まだ誰もいない教室の窓際の席で、僕は虚ろに外に広がる景色を眺めていた。
今日の空はどんよりとした重い雲に覆われている。
どこか不吉を思わせる空模様。
こんな天気の日は、こちらの気分まで重くなってしまいそうだ。
昨夜、叔父さんたちから両親の話を聞いた僕は、ほどなくして学生寮へと戻った。
それは、また君が取り乱して、叔父さんたちに手を上げることを僕が危惧したから。
だから僕は、昨晩のあいだずっと、君に体を奪われまいと警戒を続けていた。
けれども君は、僕から体を奪おうとするどころか、今の今まで内から一歩たりとも外へ出ようとはしなかった。
君がどんな思いでいるのか、いまだに僕は理解が及んでいない。
でも昨晩、”夢”というひどくあやふやで深いまどろみの中、僕は見た。
一人の少年が自分の在り方に苦悩し、葛藤し、苛まれ、絶望する……
そんな悲しい出来事の一端を。
うつろいゆく時間の流れの中で何一つ変わらなかったもの。
決して吐露することはないであろう、君自身の抱えているものを。
君の時間は、そのときからずっと止まったままなのだろう。
十分、十五分と時が経つ頃には、登校する生徒の姿も窓の外に多く見えてきた。
この教室にもちらほらと生徒が集まりだす。
「あら、珍しく今日は早いのね」
「珍しく早いと言うより、先週が珍しく遅かっただけじゃないですかね」
今日も二人仲良く教室に入ってきた茜と津山さんが、僕の姿を見るなり開口一番にそう言った。
「おはよう、二人とも」
僕の方から挨拶をすると、二人はきょとんとしたように固まる。
「どうかした?」
「いえ、なんと言うか、今日は神谷君の方から挨拶をしてきてくれたことに驚いただけです。先週は私の挨拶を無視されたというのに……」
「それは……ごめんね」
気にしてないようで、津山さんは意外と根に持つタイプのようだ。
「あっ、お返事がまだでしたね。おはようございます、神谷君。反抗期はもう終わったんですか?」
「反抗期って……あはは……」
なんと返答したものか。
とりあえず、この場は苦笑いで誤魔化しておく。
「茜?」
さっきからおとなしいと思ったら茜はやけに神妙な面持ちで、僕の顔を見ていた。
「あ、ごめん。なんでもないわ。おはよ」
僕が声をかけると茜は我に返ったようにいつもの態度を取り戻す。
もしかしたら、茜は僕たちが入れ替わったことについて何か不審に思っているのかもしれない。
僕たち二人のことを知っているだけに、余計な心配をかけてしまっているのではないだろうか。
いや、余計なことを勘ぐるのは僕の悪い癖。
僕にできるのは、今までの様に僕が僕らしくいることなのだ。
「そういえば神谷君。先週に話した小説のことですけど……」
「あ、うん」
しばらくのあいだ僕は二人と他愛のない雑談で時間を潰すことにした。
ホームルームの始まる五分前に差し迫ったころ、
「よっしゃ! 今日は余裕で間に合ったぜ」
そんな喜びを口にしながら、恭太郎が教室へと駆け込んできた。
「どこが余裕よ。相変わらず遅刻ギリギリなんだから」
「へん、それを俺に言うか? いるだろ俺よりも遅い奴がよ……ってなにぃ!? 涼が俺より早く来ている!! 今日は雪か?」
「いや、今の時期に雪が降ったって別におかしくないよ」
一応ツッコミを入れておいたが、そんなことはさておき、少し早く登校しただけでこの騒ぎよう。
いったい僕は先週だけでどんな印象を持たれているのだろうか?
「おはよう、恭太郎」
「お、おう」
僕からの挨拶にちょっと驚いたような微妙なリアクションをとる恭太郎。
カバンを自分の机に置くと、恭太郎は僕の席へとやってきた。
「涼、先に謝っておく。ごめん」
「え? 何が?」
いきなり理由のわからない恭太郎の態度に僕が戸惑った瞬間。
「──隙あり!!」
「いたっ!」
何事か、僕の脳天に恭太郎が豪快にチョップをかます。
そして僕が文句を言う間もなく、恭太郎は一目散に僕から離れていった。
「いたた……いきなり何するのさ」
「怒らない……ってことはやっぱり元の涼に戻ったのか?」
どうやら恭太郎は先週とは様子の違う僕を試したらしい。
「別に怒ってないけど、いきなりこれはないよ。もう」
「そこまで必死に逃げる必要もないと思いますけど」
「いやいや、もしかしたら殴り返されると思って」
「それはそれで、菅君の自業自得では……」
教室の端から端という奇妙な距離での会話が繰り広げられる。
「何もしないから、こっちに戻ってきなよ」
「本当か?」
「本当だよ」
まさか一週間程度でここまでみんなの反応が変わってしまうとは……
これは今日一日は大変そうだった。
「何はともあれ、神谷君の反抗期は終わったみたいですね」
「そんなに先週と違ってるかな? 別に反抗期とかそういうわけじゃなかったんだけど」
「じゃあ先週のあれはなんだったんだ? 遅れてきた中二病か?」
「それは……うーん」
返答に窮する。
なんだかんだで適当に誤魔化せると思っていたけれど君は相当、恭太郎たちに強烈な印象を与えていたようだ。
僕が慣れてしまっているだけで、これが一般的なリアクションなのかもしれない。
「あれは、その……ほら! 僕っていつもなよなよしてるでしょ? だからちょっと、男らしく気分を変えてみようと思って」
絞り出した言い訳も自分で言っていて苦しいと思えるほどにひどいものだった。
「気持ち一つであそこまで自分を変えられるなんて、神谷君は演技派ですね」
「あ、ありがとう」
あれ意外とありだったのか?
いや、もうこれでどうにか押し切るしかない。
「気分どころか、性格変わってたぞ」
こういうときに限って鋭い恭太郎の指摘。
やっぱり駄目か……
「はいはい。そろそろホームルーム始まるわよ。何はともあれ、いつもの涼に戻ったのならいいじゃない」
パンパンと手を叩いてからそう言う茜は、僕の困惑を察してくれたのか、話題を断ち切る助け舟を出してくれた。
「まっ、それもそっか」
「ですね。でも、あれはあれでカッコ良かったと思いますよ」
「たしかに。一匹狼って感じで、今より男らしさはあったな」
「…………」
なんだか、素直に喜べない複雑な心境になった。
ホームルームの時間になり、先生が教室に入ってきた。
しかし、今日の先生の表情も今の空と同じくらいに暗いように思える。
先生は教卓につくなり、いつもの挨拶を省略して、重そうな口を開いた。
「今日の一限目は授業を中止して、緊急で全校集会が開かれることになった。みんな速やかに体育館に移動するように」
簡潔にそれだけを伝えられると、僕たちはすぐに体育館へと移動させられた。
体育館に全校生徒が集められ、臨時の集会が開かれる。
厳かな雰囲気の中で行われた集会の内容は、穏やかな話などではなく、やはりというか先週から問題になっていた、この学校の生徒が襲われた事件に関することだった。
運よく難を逃れた僕たちとは違い、金曜の放課後から土日の三日間にかけて、注意されていたにもかかわらず夜遊びをしていた生徒、また部活帰りの生徒などが襲われ、新たに入院を必要とする被害者が出たとのことだ。
当初は偶然に生徒が襲われただけと思われていたために”通り魔”と呼称されていたが、立て続けにこの学校の生徒だけが襲われたことによって、すでに”暴行犯”と呼び名が変えられていた。
だが学校側もいつまでも手をこまねいているわけではない。
先週の僕たちの情報が生きたのだろう。
暴行犯たちが複数人の集団であり、特徴としてマスクやメット、サングラスなどで素顔を隠しているという情報が全校生徒に伝えられた。
そして少しでも危険を感じたら他人の家でも逃げ込めなど、これ以上被害者を増やさないための対応や注意点、警察や教師たちによる地域の巡回、安全の強化などがこと細かに説明され、生徒たちの未知の恐怖を和らげ、自分の身を守るために危機感を高めさせていく。
しかしそれでも、犯人が捕まる日まで、ここにいる誰ひとりとして、この恐怖と不安から逃れられる人間はいないだろう。
そしてこの負の連鎖は、まだ終わることはなかった。
体育館で説明を受けた僕たちが、教室に戻ってから先生から伝えられた事実。
今日のうちのクラスの欠席者は二人だった。
初めはただの思い過ごしであってほしかったが、この二人もまた、暴行犯の被害に遭い病院へと運ばれていたのだ。
それを聞き、教室内がサーッと静まり返る。
みんな、クラスの近しい存在が被害に遭ったことで、もはや他人事として見ることができなくなってしまったのだろう。
あまりの恐怖に顔を青ざめさせる人もいるほどだ。
もしかしたら次は自分が被害者になるのかもしれないと思えば、もはや生きた心地がしないのかもしれない。
「しばらくのあいだは部活動も禁止だ。これ以上の被害者を出さない為に、みんなの一人一人が自覚を持って行動をするように。先生から言えることは以上だ。あと、神谷」
「は、はい」
最後に先生が、僕を名指す。
「昼休みになったら職員室に来なさい」
「わかりました」
思い当たる節のない呼び出しに「?」を浮かべながら、僕は返事を返した。
そして殺人現場にでも放り込まれたような暗く、重苦しい雰囲気に包まれたまま、僕たちは身が入らない授業を受け続けたのだった。
昼休み。
先ほど先生に言われたとおり、僕はすぐに職員室へと足を運んだ。
「失礼します」
職員室に入り、先生を探す。
「おお、こっちだこっち」
手を挙げて僕を呼ぶ先生のもとへ歩いていく。
職員室では、昼休みだというのにも関わらず先生たちが何やらバタバタと忙しそうに動き回っていた。
ここ数日で学校の生徒が多くの被害に遭っているだけあって、様々な対応に追われているようだ。
「学校側も大変みたいですね」
「ああ。保護者の方への説明、マスコミの対応……仕事は山済みだよ」
心労が祟っているのだろうか、先生の顔にも疲労の色が見えた。
「それで先生、僕に用っていうのはなんですか?」
「そのことなんだが……」
先生は何か言いづらそうに語尾を弱めて、自分の頬をかいた。
「昨日、最初に襲われた生徒の意識が回復したんだ。それで話を聞いたところ、その生徒は犯人から暴行を受ける前にこんなことを聞かれたそうだ。”カミヤ リョウを知らないか?”とな」
意識が凍った。
そう思えるほどに、今の事実は僕に衝撃を与えた。
「それは、僕のこと……なんですか?」
人違いであってほしいと、僕は先生に尋ね返す。
「いちおう調べてみたところ、この学校の関係者で『カミヤ リョウ』という名前はお前しかいなかった。神谷の真面目さは先生たちもよく知っている。お前がおかしなことに手を染めるような生徒じゃないということもな。だからこれは、神谷を疑っているからじゃない、神谷を信じているから聞くんだぞ。……神谷、今回の件についてなにか心当たりはないか?」
先生は僕の目を真っ直ぐに見据え、そう問いただす。
僕は、まだ動揺が抑えられず冴えきらない頭で、言われたとおり心当たりを探してみる。
「例えば、何か変な事件に巻き込まれたことがあるとか、誰かに恨みを買うようなことをしたとか」
言葉の出ない僕に対し、先生はどんな些細なことでもいい、とつけ足した。
先生はきっと、僕が一つも思い当たる節がないからと思って、そう言っているのだろう。
けれどもそれは先生のあまりにも当然すぎる勘違いだった。
むしろ今の僕には、思い当たる節が多すぎて、返答することができずにいたのだ。
僕……いや、厳密には『神谷 涼』という人間に病院送りにされた輩は、ここ二年余りで数知れず。
こちらから理不尽に一方的にけしかけたという事例は多分ないと思いたい。
けど、きっとそんなことは関係なしに、その中には僕たちに対して恨みを抱いている人間もいることだろう。
これも、有事の際に僕が君に『暴力』というひどく安易な解決法に頼ってしまったツケなのかもしれない。
後のことも考えず、そんなものに頼ってしまったことが僕の過ちだったのだ。
結局、暴力なんてものじゃ、何も解決することはできない。
取り返しのつかぬ後悔が、僕を襲った。
「神谷? 大丈夫か、顔色が悪いぞ」
先生に呼ばれ、僕はハッと意識を取り戻した。
「それで、何か──」
「すいません。いろいろ思い出してみたんですけど、それと言って思い当たる節は……」
僕は心当たりはない、ととっさに嘘をついた。
今回の暴行事件が、僕に恨みを持っている人間の仕業だとしたら、僕たちが病院送りにしてきた人間の中に今回の犯人がいる可能性は高い。
だけど、そうなると容疑者が多すぎてしまう。
以前の文化祭だけでも、僕たちは二十人以上を敵に回していたのだ。
それ以上の数の人間ひとりひとりを調べていたら、それこそ犯人が捕まるのは、いつになるかわからないだろうし、また余計な被害者が出てしまうかもしれない。
こんな状態で先生に話をしても、なんの役にも立たない。
もっと情報の整理が必要だという考えで、僕はこの場では何も言わないことにした。
僕の言葉を受け、先生はどこか安心したようにそうか、と頷くと複雑そうな表情でため息をついた。
「別に神谷が悪いことをしたと疑っているわけじゃないんだ。だが、これもただの偶然とは思えん。もし神谷の身に何かあってからでは遅い。少しでも心当たりを思いついたのなら、先生でも保護者の方でも警察でも誰でもいい。すぐに周りの大人に相談するんだぞ」
「はい」
「こんなことで呼び出してすまなかったな。もう教室に戻っていいぞ」
「失礼します」
一礼をして、先生のもとを離れる。
廊下に出ると、茜の姿があった。
僕のことを心配してくれて、というのはいささか自意識過剰か。
茜は両手にプリントの束を抱えている。
おおかた先生に手伝いでも頼まれたのだろう。
「それ、職員室まで運ぶの?」
「ええ、そうよ」
両手が塞がったままでは職員室の戸を開けるのも一苦労だろうと、僕は閉めかけた戸を再び開けた。
「ん、ありがと」
すれ違いざま、茜は僕の方に少し顔を向けてそう言った。
「どういたしまして」
茜が職員室に入ったのを確認して戸を閉める。
そして僕は職員室を後にした────




