俺が俺であるために (後下)
外に出た頃には真冬の空は、すっかりと暗くなっていた。
霧でもかかったように白くぼやけた空は、健気に輝いている月や星々の明かりを虚ろにさせている。
そんな空を仰ぎながら、コツコツ、コツコツと寒気に包まれた道を歩いていく。
夜の音は、それこそ暗闇の中に溶けてしまったように静かだ。
いつもだったら鼻歌の一つでも歌っていたかもしれない。
いつもだったら……
「おい、どこまでついてきやがる?」
「しょうがないでしょ。途中までは私の帰り道も同じなんだから」
文句を文句で返し、私は拗ねたようにプイッと横を向いた。
そして、前を歩くアイツに聞こえないようにため息をつく。
なんか、たいして時間が経ったわけではないのにすごく疲れた気分だわ……
あれから30分ほどで、なんとか無事に私たちは買い物を終えた。
この当初の予定にはなかった余分な時間も有意義なものだったと思いたい。
しかし、店を出てからというもの、なんだかアイツはずっとばつが悪そうな様子だ。
たまに後ろにいる私の方にチラリと目線を流すときもある。
ふむ、と私はなんとなく理由を考えてみることにした。
アイツの性格から分析するに、結果的に私に借りを作ってしまったことが気に入らないと言ったところだろうか。
お礼が欲しかったわけではないのだが、私のおせっかいが逆に余計なモヤモヤを与えてしまったのならば考え物だ。
おかしな表現だが、今日のアイツからはどことなく人間臭さを感じる。
口の悪さは健在のようだが、どうにもアイツらしくない。
そんな居心地の悪そうな姿を見ていると私の方が心苦しさを感じてしまいそうだ。
放っておけばいいものをここでまた声をかけようとしている私はいったい何がしたいのだろう。
自嘲でもしてしまいそうな心境に自分でも呆れてしまう。
けれども、だから私は私でいられるのかもしれない。
「別に今日のことを借りだなんて思う必要はないわよ。さっきのはむしろ私からのお礼代わりなんだから」
「……礼代わり?」
アイツは足を止め、私の方を向いた。
私も同様に少しだけ距離を開けて足を止める。
「美咲から聞いたわ。あんた昨日、悪漢から二人を助けてくれたそうね。なかなかできることじゃないわよ。少しタイミングを違えていたら、私もその中に混じってたかもしれないし」
「チッ。あの女、余計なことを言いやがって。……だが、それこそ俺に礼を言うのは筋違いってもんだ。あの場には、たまたま奴らが居合わせただけ。俺は奴らを助ける気もさらさらなかったからな」
「そう。でも──」
「しかし短い時間とはいえ、学校でお勉強しているよりははるかにマシな時間だったぜ。やっぱり、ああいうエサの方が食いつきがいいのかねぇ。ははは」
エサ? 今、コイツは確かにそう言った。
「それって……美咲たちのこと?」
「ん? ああ、そうだとも。釣れた獲物の活きもなかなか良かったぜ。箱入りお嬢様のお上品な肉質は、飢えた野郎どもには、さぞ美味そう映って見えるのかもしれねぇなぁ、菅の奴はどうかしらんが。また俺の前に獲物を運んできてくれるんなら、何度だってエサとして使いまわしてやるよ」
コイツ……いつもの調子を取り戻したと思ったら、またとんでもないことを言ってくれるわね。
「あんた、今の発言、撤回しなさい」
いったい美咲たちをなんだと思っているの。
「なんだ? お友達をエサ呼ばわりされたことにご立腹か?」
「当たり前よ。冗談かどうかは知らないけど、友達が危険な目に遭ったって言うのに、よく平気な顔でそんなことが言えるわね」
どうにもコイツの前では喧嘩腰になってしまうことが多い。
理由はよくわからないが、私の中で野犬を前にしたときの警戒心みたいなのが働いているような気がする。
だが、そんな反省は後だ。
今、大事なのはそんなことではない。
「わざわざ口に出してまで言いたかないけど、あんただってそうよ。今回は運よく無傷でいられたかもしれない。けど、もう危険なことに首を突っこむのはやめなさい。もう一人の涼の心労も増えるってもんだわ」
どうせまた文句で返されるんだろうが、もうこの際だ、腹の内にため込んでいたものを一度全部吐き出させてもらおう。
本当にコイツは何をしでかすかわからないし、無駄かもしれないが、仮にもつき合いの長い者として釘を刺しておく。
「怪我をしてからじゃ遅いの。立ち向かうだけじゃなく、少しは逃げることも考えなさいよ」
コイツにしては珍しく、不愉快であろうことを表情に出さず、無表情を貫いていた。
けど、今に顔を強張らせて食ってかかってくるに違いない。
私は心の中で、何を言われてもいいように臨戦態勢をとった。
「なぜだ?」
「は……?」
まるで知人といつもの調子で会話をしていたら、いきなりナイフで刺されたような不意打ちに私はあっけにとられた声を出す。
敵意はまったくと言っていいほどに感じられなかった。
どんな剣幕でまくし立てられてもと構えていただけに、いざ真顔で言われると、私の思考は感情の油断を突かれたように固まる。
「自分の身を傷つけようとする奴らから自分の身を守って何が悪い? 常識人ぶっている割には、またおかしなことを言うな」
コイツにしては珍しくまともなことを言っているような気もする。
でも、違う。
コイツの言う身を守るっていうのは、ただ相手を叩きのめすだけ……
身を守るためにあえてコイツは自分の身を危険にまでさらしている。
「……自分の身を守ろうとするのは当然のことよ。それについては、あんたは何も間違ってない。でもやり方ってものがあるでしょ? ここは仮にも法治国家。なんでもかんでも力づくで解決すればいいってもんじゃないわ」
立ち向かうことが悪なのではない。
問題なのは、コイツがそれしか方法を知らないのか、その一つのやり方だけを徹底しているということだ。
「ふん、法律ってのは罪人を裁くためのモノ。規律を守らせるためのいわばおどしだ。それを恐れぬ奴の前ではなんの役にも立たない。それはお前も、前に一度体験したはずだろ。クラスのお仲間と一緒にな」
「前に?」
……まさか文化祭の時のことを言っているの?
「…………」
法律とはそこに住む人間にとって絶対の規律。
私たちを間接的に守ってくれているのであって、直に守ってくれているわけではない。
何か事が起きた後に犯人が罰せられても、被害にあった人の傷も心も癒される訳ではないのだ。
ある意味正論過ぎて、私には言い返す言葉も思いつかなかった。
「やったらやり返されるのも、やられたらやり返すのも当然だ。それとも何か? やられる側が一方的に我慢していれば、誰かが助けてくれるとでも言うのか?」
「それは……」
「それこそ酷な話ってもんだ。助けを求めている人間に、いつ来るかもわからない助けを待ち続けろなんてな。何もできず、誰も助けてはくれず────ただ耐えるだけの苦しみが、お前にはわかるのか?」
「────っ」
「所詮、人間なんてテメェのことが一番。利益損得なしじゃ、誰も助けてなんてくれねぇよ」
「……そうかも、しれない」
私はコイツの言葉を肯定する。
「でも、それでもあんたのやり方は間違ってる」
しかし同時に否定もした。
「やってやられて、またやり返してを繰り返してたら、いつまで経ってもキリがないわ」
「だったら終わらせればいい。やり返す気も立ち上がる気も残させないように」
さっきまで感じていた人間臭さはもう影を潜めていた。
男子寮の前で初めて会ったときのような禍々しさも感じられない。
ただ、淡々とコイツは私の言葉に言葉を返し続ける。
それがさも当然であるかのように。
それがさも正当であるかのように。
コイツの理屈は人間というよりは、動物的だった。
食物連鎖の関係、弱肉強食の世界。
生き残るため、身を守るため、そのためなら何をしてもよいという獣じみた考え。
「っ、そうやって一方的に終わらせるだけじゃ、何も状況は変えられないわ。何度やっても同じことの繰り返しよ」
私たちがいるのは人間の社会だ。
そこには守るべき規律があり、通すべき仁義があり、掛けるべき人情がある。
それが合わさったモノこそ理性と知性を兼ね備えた人の生き方だと私は思う。
驚くことにコイツは私の意見に初めてそうだろうな、と頷いた。
「だから俺は、そんな俺を終わらせるために今こうしてここにいる」
「自分を終わらせる……?」
どういうこと?
私の理解はそこまで及ばない。
そこまで話して、コイツは我に返ったように顔を曇らせた。
何をしてるんだ俺は、と一分前の自分を咎めていた。
一つ舌を打ち、頭を掻くとコイツは近くにあった自販機の前へと歩いていく。
喉でも乾いたのか、ポケットから財布を取り出し、どこかぎこちない動作でお金を自販機に入れる。
「? ……あんたって、左利きなの?」
その一連の動作を見ていた私は、なんとなく思ったことを口にした。
というのも、コイツの動作があまりにも不自然に思えたからだ。
自販機とは右利き用に右側にコインの投入口が設けられていることがあり、その自販機にあたると左利きの人間にとっては不便に感じるらしい。
この自販機もその例に漏れず、投入口は右側についていた。
なのにコイツは今、右手に財布を持ち、左手でお金を入れた。
右利きの人間が、わざわざそんなことをする道理はない。
「……それが、どうした」
コイツは私に目もくれずに答える。
一瞬だが、飲み物を選ぶ指の動きが止まったような気がした。
「ああ、いえ、それだけ。気にしないで……」
言って、私は思い出す。
たしか……私の知っている涼は右利きだったはず……
そう言えば、前にもこんなことがあった。
球技大会の練習で右手を怪我した涼が不便そうに左手を使っていたとき、涼の利き手を左だと勘違いしていた私は、涼に左利きではなかったのかと尋ねた。
そのとき涼はこう言った。
”え? 僕はずっと右利きだよ。何かの勘違いじゃない?”
だから私は涼が左利きであったことが、単なる自分の勘違いだと、それ以上深くは追及しなかった。
でも、なんで私はそんな勘違いをしたんだっけ……?
頭の中から該当する記憶を引っ張り出す。
”なんでか知らないけど包帯ぐるぐる巻きで痛そうだなーって思ったのを覚えてるわ。でも、お絵かきをするときもお弁当食べるときも不便なさそうに左手使ってたから、ずっと左利きだと思ってたのよ”
そう、私の記憶に間違いがなければ、たしかに昔の涼は左手を使っていた……
でも涼は右利きだと言った。
でも今のコイツは左利きだと言う。
つまりは、二人の利き手が違っているということか。
それもあり得ない話ではないのだろう。
コイツは自分たちのことを二重人格のようなものだと言った。
同じなのは見た目だけ、それ以外は何もかもが違っている。
性格も好みも違うのならば利き手が違っていたとしてもなんら不思議ではない。
いつから涼が左利きから右利きになったと言われたら、わからない。
そこまで私の記憶は定かではない。
でも、もしコイツの言っていることと私の記憶が正しいのだとしたら……
────私は、コイツと園で会っていたということになる。
「あなた、小さいころに私と会ったことない?」
突然そんなことを問いただすような私に対し、コイツは眉をひそめ、訝しむように私を見た。
「何を言っている? 神谷涼とお前は、不本意だが昔からの知り合いじゃないのか」
「違うわ。あなたたち、じゃない、あなた個人、よ」
「お前のような奴なんぞ知らねぇな。第一、お前と会っているとすれば俺じゃなくアイツの方だろ。俺は数年前までこの体の中で眠っていたんだからな」
……やはり、私の勘違いなのだろうか。
あまりにも小さいころの話だし、なにより私が自分の記憶に絶対の自信を持っているわけではない。
でも、もしかしたらコイツは────
「おいっ」
「え……わわっ!」
一人悩んでいた私に、突然コイツは何かを投げ渡してきた。
目の前に飛んできたものをどうにかキャッチする。
アイツが放り投げてきたのは一本のホット缶コーヒーだった。
「それで貸し借りはなしだ」
「あ、ちょっと! まっ……」
もう話すことはないとばかりにアイツはトコトコと暗闇の中に消えていく。
「逃げられちゃった。それにしても意外と律儀なところもあるのね」
手元に残った缶コーヒーを見て、どこか感じた微笑ましさについ顔を緩めてしまった私だった───
茜と別れたリョウは、さっさと役目を果たすためにまっすぐ家を目指していた。
だが、いささか虫の居所が悪い。
「チッ……迂闊だった」
自らの愚行を悔いるように、リョウは苦々しくつぶやいた。
己の左手を恨めしげに睨みつけ、今すぐにでも叩きつけてやりたいという憤りさえ覚える。
「あの女……思っていたより厄介だな……」
自分が涼とは別の人格だと気づいたことといい、左利きとわかったことから、園に通っていたのはリョウの方だと言い当てる。
そんな茜の鋭さをリョウは侮っていた。
しかし、茜がリョウの左利きを覚えていたのは、漠然とリョウが左手を使っていたからという理由ではない。
右腕にギブスを巻いていたという園児にはあるまじき姿が左手を使っていたという印象をより強く、より鮮明にしていたからだ。
右腕を怪我した原因を思い出し、リョウは奥歯をギリッと鳴らした。
「くそ野郎が。俺の前から消えた今でも俺の邪魔をする。……まあいい、所詮はガキの頃の記憶だ。仮にあの女が俺と会っていたと知っても、俺の計画に支障が出るわけじゃない」
自分を安心させるように、リョウは声にならない声で口に出す。
「こんな茶番もあと三日で終わる……それで俺は俺自身にケリをつける。その後は……あの男にも、きっちりと借りを返してやるぜ……くくく!」
”なんのために?”
「っ…………」
”そこまでする意味がどこにあるの?”
ふと、どこからか聞こえたような声にリョウは、
「決まってる。俺が俺であるために、だ」
薄く笑い、自身を肯定するように今度はハッキリと口にした────
無事、家についた私は、ベッドに身を投げ、天井を見上げていた。
ほんと、アイツの相手をするのは疲れる。
刹那的な生き方と言うか、危なっかしくて見ているこっちがハラハラさせられる。
いちいち気にする私もどうにかしているのかもしれないけど。
それに……
減らず口を叩くと思いきや、いやに達観したようなことを突然言ってくる。
「ただ耐えるだけの苦しみ……か」
ゴロリと私は横向きに寝相を変え、アイツに言われたことを反芻してみた。
なんでアイツはそんなことを私に言ったのだろう。
ふと、私はあることを思い出していた。
”茜はさ……あのとき、こうしておけばよかったって後悔していることはない?”
それは以前、涼に尋ねられたことだ。
その質問に対して私は「ない」と言い切ることができなかった。
そのとき、私は改めて気づかされたのだ。
決して大きなものではない。
けれども、私の胸の奥にたしかに存在していた楔に。
できることならば、やり直したい過去。
いくらそう思っても、過ぎたことはもうどうにもできないのに……
私の胸の奥のソレは、いつまでも私を解放してはくれなかった。
「……それは、どうすることもできない……ただ耐えるだけの苦しみになるのかしら…………」
自然とこぼれた私の問いに返答はない。
私は嘆息するように息をつき、瞼を閉じた。
”やめて……”
「ッ……!!」
耳の奥に張りついたような声に目を見開く。
記憶とは曖昧なものだ。
なのに、なんでこんなに私の胸を苦しめる……
「ごめん……なさい……」
震える身体を両手で抱きしめ、うずくまる。
私は弱い人間だ。
いまだにこうして過去の幻影に囚われ続けているのだから。
記憶とは曖昧なものだ。
けれど、頭ではなく心に刻みついたソレは、いつまでも私の中から消えることはなかった────




