プロローグ ここにいます
工具箱の底にあるもの。それは今夜の夕食である──食パンが二枚。
ガムテープで補強しながら三年以上使い続けていたレンチがついにお釈迦になった。その代金を払ったら、財布には百円玉が一枚しか残らなかったのだ。これなら中身より財布の方が価値がある。
今日も俺は閉鎖された迷宮の通路の脇にしゃがみ込む。管理人の許可をもらい、廃棄予定の設備から使えるものを外しているのだ。案外金になるんだぜ。こういう閉鎖迷宮に転がっている中古品ってやつは。物によっては新品と変わらない。
床に置いた作業灯が、錆びた線路と、その先を塞ぐ鉄扉を照らしていた。
ここで取り外したねじを袋の中へ移していると、通路の奥から、金属を叩く音が響いた。
「……誰か、そこにいるんですか?」
若い女性の声だった。工具を置いて立ち上がると鉄扉へ近づき耳を寄せる。
「……ッ」
向こう側で誰かが身じろぎする気配を感じた。
「います」
そう答えたものの、自分でも頼りなく聞こえる声だった。
返事がない。よく聞こえなかったのだろうか。
俺は口元を両開きの扉の隙間へ近づけた。
「設備の修理に来た者です。そちらには、何人いますか?」
今度はさらに声量を上げた。同時に人数確認も。一人二人なら俺だけでもなんとかなるが、それ以上だと流石に厳しい。場合によっては応援を呼ぶ必要がある。
「私だけです」
俺はホッとした。返事が返ってきたからではない。応援を呼ばなくて済みそうだからだ。なるべくなら他人と関わりたくない。
若い女はこう続けた。
「奥の通路が崩れて、戻れなくて……足も挟まれちゃって」
言葉の切れ目に、浅い呼吸が聞こえた。扉の脇に作業灯を掲げて壁に埋め込まれた制御盤を照らす。
「協会には連絡できましたか?」
「はい。でも、瓦礫をどかす重機が来るまで待ってくれって。この扉も、開かないんです」
かなり大規模な土砂崩れだったようだ。そういえば一時間ほど前に地響きのような振動が靴底に微かに伝わってきたような気がしたが──あれは土砂崩れだったのか。
「じゃあ。こちらから扉を開けます。少し待っていてください」
俺は返事をしながら手袋を外し、制御盤の蓋に掌を当てた。触れた場所から淡い光が広がり、金属の向こうに隠れている回路が透けて見える。途中で途切れた二本の線が、赤く浮かび上がっていた。
これなら、工具箱に入っている余った銅線でつなぎ直せる。
「扉の近くにいますか?」
工具箱を手探りしながら首を捻り重い鉄扉に向かって声を張った。
「少し離れてます。……開けられるんですか??」
それ?? 本気で言っているんですか?? とでも言いたげに、女性が片方の眉を吊り上げたのが分厚い扉越しでも伝わってきた。
「たぶん。少し、大きな音がします」
俺は抑揚のない声で返事をした。人と話すのは苦手だが、こうして故障した機械を前にすると、多少は平気になる。
その後、俺は蓋を外して電源を切り、焼けた線を交換した。
電源を戻すと、足元から低い振動が伝わってきた。両開きの鉄扉が音を立てて開放される。
ゆっくり持ち上がる扉の下へ作業灯を向けると、
「つつっ……」
数歩先の床に片脚を投げ出して座る若い女性が見えた。思ったよりも若い。一人で迷宮に潜るくらいだから、ベテランの探索者だと思い込んでいたのだが……見たところまだ一八歳かそこらだろう。ロングブーツに覆われた右の足首を、土砂崩れのせいで倒れて来たであろう棚が押さえつけている。
頬には涙の跡があった。余程不安だったのだろう。無理もない。こんな真っ暗な迷宮で独りきり。いつどこからモンスターが襲ってくるかも分からないのだ。
女性は手で光を遮りながら俺を見上げた。かなり綺麗な碧眼だ。こんなに綺麗な碧眼は初めて見る。
女性の唇が小さく震えた。
「……来てくれた」
俺は工具箱を扉の下へ滑らせ、彼女の隣に膝をついた。
「今度は、こっちをどかしますね」
一瞬ドキッとしてしまったが、俺は素っ気ないふりをして顔を背けた。だが、
「あの……!!」
棚を調べようと身をかがめた俺の袖を、彼女の指がそっとつかんだ。
だが振り向くと、女性は、
「……いえ、すみません……」
うつむいて手を離しかけた。
おいおい……そっちから話しかけてきたんだろ。まあいい……固く結んだ口元の端からため息を少しだけ漏らすと、俺は閉じられた工具箱を足元に置き、
「ここにいます」
今度は女性としっかり顔を合わせて、そう言った。




