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21 防衛

 ひび割れた野を抜ける風が、戦の匂いを運ぶ。南から進んだ曹操軍の列はここに拠を定めていた。袁紹の旗は北の岸に林立し、旗の列は果てを曖昧にするほど遠くへ伸びている。その群れが波のごとく揺れ、日ごとにその色を変えた。


 延津・杜氏津を経て、于禁の隊は北上し、河を背にし、やがて原野を抜けて官渡へと至る。そこにはすでに徐州にて劉備・昌豨の軍を鎮めた曹操の本陣があった。


 砦は城壁のごとき形をなしている。その外郭には日々土が積まれ、矢倉の縄が張り直され、夜ごとに物見が立った。袁紹軍の勢はゆうに十万を超える。対する曹操軍はわずかに数万。しかし、その陣は硬く、兵の動きに乱れがなかった。旗の影が地を走り、鼓の音が空に響く。官渡の地は広く平らで、北は黄河、南は丘陵に連なっていた。この地を押さえる者が中原を制する。誰もがそう思い、誰も退かなかった。


 于禁は砦の前で馬を止め、整列する兵の列を見た。その顔には疲労の色がある。背後から楽進が歩み寄った。甲冑の隙間から、陽射しがきらと反射する。


「文則殿、またお会いできましたね。曹公の命により、われらは防衛の左翼を固めるとのこと。矢の雨を浴びる持ち場です」

「承知した」


 ふたりはうなずき、砦の内へ入った。曹操は築山の上にあり、周囲には荀攸、賈詡(かく)、程昱らが立っている。遠くに見える袁紹の陣を指さし、曹操が言った。


「正面の打ち合いは避けよ。地の高きを取り、守りを固めて視を奪う」


 于禁は拱手する。


「高地の防塁を急ぎ築かせます。射手は交代制に」


 曹操はうなずいた。


「よし。地の利で持ちこたえ、隙を待て」


 こうして官渡の守りは定まった。高みでは射手が並び、弦を引いた。風が強まると、草が波を打ち、矢羽が鳴る。



  ×  ×  ×  



 翌朝。袁紹軍は砦の外に新たな土を積み、瞬く間に砦と並ぶ高さに至らせ、その頂に櫓を立てた。そこから無数の矢が降り注ぐ。盾を掲げる兵の腕が痺れ、悲鳴を上げる者もあった。視界が奪われるたび、曹操軍は内側にも防塁を築き、射台を増し、遮蔽を重ねて応じる。


 矢戦は暁に始まり、宵のころまで続いた。射ては伏せ、伏せてはまた射る。弦の音が一日じゅう空に鳴り、地に伏す矢は雨後の葦のように林立した。


 やがて袁紹軍は攻め手を変えた。築山の根から坑を穿ち、地下道を砦の下へと忍ばせたのである。夜が静かであるほど地はよく響く。遠くで杭を打つような音がして、坑木が動く気配が伝わった。于禁は耳を澄ませ、手で地を押す。


「掘っているな。深く、こちらに向かって」

「どういたしましょう」

「迎えの坑を掘る。地を読み、崩す場所を見誤るな」


 工兵が鍬を取り、水気を含んだ土を掻き出して迎えの坑を掘った。地図が几の上に広げられ、迎撃の位置は線で指し示される。坑道の闇では、声を出すことが許されぬ。音が敵を告げるのだ。鍬の音が止まれば、敵がすぐそこにいる。土が伝えるわずかな響きが戦の形を描いた。


 昼下がり、袁紹軍の櫓から火矢が放たれる。風に乗って火は伸び、砦内の物見台に燃え移った。張り詰めた陣の一角にどよめきが走る。


「水を運べ! 矢番は崩すな!」


 于禁の声が響いた。彼は矢雨の中を歩み、言葉で要所を繋いでいく。桶が渡され、濡れた布が被せられ、燃え上がる縄が次々と叩き落とされた。混乱は長くは続かず、射台はほどなく息を吹き返す。煙の中で、于禁は周囲を見やった。


「持て」


 命を受け、兵たちは再び狙いを定める。


 曹操軍は反撃に転ずるべき時と見て、発石車の組立を急いだ。木枠が組まれ、太縄が張られ、巨石が抱えられて据えられる。合図とともに腕がしなり、石は唸りを上げて宙を走った。櫓の脇が砕け、築山の縁が削がれ、袁紹軍の陣に土煙が立つ。二の矢、三の矢が続き、敵の高台は一角を崩して黙した。袁紹軍は射手を引き、防塁の補修に人を回す。曹操軍はその隙に射台を前へ押し出し、射程を詰めた。


 されど、決め手には欠けた。敵は兵の層が厚く、崩れては詰め、削がれては足す。地上では矢が交わり、地下では鍬の音が応じる。攻防は日を重ねるほどに手順を覚え、互いの工が一段ずつ積み上がっていった。防塁の上では矢が鳴り、下では湿土がこもる。官渡の戦は、いまや持久の相を帯び始めていた。


 夜が更けるにつれ、風が冷たくなった。火の明かりが築山を照らし、矢が地に刺さる。


 「この地はわれらで守り抜きましょう」


 副将がそう言い、槍を握り直した。于禁はうなずく。


「列を保て。それは夜でも昼でも同じだ」


 黄河の向こうでは袁紹の陣がまだ灯を絶やさずにいた。遠い篝火が数を増し、風に揺れるたびに星のように明滅する。その明かりが近づくと、次の攻めの合図となったが、この夜は敵も味方も息を潜め、闇が地を覆っている。


 砦の内では矢を備え、折れた盾を継ぎ、坑口の見張りが交代を告げた。火の傍で兵が湯を温めている。もくもくと湯気が流れ、闇の中に消えた。その横で、于禁は地図の上に手を置き、耳を澄ませる。


 地の下から、かすかに響く音があった。鍬の刃が当たる鈍い響き。敵が坑を掘り進めているのであった。


「西の根だな。浅い。土が水を含んでいる場所だ。この分なら、すぐに崩れるな」

「掘り返しますか」

「いや、逆だ。土を締めろ。向こうが自ら崩す」


 兵たちは音を追い、慎重な手つきで土を打ち固め、闇の中で敵を待つ。夜明けに近づくにつれて風が強まった。


 遠くで鼓が鳴り、袁紹軍が砦を試すように矢を放つ。闇を裂いて矢が飛び、地に刺さった。于禁は動かぬ。兵もまた、動かぬ。矢が尽きるのを待つように、じっと立っていた。


 やがて矢雨が止む。地の下では水の音がした。迎え坑の端を掘っていた兵が声を上げる。


「崩れました!」


 土の壁が壊れ、敵の坑道が潰れたのだ。夜はまだ終わらぬ。


 于禁は築山の上に上がり、北の闇を見た。遠くに袁紹の旗がはためいている。火が消え、いつの間にか星が濃くなっていた。


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