20 反撃
延津の堤を吹き抜ける冬の風が、葦の穂を倒し、幕を鳴らした。袁紹の軍は北の岸に鎮坐し、陣幕の列は果てまで続く。渡河を重ねては敗れたことで、敵は動きを止めていた。黄河をはさみ、長くにらみ合いが続いている。その間、兵たちは槍を拭い、破れた鎧を繕い、陣を保っていた。守りの形は乱れず、于禁の命は寸分も違わぬ。
この年の冬十一月、張繡が降を請うた。南陽の戦は終わり、長く乱を引いた旗がついに降ろされる。報は北にも届き、曹操は陣中でそれを聞いた。戦の火は一つ消えたが、徐州でも、黄河のほとりでも、なお燻っている。曹操は戦局を見定め、反攻の時を待った。
冬の間、両軍は動かず、策のみが交わされる。
春の陽が野を照らし始めたころ、延津の堤の南から騎兵の列が現れた。甲冑が陽を受けて煌めき、列の先頭にひときわ小柄な将の姿がある。彼は駒を下りると、真っ直ぐに于禁の前へと歩み寄った。
「文則殿、曹公の命を携えて参りました」
楽進である。明るい声がまっすぐに響いた。彼は懐から封泥の付いた書簡を取り出すと、于禁へと差し出す。泥には荀公達の印があった。
「延津の守りは十分。これよりは動に転じ、汲と獲嘉の別営を撃て、とのことです」
于禁は受け取り、封泥を割る。
『延津の守り堅く、曹公はこれを喜ばれました。敵はたびたび河を渡らんとしたが、果たせずとのこと。文則殿の備え、まことに確かです。
しかし袁紹軍の気はまだ衰えきらず、汲と獲嘉の間に別営を張り、旗を並べて威を示しております。この陣を崩せば、袁紹の勢いはおのずと緩むでしょう。地をよく測り、敵の形に従わずして制されますよう。
三千の兵を付し、文謙殿を副といたします。文則殿の働きに期待しております。』
于禁は文を読み終えてうなずいた。
「承知した」
「歩と騎合わせて三千はいつでも出られます。文則殿の兵と合わせると五千ですね」
楽進は明るく言い、地図を広げる。
「汲と獲嘉の間は低地が続くようです。丘を背にし、林を盾とすれば、敵は散陣のまま迎えざるを得ません」
「ならば正面から衝かず、五千の兵を左右二翼に分け、斜めに寄せる」
「挟撃の形ですね」
ふたりは目を交わした。
× × ×
出立の鼓が鳴る。兵たちは槍を持ち、弓を背に負い、黙して列を進めた。陽射しは温かなものとなり、地の凍りは解け始めている。道の脇には芽吹いた草が混じり、焼け跡の黒に緑が差していた。延津の堤を離れ、南西へと進む。汲・獲嘉を結ぶ道は平らで、ところどころに浅い丘が連なっていた。
陽が傾き始めたころ、斥候が戻る。
「報告いたします。袁軍の陣三十余。北は林、南は丘、兵は散っております」
「好機だな」
于禁は馬上で地図を指した。
「第一列は北を巡り、林の陰を抜け、敵の背を見よ。第二列は丘を盾に南を進む。正面はあえて空けておけ」
楽進は笑みを見せ、手綱を締める。
「では、先鋒はお預かりします」
「頼む」
列は分かれた。北の林からは葉の音が絶えず、南の丘では花が散る。敵陣は油断しており、遠くから焚火の煙が上がっていた。楽進の騎兵が先に林を抜ける。馬の蹄を地に沈め、矢の音とともに突入した。
陣の一角が崩れ、敵兵が右へ走る。そこへ丘の陰から于禁の歩兵が現れ、盾を合わせて押した。列は一糸乱れず、槍が動く。陣形が寄り合い、三方から押されて敵は散った。
「押すな、列を保て!」
馴染んだ響きが陣を貫き、槍の列がぴたりと止まる。押し乱れかけた前衛の兵が呼吸を合わせ、盾を寄せ合った。
その刹那、楽進の騎が反転する。馬の蹄が地を蹴り、砂塵が一線に立った。彼らは敵の右翼を刈るように回り込み、矢を放ちながら一気に駆け抜ける。
矢の雨が敵の旗を裂き、音が野を覆った。散じていた袁軍の隊列が慌ただしく立ち直ろうとしたが、背も側もすでに囲まれている。指揮の声が交わらず、伝令が衝突し、旗印が左右に揺れた。乱れを見て、于禁は間髪を容れず号する。馬が倒れ、人が押し重なり、叫びが煙の中に重なっていく。
丘の陰から于禁が進んだ。
「列を乱すな、槍を立てよ!」
明瞭な声が陣を斬る。整然とした歩兵の列が前へ押し出し、盾の隙間から穂先がそろって突き出された。更に陣形が寄り、三方から押す圧が敵を包み、退く道を断つ。
土煙の向こうで、何茂が旗を支え、なおも命を叫んだ。しかし、味方の列は応えず、ついに王摩が剣を投げ捨てる。膝が折れ、旗が倒れ、音もなく地に伏した。それを合図に、残兵たちが次々と武器を落とし、降を示す。
「降る! 降る!」
叫びが丘に響いた。
「武器を捨て、待て」
于禁の一言で、弓が下ろされる。
戦は長くは続かなかった。討ち取り数千、降伏数千。別営三十余はすべて潰えて、丘には霞のような土煙がうっすらと残る。楽進が馬を引き、汗を手の甲で拭いながら于禁の傍に戻った。
「見事な戦ぶりでした」
「形を保てば、次の道が開くだけだ」
「それが文則殿の教えですね」
楽進は笑みを浮かべ、視線を南へ向けた。
「この勢いで一気に河まで押せましょうか」
「追わぬ。ここで陣を保つ」
「ですが、敵は退いております」
「退く敵ほど危うい。形が乱れたところを突かれる」
于禁は槍の柄を握り直し、地に突き立てる。
戦後の処置が済むと、報が曹操のもとへ送られた。数日の後、于禁の元に伝令が駆けてくる。
「本陣よりの命です」
手渡された書簡の封泥には、ふたたび荀攸を示す印が刻まれていた。
『原武に拠る袁紹軍は、杜氏津の北に陣を張っております。ここを押さえれば、敵の糧道は絶えましょう。兵をまとめ、別軍として原武へ進んでください。』
于禁が書簡を巻く。
「公達殿は何と」
楽進が訊ねた。
「袁紹軍が杜氏津の北に陣を張っているそうだ。この地は貴殿に任せ、我が隊は原武に向かう」
「承知しました。勝報を待ちます」
楽進は拱手し、于禁は騎を返す。
春の穏やかな風が原野を渡っていた。道には雪解けの名残があり、馬の蹄が柔らかな草を踏む。河の流れは早く、岸の葦が陽にきらめいていた。原武はその先にある。堤と林が寄り添い、黄河は悠々と流れていた。敵は渡しの北に陣を構え、布幕を並べている。斥候が告げた。
「敵はいま、杜氏津に橋を架けております」
「架橋を終えればこちらの岸が危うい。夜明けを待たず撃つ」
于禁は指を上げ、陣の形を示す。
「正面は囮だ。弓兵を並べ、敵の渡り口を射よ。主力は西の林に回り、橋の根を断て」
宵闇が迫ると、兵が動いた。焚火を消して鉄の音を包み、夜に染まる地を渡る。
杜氏津の橋には木の板を運ぶ兵の姿があった。弓が鳴ると暗闇を裂いて矢が飛び、渡り板に突き立つ。敵が声を上げるより早く、西の林から歩兵が出た。盾を合わせて橋脚を叩く。杭が折れ、木の音が河に響く。袁紹軍は混乱した。橋の上で押し合い圧し合い、後続の者が落ちていく。于禁は手を挙げて命じた。
「撃て! 退路を絶て!」
弓兵が一斉に放った。矢の雨が橋を覆い、炎が空に舞う。火矢が飛ぶと、橋と布幕が燃え上がり、河の上に叫びが響き、やがて鎮まった。夜が明けるころには橋は跡形もなく焼け落ち、岸には漂う煙が残る。




