17 旧友
荀攸の策によって張繡の軍は崩れ、穣県の地を覆っていた兵の群れが引き、野には日常が戻る。勝ちも負けもなく、兵の足には同じ疲れが残った。
于禁は列を揃えて傷を負った者を後方へ移した。槍の穂先には血がこびりつき、布で拭っても跡が消えぬ。ひとつの戦が終わったが、誰の胸にも終わりという言葉の実感は遠い。
報が届く。次は下邳での戦であった。呂布が籠城を選んだのだという。指令は粛々と伝えられ、兵は武具を担ぎ、足を前へと運ぶ。道はぬかるみ、履に土が貼りついた。履は乾く間もなくまた濡れ、その繰り返しの中で戦は続く。
積もる疲弊の中、曹操はやがて軍を還すことを考えるに至った。しかし荀攸と郭嘉の説得と策を受け入れ、兵に命じて泗水と沂水を決壊させる。二つの川が合わさった水は、堤を越えて城郭を抱く野に広がり、瞬く間に城下へと押し寄せた。月余を経たころには、呂布の軍は外と内から攻められる形となり、下邳の将である宋憲、魏続らが陳宮に縄を掛け、城を挙げて降を申し出る。
かつて飛将と恐れられ、並外れた膂力と弓馬の術で中原を震撼させた呂布も、ここに至っていよいよ追い詰められていた。天下無双の猛将をここで逃がすわけにはゆかぬ。呂布が楼上に逃れたのを見た于禁は、軍を率いて楼を包囲し、退路を断ち猛攻を仕掛けた。長引く水攻めで飢え、孤立無援となった呂布に、抗う術はもはや残されていない。
泥濘の城門をくぐった于禁は、泥に塗れ、なおも獣のごとき眼光を放つ猛将と対峙した。打ち合うたびに、于禁の腕を痺れが襲い、指の感覚が消えていく。柄を握る力すら怪しくなり、執念だけで剣を持つ手を繋ぎ止めていた。対する呂布もまた、肉体の極限にあり、血混じりの浅い呼吸を繰り返し、肺が焼けるような喘鳴を響かせている。泥に足を取られた呂布の膝が、疲弊に耐えかねて不細工に震えた。かつて天下に武名を轟かせた男の躰は、今や己の体重を支えることすら拒絶し始め、ついにその身を捕えられたのである。
いかに荒れ狂う暴虎とて、檻に入れば単なる獣にすぎぬ。ひたすらに律を守り、持久の過酷に耐え抜いた結果の勝ちであった。
やがて兵たちは槍を束ねて破れた鎧をしまい、表面が硬くなった土の上に並べ、折れた矢の根を抜き、錆びた剣の刃を油でぬぐう。終わりの光景というものは、いつも似ている。音は少なく、人が小さく見える。
呂布が刑され、戦が終わって数日が過ぎると、降将の処遇が決まり、捕らえられた者の中から赦免を受ける者が現れた。臧覇、孫観、呉敦、尹礼、そして昌豨。彼らは青州・徐州の統治を任されることになる。
于禁はその報を受けたとき、札の束を前にしていた。名が読み上げられるたび、過去の戦が頭をよぎる。昌豨の名に至ったとき、筆が一瞬止まった。
夕刻、書簡の整理を終えて帷の外に出ると丸い朱の太陽が大地を照らしていた。遠くで荷車の音と、何やら兵たちが話し合っている声がする。そこに降を許されたばかりの昌豨の姿があった。拘束はすでに解かれ、自由に動ける身だ。
「文則」
控えめな声であった。鎧を脱ぎ、肩に紐を掛けた姿。昔、焚いた鍋の湯気の向こうで見た顔と変わらぬ。
「久しぶりだな」
「ああ」
二人の間に無言の時があった。于禁は視線を外し、昌豨は笑みを作ってその隙間を埋める。
「まさか、またこうして顔を合わせる日が来るとは思わなかった。俺は一度終わったと思っていたんだがな」
「終わりを生かすのも人の働きだ」
昌豨は小さく笑い、地に腰を下ろした。左手を膝の皿に置き、右手で土を軽く叩く。その仕草に、かつての兵の癖が残っていた。
「降りてしまえば気楽なもんだ。腹の鳴りを気にせず寝られる。けど、お前みたいな人間には不満だろうな」
「不満ではない。律を保つには手が要る」
返す間にわずかな呼吸がある。
「形を決めすぎると窮屈になるぞ」
「緩めすぎれば、形が崩れる」
昌豨は笑い、掌の汚れをこすった。爪の間に黒が残る。
「崩れないようにするのが上の役目だと思っていたが、まあ、お前はそういう奴だった」
その言葉には懐かしさのようなものが現れていた。
「お前は俺の知っている文則だ。でも、もう兵の列には戻れそうにねえな」
于禁は答えず、地を見つめる。
「将は列の外に立つものだ」
「だろうな。それでも、たまには列の方を見ろよ。昔の俺らがどんな顔で立っているか、見えるかもしれんぞ」
昌豨の声は柔らかく、空に溶けた。于禁はうなずくでもなく、拳を握る。
「いけねえ! 宣高が呼んでいたんだった。なんでも、新しい任地の話らしい。まあさ、行く前にお前の顔を見たかったんだよ」
于禁は少し目を上げた。
「任を全うしろ」
「できたら報せる。そのときは、酒でも飲もう」
言葉のあとに間があった。二人の間を通り抜けたのは兵の足音である。砂を踏む音が、遠ざかって消える。
于禁がうなずき、昌豨は歩き出した。足取りは軽く、しかし振り返らぬ。
× × ×
翌朝、空は曇っていた。兵が列を作り、壊れた槍を並べ、布の包みを積んでいる。地面は乾ききらず、足跡の形がまだ残っている。
于禁が一歩下がって全体を見渡すと、声を上げずとも、兵たちは動きを揃えていた。律というものは、言葉より先に空気で伝わる。
そこへ、粗い履の音が近づいた。臧覇である。鎧の上に布を掛け、腰には剣。歩き方には荒さがあったが、目の奥は澄んでいる。粗野というより飾らぬ男だった。
「于将軍」
「宣高殿」
互いに拱手し、軽く頭を下げる。臧覇は陣の内を見渡し、うなずいた。
「よく揃った、見事な陣だな」
「習いの通りを守っているだけだ」
「それができる者は少ない。人はすぐ気を緩めるからな。俺の隊もそうだった。だから負けた」
臧覇は微かに笑う。
「任地が決まった。琅邪のあたりだ。昌豨は陽の射す土地が好きらしくてな、西を望んでいる」
「そうか」
「于将軍の名は届いている。律に厳しいお方だと。貴殿の律が軍を支えているのだな」
「みなの努力によるものだ」
「上が正しければ下も従う。兵とはそういうものだろう」
臧覇は腰の紐を締め直し、少し間を置いて言った。
「世が乱れるほど、筋の通った人が要る。力よりも、律で人を束ねる者がな」
于禁はうなずく。
「律を通すには、己を削らねばならん。それが難しい」
「それをやってのけるのが于将軍なんだろう。昌豨がそう言っていた」
「そうか」
「あいつは情に流されやすいが、そういう者がいなければ、人の心は乾く」
臧覇は遠くを見やり、口の端を上げた。
「俺も、やれるだけのことはやる。官の名で地を治めるのは初めてだが、それも務めのうちだ」
「任を全うされよ」
端的な于禁の言葉に臧覇は笑う。
少し離れたところで、昌豨が荷をまとめていた。布で包んだ槍と行李がひとつ。兵が二人、彼に従っている。臧覇はその様子に目を向け、于禁は問うた。
「もう発つのか」
「すぐに」
「良い顔をしているな。……あいつは、ああであってほしい」
臧覇は軽く片手を挙げると、昌豨の方へと歩いていく。二人は言葉を交わして、背を並べた。その光景を、于禁は黙って見ている。
昌豨が于禁を振り返った。
「おうい、文則! 行ってくるぞお!」
声は軽く、若い時分と同じ調子である。
「早く行け」
「お前の粥は薄すぎるからな。今度、俺が美味いやつを作ってやるよ」
「焦がすなよ」
「焦がさねえよ」
そう言って、昌豨は臧覇の列に合流した。荷車が動き、やがて遠ざかる。その列が見えなくなるまで、于禁はその場に立っていた。




