16 杭紐
火の粉が空に舞っていた。一夜明けても、野にはまだ戦の名残が漂っている。人の声も馬の嘶きも遠のいたが、土の下では鉄が冷えず、黒煙がくすぶっていた。
誰が最初に退いたのかも、誰が倒れたのかも分からぬ。そこへ伝令が息を切らして駆けつけ、叫ぶように告げる。
「曹子脩殿、戦死なされました!」
「曹安民殿、敵に討たれたとの報です!」
「典韋殿、敵陣にて最期を遂げられました!」
その声が野を渡ると、誰も言葉を返せず、息を漏らした。空の東の方にはいまだ煙が立ちのぼっている。
于禁の部隊は、混乱する仲間たちの中にあって、殿を務めていた。追撃を防ぎ、曹操の退路を確保するためである。
兵の列は崩れず、足音が一定の間を刻んだ。鼓の音は鳴らぬが、律は生きている。倒れぬ旗の下、彼らは無言で槍を支えていた。
地は血に湿り、延々と屍が続く。折れた柄が土に刺さり、焦げた軍旗が崩れていく。それでも于禁は振り返らぬ。
黄昏、退路を確かめる途中、ふとした物音に気づいて馬を止めた。しばらくして、前方の林から裸の男たちがよろめき出てくる。傷口に泥を塗りつけ、息も絶え絶えである。ただならぬ様子に、何があった、と于禁が問うと、男らは地に膝をつき、声を震わせて訴えた。
「う、于将軍……青州兵に、襲われました」
言葉は途切れ途切れである。
その背には鞭の痕があり、腕には縄の跡が残っていた。肌にはまだ新しい刃の傷跡がいくつも残り、手の中には破れた衣の切れ端が残る。于禁は黙って彼らを見下ろした。
青州兵。曹操がかつて黄巾の乱を平定した際に降した者たちである。賊から兵に改められたが、その根はまだ賊のままの者も多いのだろう。彼らが略奪を働いたと知り、于禁の胸に暗く煮えたぎるような怒りが生まれた。
粥と律を与えられてなお、獣の道を選ぶか。
「律を破る者を俺は赦さぬ」
そう言葉を残し、馬首を返す。兵たちは息を呑み、列を立て直した。夜は深まり、空の色が黒を濃くしていく。遠くではまだ戦の音が続いていた。それでも、于禁の足は迷わぬ。
味方であれ、律を乱す者は討たねばならぬ。軍である限り例外はない。
青州兵の陣は林の中にあった。奪った衣と糧を積み上げて、酒の香を漂わせている。焚火の中で笑う声がした。戦場に似つかわしくない笑いである。その刹那、于禁は合図した。
剣が一斉に抜かれる。刃が閃き、喉を切り裂き、胸を貫き、血が噴き出す。叫びは短く、抵抗も降伏も出来ぬまま、青州兵の血肉は土の中に吸われた。
やがて静寂が訪れる。于禁は剣を拭って血の跡を見下ろした。怒りは鎮まり、代わりに虚しさが残る。兵の一人がつぶやいた。
「将軍……これを、どうされますか」
「常と変わらぬ。律を戻すだけだ」
于禁は答える。律を取り戻すことがこの地での祈りに等しい。遠くの焚火が青州兵の躯を照らした。兵たちは言葉を失い、その場に立ち尽くす。
そのとき、南から伝令が駆けてきた。息も絶え絶えに、地に膝をつく。
「報です! 曹公の陣に逃れた青州の者どもが……于将軍、反すと申し立てております!」
時が止まった。火のはぜる音まで遠い。誰も言葉を発さず、風が焚火を揺らした。
兵のひとりが恐る恐る口を開く。
「疑いを晴らさねばなりませぬ。将軍、すぐに曹公のもとに参りましょう」
于禁は振り向かず、地に落ちた木片を拾い上げて土を掘り始めた。無言のまま、塹壕を掘る音が続く。土が掌の傷に染み、その感触に、鮑信の最期の姿が蘇る。
杭と紐。
結び目が緩めば旗は倒れる。あの丘の上で鮑信が倒れた日、戦場の煙の中で、于禁はひたすらにその姿を追いかけた。律なき人は獣と化す。その光景が今も彼の胸に焼きついている。
兵のひとりが再び問うた。
「将軍、このまま奴らに好き勝手言わせておくのですか」
「今は背後の賊軍を撃つのが先決だ。それに英明な曹公が、でたらめな訴えを信じるはずはない」
その声は地を這うように低い。塹壕の中に灰が舞った。空には星がひとつ、煌々と瞬いている。
遠くで夜の鼓が鳴った。敗走の音か再集結の音かは分からぬ。于禁は耳を傾け、ただ律を思う。人の声が消えれば残るのは形だけであった。その形を保つために杭と紐がある。旗が倒れぬように。
夜が明けきらぬうちに、風の向きが変わった。塹壕の中では兵が交代で休みを取り、鎧を外して麻布で汗を拭う。地を掘る音が続いていた。
于禁はその音を聞きながら、地形を見渡す。丘を背に、谷を前にする。敵が攻めれば必ずその流れを詰まらせるだろう。この地を固めることこそが退路を守る策であった。
「将軍、お身体をお休めください。あとは我らが」
若い兵が言う。于禁は首を横に振った。
「戦はまだ終わっていない」
その言葉に兵はもう何も言えなくなり、ふたたび土を掘る務めに戻る。それが、彼らの鼓であり律である。
太陽が真上に昇るころに、使者が現れた。馬を降りるなり、慌てた様子で報を告げる。
「曹公が于将軍をお呼びになっておられます」
その言葉に、兵の列が動きを止めた。みな不安げに于禁の姿を伺っている。于禁はしばし無言で、手にした木片を見つめた。泥が乾き、張りついている。それをゆっくりと拭うと、馬に手をかけた。
舞陰の陣に入ると空気が変わる。敗戦の後の気まずい沈黙があらゆる幕の内に漂っていた。書吏は札を運び、伝令は走る。誰も顔を上げようとしない。
曹操の陣幕の前に立つと、衛士が槍を下げた。于禁は馬を下り、槍を持つ兵の前で立ち止まる。
「于文則、参りました」
声は穏やかである。幕の内から答えがあった。
「入れ」
その一言で、幕が開く。中には地図と札が積まれていた。曹操は卓の前にあり、筆を握ったまま視線を上げる。
「青州兵の件、聞いている」
于禁は頭を垂れた。言い訳も弁明もせず、事実のみを報告する。青州兵が略奪を働き、これを討って律を戻し、そして今は塹壕を固めて賊を防いでいる、と。それだけを、坦々と。
曹操は黙って聞いていた。筆先が卓に当たり、微かな音を立てる。やがて筆を置き、ゆるく息を吐いた。
「それでこそ、于文則よ。淯水の苦難は危急のことであったが、文則のおかげで賊を討ち、守りを得た。古の名将も、かくはあるまい」
于禁は頭を下げたまま、言葉を発さぬ。その姿を見つめ、曹操は微かに笑みを浮かべた。
「お前を益寿亭侯とする」
その声は確かだった。長い戦の中で、ほんの一瞬、陣に温もりが戻る。于禁は拱手し、ゆっくりと後ずさった。その背に、曹操の声が届く。
「丹書を燔く有るも
赦贖を普くする無し
皋陶と甫侯と
何ぞ職を失うこと有らん
律を守る者があれば、国は立とう。敗戦を繰り返しても、理があれば滅びぬ」
その言葉に、于禁はわずかにうなずいた。幕を辞して外に出ると、陽は傾き始めている。
陣を離れた彼は、丘の上に戻った。黄昏の空の下、地の上には血の色にも似た赤が広がっている。兵たちはまだ塹壕を掘り進めていた。完全に陽が沈むと、陣に火が灯り、雑多な穀を湯に入れただけの粥の鍋が並び、周囲に焦げの香りが漂う。
「将軍、お戻りになったのですね」
ひとりの兵が笑みを浮かべて粥を差し出す。于禁は受け取り、木の匙でゆっくりとすくった。麦の皮が舌に触れ、湯気が頬を撫でる。
火の向こうに兵たちが並んでいた。みな一様に、味のない粥をすすっていた。
※『楽府詩集・曹操・土関山』より
罪を朱筆で記した書を焼くことはあっても
金品などで贖わせて罪を許すことはない
皋陶や甫侯のような司法を担う賢者が
職務をおろそかにすることなどあっただろうか




