第94話:救出、あるいは死亡確認
テルが船底に消えた後、エマは死んだように動かなくなった。
通路の隅で膝を抱えて、じっとしていた。銀色の三つ編みが解けかけて頬にかかり、青い瞳は虚ろに海を見つめている。ピンクのワンピースはところどころ海水で濡れ、まるで血を浴びたようになっていた。
戻ってきたレオンが声をかけるが、エマは顔を伏せたまま頷くだけだった。十三歳の少年は、自分の代わりに死んでいった英雄への罪悪感と、その恋人への申し訳なさで胸がいっぱいになっていた。
「エマさん、何か飲み物を」
エマは黙ったまま首を小さく横に振った。まるで魂が抜け殻になってしまったかのように。
嵐の夜が明け、空は白み始めた。船は安定を取り戻し、嘘のような静かな海が広がっていた。朝日が水面に反射して、黄金色に輝いている。しかし、その美しさも、エマの心には何も響かない。
テルがいない世界に、色彩はなかった。
「エマさん、部屋で少し休んでください」
レオンが再び声をかけたが、エマは首を振った。
「ここにいます。テルが戻ってくるまで、ここにいます」
船員たちは皆、エマを憐れむような目で見ていた。しかし、誰も彼女に近づこうとはしない。死者への哀悼と、生存者への気遣いの間で、彼らもまた戸惑っていた。
太陽が昇り切った頃、エマが突然立ち上がった。
その動きに、近くにいた船員たちが驚く。長時間同じ姿勢でいたエマの足は感覚を失っていたが、彼女の瞳に力強い光が戻っていた。
「第三区画を開けてください」
エマは近くにいた船員に声をかけた。
「中に人がいます。彼はこの船を救いました。今度は、彼を救ってください!」
船員は困惑した表情を見せた。彼女の頬には涙の跡があり、しかしその瞳には揺るぎない決意が宿っている。
「お嬢さん、それは無理というものです」
別の船員が言った。
「もう何時間も経っている。それに、あの区画は完全に水没していて」
「彼は生きています!」
エマの声が甲板に響いた。普段の理性的な彼女からは想像できないほど、感情に満ちた叫びだった。
「なぜなら、彼は英雄だからです。ヴァルドフェールで重装歩兵六百を一瞬で無力化した英雄です!」
ざわめきが起こった。船員たちの間に驚きの声が広がる。
「雷の剣の使い手だと?」
「あの戦いの英雄が、この船に?」
エマの周りに船員たちが集まってきた。年長の船員が前に出て、エマを見つめる。
「お嬢さん、本当にあの方が?」
「はい」
エマは涙を拭いながら、しっかりと答えた。
「彼はナオテル・イフォンシス・デカペンテ。フィロソフィア王国の騎士で、雷剣勲章を受けた英雄です。そして」
エマの声が震えた。
「私の大切な人です」
年長の船員は仲間たちと顔を見合わせた。そして、深いため息をついた。
「分かった。一応、開けてみる」
「ただし」
彼はエマを見つめて続けた。
「何があっても取り乱すなよ。それと、お嬢さんは上で待っていてくれ。下がどうなっているか分からない」
エマは反論しようとしたが、年長の船員の厳しい表情に押し切られた。
「その英雄を、俺たちが連れてきてやるから」
「きっと大丈夫です。僕はそう思います」
レオン少年が声をかけてくれた。その手が、エマの震える指を握っている。
「テルさんは、強い人です。だから」
エマは頷いた。しかし、心臓は激しく鳴り続けている。
船員たちが船底に向かっていく足音が遠ざかっていく。エマは甲板の端で、じっと待った。レオンがそばに座り、無言で付き添ってくれている。
永遠とも思える時間が過ぎた。太陽は天頂に差し掛かり、海は穏やかに輝いている。
ついに、船底から足音が聞こえてきた。
エマは立ち上がって駆け寄った。心臓が胸を破りそうなほど激しく鳴っている。
「テルは? 彼はどこですか?」
先頭を歩いていた年長の船員が、無言で後ろを指差した。四名の船員が、テルと思われる人物を一列になって抱えながら歩いている。
エマは息を呑んだ。
テルは目を閉じ、顔は青白い。服は濡れ、体からは海水が滴り落ちている。まるで人形のように、ただ運ばれていた。
「このあたりに寝かせてくれ」
年長の船員の指示で、テルが甲板に横たえられた。
エマは慌ててテルのそばに駆け寄った。その顔に触れた瞬間、あまりの冷たさに思わず手を引っ込めそうになった。
氷のように冷たい。まるで、本当に...
「お嬢さん、すまんな」
年長の船員が申し訳なさそうに言った。
「いいえ」
エマは涙をこらえながら答えた。
「テルを連れてきてくれて、ありがとうございました」
エマはテルのそばに座り、その頭を抱きかかえた。安らかな顔をしている。しかし、体は冷たく、微動だにしない。
「テル、寒かったでしょう。もう大丈夫ですよ」
エマが囁いた。その声は意外なほど穏やかで、優しかった。
船員たちは皆、重い表情でその光景を見守っていた。中には帽子を脱いで、静かに頭を下げる者もいる。
エマは何時間もテルを抱きしめ続けていた。太陽が西に傾き始めても、彼女は微動だにしない。ただ、時々小さな声で話しかけるだけだった。
「覚えていますか?初めて会った日のこと」
「あなたは道端で倒れていて、私が声をかけました」
「最初はあなたに警戒されていましたっけね。でも、すぐに打ち解けましたね」
「生徒会室での議論も楽しかったです」
「みんな、あなたのことが好きでした」
夕暮れ時、見かねた年長の船員が話しかけた。
「お嬢ちゃん、自分が参っちまうよ。もう...諦めな」
「私はずっとテルのそばにいます!」
思いがけず大きなエマの声に、年長の船員は驚いた。普段は理性的で控えめな彼女の、魂の底からの叫びだった。
その時だった。
かすかに、テルの体が動いたような気がした。
年長の船員はそれを見逃さなかった。長年の経験が、わずかな変化を捉えていた。
「おい、お嬢ちゃん...」
エマもそれを感じていた。抱きしめているテルの体に、何か変化があったような。
二人は顔を見合わせた。
「おい、毛布と着替えを持って来い!あと湯を沸かせ!」
年長の船員が大声で指示を出した。
「驚いた。こりゃ、仮死状態かもしれん。お嬢ちゃんが言うように、この人には何か特別な力があるのかもしれないな。とにかく、暖めてみないと分からねえ」
エマの心に希望の光が差し込んだ。涙が再び頬を伝い落ちる。しかし今度は、絶望の涙ではなかった。
「テル、聞こえていますか?私です、エマです」
エマは必死に話しかけ続けた。
船員たちが毛布や湯を運んでくる。年長の船員がテルの状態を確認しながら言った。
「生きてる可能性があるなら、もう動かせねえ。ここで、体をとにかく暖めてくれ」
エマは黙って頷いた。毛布の中でテルをしっかりと抱き、話しかけ続ける。
「必ず戻ってきてください。約束してください」
「まだ、言わなければならないことがたくさんあります」
「一緒に見たい景色も、行きたい場所も」
日が落ちて夜が更けても、エマは話し続けた。レオンが交代で付き添ってくれ、船員たちも時々様子を見に来る。
翌朝。いつの間にか眠っていたエマは、温かい日差しで目を覚ました。
テルの体はまだ冷たいが、昨日よりは少し体温があるような気がする。希望か、願望か、それは分からない。しかし、エマはその微かな変化を信じたかった。
「テル、おはようございます。朝ですよ」
エマが優しく話しかける。思い出がよみがえった。
「起きてください。学校に行かないと」
「ほら、六時十分までに着替えを済ませてください。六時二十分に洗面所で顔を洗い、七時に食堂で朝食です」
いつもの朝の日課を思い出しながら、エマは優しく話しかけた。あの穏やかな日々が、どれほど大切だったのかを、今になって痛感していた。
その時だった。
テルの瞼が、わずかに動いた。
エマは息を呑んだ。見間違いかもしれない。しかし、確かに...
「どうかしましたか?」
近くにいたレオンが話しかけてきた。
「今、目を開いたの!確かに開いたわ!」
エマの声は興奮で震えていた。
「人を呼んできます」
レオンが駆け出していく。
年長の船員が駆けつけてきた。テルの状態を確認すると、その顔に安堵の色が浮かんだ。
「お嬢ちゃん、生きてるよ!大丈夫だ。暖め続ければ生き返るぞ!」
エマは嬉しさで強くテルを抱きしめた。涙が止まらない。しかし今度は、喜びの涙だった。
「悪いな、お嬢ちゃん。ずっと甲板で。もうしばらく頼むよ」
年長の船員が申し訳なさそうに言った。
「いいえ」
エマは微笑みながら答えた。銀色の髪が朝日に輝き、その表情には深い幸福感が宿っている。
「私は永遠にこうしていられます。今、私は人生で一番幸せな時間を過ごしています」
テルの瞼が再び動いた。今度ははっきりと。そして、ゆっくりと、黒い瞳が開かれた。
焦点の定まらない瞳が、やがてエマの顔を捉えた。
「……」
何かを言おうとしているが、全く声になっていなかった。
「大丈夫です。何も心配はいりません。私がついています」
エマの涙が、テルの頬に落ちた。
「テル、ありがとう。生きていてくれて」
甲板に、希望の朝日が降り注いでいた。




