第90話:告白
春の風が窓から舞い込んでくる夜、俺はベッドの上で悶々としていた。
エマは今夜も机に向かって、卒業論文に没頭している。羽根ペンを握る白い指先が、ランプの明かりに照らされて美しく見えた。長い銀髪が肩にかかって、時折、集中しすぎて眉をひそめる表情が愛おしい。
もう春だ。卒業式まで、あとわずかしか時間がない。
俺は彼女に伝えなければならないことがある。旅に出ること。そして——自分の気持ちを。
「はあ……」
深いため息をついて、俺は久しぶりにスマートフォンを取り出した。最近はほとんど使うことがなかったが、今夜ばかりは頼りたくなった。
『中世ヨーロッパのプロポーズ』
検索窓にそう打ち込む。この世界の風習はよく分からないが、中世ヨーロッパ風の世界だから、きっと参考になるはずだ。
画面に検索結果が表示される。
『結婚申し込みの社会慣習について
家族を通じた正式な手続き:まず男性側が女性の父親に正式に結婚の許可を求めるのが一般的でした。これは女性への直接的な求婚の前に行われる重要な段階でした。』
「父親に許可って……」
俺は思わず呟いた。エマの家族に会ったこともない。いや、そもそもエマの家族のことも詳しく知らない。父親に許可を求めるなんて、考えるだけで心臓が飛び出しそうになる。
『仲介者の役割:多くの場合、家族や信頼できる第三者が仲介役を務めました。特に上流階級では、直接的すぎるアプローチは不適切とされていました。』
「仲介者か……」
俺はルーシーを思い浮かべた。きっと、間違いなく俺の意図をエマの実家に伝えてくれるだろう。
「ナオテル・イフォンシス・デカペンテはエマンエラ・カンテとの法的かつ社会的結合の実現を強く欲求している状態です」
ルーシーのそんな台詞を思い浮かべて首を横に振った。
『段階的なプロセス: 現代のような突然のプロポーズではなく、段階的に意思を伝える方法が取られました。まず関心を示し、次に真剣な交際の意図を表明し、最終的に結婚の申し込みに至るという流れです。』
「段階的に……確かに、まずは交際からか」
でも、どうすればいいんだ?いまさら、「付き合ってください」みたいなことを言えばいいのか?2年間も旅に出るというのに?
『社会的地位の考慮: 両家の社会的地位、経済状況、家柄の釣り合いが重要視されました。純粋な恋愛感情だけでは結婚は成立しにくい時代でした。』
「社会的地位……」
俺は元々何の地位もない異世界からの転移者だ。でも、今は一応騎士の称号を持っている。それで大丈夫……なのか?
「テルはさっきから、なにをひとりで呟いているの?」
突然、背後からエマの声が聞こえて、俺は飛び上がった。振り返ると、エマが興味深そうにスマートフォンの画面を覗き込んでいる。髪を耳にかける仕草が可愛らしく、無防備に近づいてくる彼女に鼓動が跳ね上がった。
「うわあああ!」
慌ててスマートフォンを隠そうとして、結果的に床に落としてしまった。
「い、いや、何でもない!何でもないから!」
「?」
エマは首を傾げている。
「そ、そうだ!エマはどんな卒業論文を書いているの?」
話題を変えようと必死になって聞く。
「よくぞ聞いてくれました!」
エマの目が輝いた。胸を張って誇らしげに答える姿は、まるで自分の研究を披露する学者のようだった。
「題名は『永久平和のために』です!」
「永久平和?」
「はい!戦争のない世界を作るためには、どうすればいいかを論じた論文なんです」
エマは机の前の椅子に座り直し、嬉しそうに説明を始めた。いつものように理路整然と話す彼女を見ていると、改めて頭の良い人だなと感心してしまう。
「まず第一に、各国は常備軍を減らして、他国に干渉せず、偽りの講和条約を結んではいけません。つまり、戦争の原因となる要素を制度的に取り除こうという考えなのです」
俺は真剣に聞いていた。エマの話は、いつも深くて考えさせられる。
「第二に、民主的な国だけが平和を作れるということです。国民が政治に参加できる共和制の国では、戦争で苦しむのは国民自身なので、戦争を避けようとします。でも独裁国家は支配者の都合で簡単に戦争を始めてしまうのです」
「なるほど……」
「第三に、国家連合のような組織が必要だということです。各国が独立を保ちながらも、争いが起きたときに話し合いで解決する組織を作るのです」
エマの瞳は熱を帯びて、羽根ペンを持つ手にも力が入っている。自分の考えを語る時の彼女は、本当に美しかった。
「第四に、世界中の人に共通の権利を認めること。どこの国の人でも、基本的人権は保障されるべきです」
「すごいな、エマ」
「最後に、戦争は非理性的な行為であり、人間が理性的に制度を設計すれば必ず平和は実現できるという信念が大事です」
エマの表情は決意に満ちていた。その瞳は、まるで理想の未来を思い描いているかのように輝いて見えた。
「平和が永久のものになれば、テルは退役できて、自由になりますしね」
ちょっと恥ずかしそうに、でも優しい表情で言った。頬がほんのりと赤く染まって、俺を見つめる青い瞳が温かい。
その瞬間、俺の胸が締め付けられた。
彼女は俺の将来のことを考えて、こんな論文を書いているのか。俺が戦いから解放されて、自由に生きられるようにと。
なのに、俺には彼女に言わなければならないことがある。旅に出ること。そして……
「エマ……」
「はい?」
澄んだ青い瞳が俺を見つめている。心配そうに眉をひそめて、俺の表情を読み取ろうとしているのが分かった。
俺は口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。
その勇気が全く出せない自分が嫌になる。こんなに大切に思っているのに。
「……ありがとう。エマの論文、すごく素晴らしいと思う」
結局、俺はそれしか言えなかった。
エマは嬉しそうに微笑んで、また机に向かった。銀髪がさらりと揺れて、再び羽根ペンを手に取る姿が優雅だった。
俺はベッドに横になって、天井を見上げた。
明日こそ。明日こそは、ちゃんと伝えよう。
でも、心の奥で分かっていた。明日になっても、俺は同じように躊躇してしまうだろうと。
春の夜風が窓から入ってきて、ランプの炎を揺らしている。エマの羽根ペンが紙を滑る音だけが、静かな部屋に響いていた。
時間は確実に過ぎている。卒業式まで、もうあまり時間がない。
俺は拳を握りしめた。今度こそ、勇気を出さなければ。
この想いを、エマに伝えなければ。




