第89話:商会、その後
春の陽射しがクロイツベルクの石畳を暖かく照らす中、俺、エマ、ミルの三人は「カンテ・ジャスティス・デカペンテ商会」としてのビジネスを確認するため、ピケティ氏のケーキ屋を訪れた。
店内は午後の光で満たされ、バニラとバターの甘い香りが鼻をくすぐる。ピケティ氏は厨房から顔を出すと、俺たちを見て嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「やあ、皆さん!紅茶の件で来てくださったのですね」
「はい。売れ行きはいかがですか?」
エマが青い瞳で期待を込めて尋ねる。
ピケティ氏は手を拭きながら答えた。
「素晴らしいですよ。無料で試飲していただいたお客様は、皆さん茶葉を購入してくださいます。品質の良さは本物ですからね」
「それは良かった!」
ミルが小柄な体を弾ませて喜んだ。栗色のボブカットが揺れ、胸元の四つ葉のクローバーのブローチが光を反射している。
「ただ...」
ピケティ氏の表情が曇った。
「実は問題がありまして」
「どのような問題ですか?」
エマが心配そうに身を乗り出す。
「いつも売り切れになってしまうんです。お金持ちのお客様が何缶もまとめて買い占めてしまわれるものですから」
ピケティ氏は困ったような表情で続けた。
「午前中には完売してしまい、午後に来られたお客様には『残念ながら品切れになりました』とお詫びするしかありません」
俺はすかさず提案した。
「それなら値段を上げればいいんじゃないかな?需要が高いなら、価格を上げて調整しよう」
「でも、テル」
エマが眉をひそめて反対した。
「値段を上げれば、それこそお金持ちしか買えなくなってしまいます。それでは私たちの理念に反します」
「まあ、商売としては儲けは増えるから良いけどね」
ミルが現実的な分析を口にしたが、エマはすぐに首を振った。
「儲けられればいいというものではありませんよ、ミル。私たちは利益だけでなく、多くの人に良いものを届けたいのです」
三人は店の隅のテーブルに座り込んで考えた。ピケティ氏も心配そうに俺たちを見守っている。
しばらく沈黙が続いた後、俺にアイデアが浮かんだ。
「そうだ、オークションはどうだろう?」
「オークション?」
エマが首をかしげた。透明感のある青い瞳に疑問の色が浮かんでいる。
「あの、美術品を一番高い値段を付けた人が買うという制度ですか?それではお金持ちしか買えないのでは?」
「ちょっと工夫するんだ」
俺は身を乗り出して説明し始めた。
「まず、茶葉は一人一缶までしか買えないことにする。ただし、高い値段を付けた人から順番に買えるようにするんだ」
「それは...どういうこと?」
ミルが大きな青灰色の瞳で俺を見つめる。
「絶対に欲しいお金のある人は高い値段を付けるだろう。でも、みんな一缶ずつだから買い占めることはできない。そして、高い値段を付けた人が買った後も茶葉は残るから、お金のない人にも買うチャンスがある」
エマとミルは真剣に考え込んだ。エマは細い指先で三つ編みの端をくるくると巻きながら、論理的に検討している。
「つまり、値段に差をつけることで、需要を調整するということですね」
ミルが理解したような表情を見せた。
「お金持ちからはより多くの利益を得つつ、貧しい人にも購入機会を保証する...」
「そういうこと!」
俺は手を叩いた。
ミルの目が輝いた。小柄な体を椅子の上でピンと伸ばして、興奮気味に説明を始める。
「これは素晴らしいアイデアです!商売の仕組みとしても非常に合理的です」
「どういう理由で?」
エマが興味深そうに尋ねる。
「まず、値段に差をつけることで、私たちの収益が最大化されます。お金持ちからはたくさん稼げて、普通の人からは適正な価格で売れる」
ミルは指を立てて続ける。
「次に、全体の需要をコントロールできます。一人一缶の制約を付けることで、多くの人が買うことができます」
「そして最も重要なのは」
ミルの青灰色の瞳が真剣に輝く。
「これは誰も損をしない仕組みだということです。お金持ちは高い価格を払ってでも確実に手に入れられて満足する。貧しい人も機会を得られて満足する。私たちも利益が上がって満足する。みんなが幸せになれる理想的な制度です」
エマも納得したような表情を見せた。
「確かに、これなら私たちの理念と収益性を両立できそうですね」
三人は早速ピケティ氏に新しい販売方式を提案した。彼も興味深そうに聞いてくれ、来週から試験的に導入することになった。
————
その後、俺たちは貧民街の学校を訪れた。以前は週二回しか開けなかった小さな教室が、今では立派な建物になっている。
入り口では、教師として雇った若い女性が子どもたちに読み書きを教えていた。窓際では別の先生が算術を教え、奥の部屋では職業訓練も行われている。
「こんなに大きくなったんですね」
エマが感慨深そうに建物を見回した。白いブラウスが午後の光を受けて輝き、その表情に深い満足感が浮かんでいる。
「おかげで毎日開校できるようになりました。パンも残り物ではなく、新しく購入するようになったので、参加できる子どもの数も倍増しています」
俺は嬉しくなった。報奨金の一部がこうして形になっているのを見ると、戦争での辛い記憶も少し和らぐ気がする。
その時、カーラが教室から出てきた。赤毛を後ろで結い、いつものように情熱的な表情を浮かべているが、どこか思い詰めたような影も見える。
「カーラ、お疲れさま。学校の調子はどう?」
俺が声をかけると、カーラは少し複雑な表情を見せた。
「とても順調よ。でも、話があるの」
カーラは俺たちを建物の外に連れ出すと、意外な言葉を口にした。
「私、卒業したら、この学校の運営から抜けるわ」
「え?」
俺は驚いて声を上げた。
「どうして?もしかして、俺たちがお金を使って運営していることが気に入らない?」
カーラは首を振った。赤毛が夕日を受けて燃えるように輝いている。
「そんなことはないわ。おかげで学校は大きくできたし、救われる人も増えた。あなたたちには心から感謝している」
「じゃあ、なぜ?」
「ただ、私の役割は終わった気がするの」
カーラは遠くを見つめながら続けた。
「物事を始める人と、それを続ける人は違っても構わないじゃない。この学校はもう軌道に乗った。あとは新たに雇った先生たちと、地域の人たち、そしてあなたたちが継続してくれるでしょう」
エマが心配そうに尋ねた。
「それで、カーラはどうするつもりですか?」
「私、卒業したら、エンポリアに行こうと思っているの」
俺は意外に感じた。
「エンポリア?外国に行くならマキャベリアかと思ったよ。貧しい人が一番多くいるから」
カーラは首を振って、情熱的な瞳で俺を見つめた。
「違うの、テル。革命は最も産業が発達した場所で起こるものよ」
「革命?」
俺は困惑した。
カーラは立ち上がって、拳を握りしめながら説明し始めた。
「経済が最も発達した場所では、生産する力が高度に発展する。同時に、働く人たちが組織化され、団結するようになる。そして社会が抱える問題点が極限まではっきりと見えてくるの」
カーラの声には深い確信が込められていた。
「マキャベリアのような貧しい国では、人々は日々の生活に追われて、根本的な社会の変革を考える余裕がない。でも、エンポリアのように豊かで産業が発達した国では、労働者が団結して世界を変える力を持てるのよ」
「そういうものなのか...」
俺は頭を掻きながら呟いた。正直、よく分からないが、カーラの情熱は本物だと感じられる。
「私は世界を変えたいの、テル」
カーラの瞳が燃えるように輝いた。
「多くの人々が救われるには、世界そのものが変わらなければいけない。個々の慈善事業では限界があるわ」
俺はカーラの言葉を聞きながら、自分のことを思い返していた。以前の俺なら、そんな大きな理想に憧れていただろう。しかし今は...
「そうか」
俺は静かに頷いた。
「カーラなら、できるよ」
「本当?」
「もちろん」
カーラの表情が明るくなった。俺は小さな物語を選んだ。でも、カーラのような人が大きな物語を動かすんだと思う。
俺は夕焼けに染まる空を見上げた。
「それぞれが自分の信じる道を歩めばいい。俺は身近な人たちとの日常を大切にしたい。カーラは世界を変えたい。どちらも価値のあることだ」
カーラは俺の言葉を聞いて、深く頷いた。
「ありがとう、テル。あなたの言葉で決心がついたわ」
夕日が街を赤く染める中、俺たちはそれぞれの道について語り合った。商会は順調に発展し、学校も地域に根付いている。そして、仲間たちはそれぞれの理想に向かって歩き始めている。
俺自身も、二年後の旅に向けて準備を始めなければならない。エマとの未来のために、そして自分自身の成長のために。




