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第87話:永遠と一瞬

その夜の夕食後、俺はエマとゆったりとした時間を過ごしていた。大ジャンヌからのアドバイスで心の重荷が軽くなり、久しぶりに穏やかな気持ちでいられた。


二年の旅という具体的な目標ができたことで、これからの道筋が見えてきたような気がしていた。まるで深い霧の中に、ようやく一筋の光が差し込んできたかのようだった。


その時、ドアを叩く音が響いた。


夜も更けた時間帯に来客とは珍しい。俺は警戒しながらドアに向かった。


「誰でしょう?」


エマも振り返って、青い瞳に不安の色を浮かべている。


俺がドアを開けると、そこに立っていたのはアンナだった。


しかし、いつものような明るい表情ではない。金褐色の髪が肩で重く垂れ、澄んだ緑色の瞳に深い影が差している。普段の活発で自由奔放な彼女からは想像できないほど、まるで魂を削られたような思い詰めた表情を浮かべていた。


「アンナ、こんな時間にどうしたの?」


俺が心配そうに声をかけても、アンナは俺の方を見ようとしない。まるで俺の顔を見れば崩れ落ちてしまいそうで、必死に堪えているかのようだった。


代わりに、部屋の奥にいるエマに向かって静かに言った。


「エマ、テルを少し借りていいかしら」


エマは困惑したような表情を見せたが、すぐにいつもの理性的な判断を示した。


「ええ、良いですよ。そもそもテルは私のものではありませんし」


「ありがとう」


アンナはそう言うと、俺の顔も見ずに手を引っ張って外に連れ出した。その手は氷のように冷たく、震えているのが分かった。まるで生と死の境界線に立っているかのような、そんな冷たさだった。


家を出ると、夜の冷たい空気が頬を刺した。石畳の上を歩く足音が静寂の中で響いている。


「どうしたの? 何かあった?」


俺は歩きながらアンナに尋ねた。しかし、彼女は何かを言い出せずにいるようで、ただ黙って俺の手を引いて歩き続ける。その横顔は月光に照らされて青白く、まるで消え入りそうな幻のようだった。


「じゃあ、橋まで歩こうか」


俺は提案して、新市街と旧市街を繋ぐ橋に向かって歩き出した。月明かりが石畳を銀色に照らし、俺たちの影が長く伸びている。アンナは少し後ろを歩いていて、その表情は見えない。


橋にさしかかった時、後ろを歩いていたアンナが俺の袖を軽く引いた。


俺は立ち止まった。川が流れる音だけが、重い沈黙の中に響く。


「サヨナラを言いに来たの」


アンナの小さな声が夜に溶けた。


俺は雷に打たれたような衝撃を受けて振り返った。アンナはうつむいていて、金褐色の髪が顔を隠している。いつもの太陽のような明るさは微塵もなく、力なく佇んでいた。


「どういうこと?シルバーマインに帰るの?」


「妹が危篤だって」


アンナの声が震えていた。俺は息を呑んだ。


「病気だったの?急に?」


「少し前から具合が悪いとは聞いていたんだけど、さっき母から手紙が来て......」


アンナは涙を堪えながら続けた。その声は嗚咽で途切れ途切れになり、聞いているだけで胸が締め付けられた。


「妹が、最後に私に会いたいって」


その言葉を聞いた瞬間、まるで自分の大切な人を失うような、そんな絶望感が込み上げてきた。


「そんな。きっと、大丈夫だよ!アンナの顔を見れば、妹さんも元気を出すよ」


俺はアンナを必死に励まそうとした。しかし、彼女は首を横に振った。その仕草が、まるで運命を受け入れる聖人のように見えた。


「私たち、きょうだいは沢山いたの。でも、みんな小さい頃に死んでしまって。今、生きているのは妹と私だけ」


俺は愕然とした。まるで頭を殴られたような衝撃だった。彼女のあの屈託のない笑顔の裏に、こんな深い悲しみが隠されていたとは。


「私もいつまで生きられるのか分からない......」


アンナは俺の顔を見上げた。緑色の瞳から透明な涙があふれ出している。まるで美しい宝石が砕け散るように、キラキラと光りながら頬を伝って落ちていく。


その瞬間、俺は全てを理解した。アンナの自由奔放な生き方。それは、いつ死ぬか分からない恐怖と表裏一体だったのだ。彼女は死の影に追われながら、それでも懸命に生きようとしていたのだ。


「大丈夫だよ。アンナは死なないよ」


俺はアンナの両肩に手を置いて、必死に励ました。彼女の肩の震えが俺の手のひらに伝わってくる。


アンナは黙ってうつむいていた。沈黙が続く中、強い風が川面を撫でてざわめかせる。


やがて、アンナは深く息を吸うと顔を上げて、いつものような微笑みを浮かべた。しかし、その笑顔には深い悲しみが隠されているのが分かった。


「ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったんだけど、テルの顔を見たらこうなっちゃった」


まるで最後の花火のように、美しくも儚い笑顔だった。


「みんなには言わないで。気まぐれでちょっと実家に帰っているってことにして」


「それは…」


俺は戸惑った。それでいいのだろうか。こんな重大なことを隠したままで。


「いいの。みんなの中では私は『疾風怒濤』ってことにしたいの」


アンナは笑顔を作って言った。その健気さに、胸が引き裂かれるような痛みを感じた。


俺たちは欄干に寄りかかり、川を見下ろしながら静かに話し続けた。


「初めて会った日のこと、覚えてる?」


アンナが懐かしそうに尋ねた。その声は、遠い思い出を慈しむように穏やかだった。


「もちろん。アンナがぶつかってきて」


俺も当時のことを思い出した。あの日、転校生として現れた彼女は、理性の国フィロソフィアに新しい風をもたらしてくれた。まるで春の嵐のように、全てを変えてしまった。


「そう。あの時、テルと少し話しただけで分かったの。この人は、少し違うって」


「違う?」


「フィロソフィアの人々は、色々なものに縛られて生きているような気がしたの。でも、テルは何か自由で、自分と同じ側の人のような気がした」


俺も同じことを感じていた。この世界に来た時、アンナと話すと何か懐かしい気持ちになったのを思い出す。まるで故郷にいるような、そんな安らぎがあった。


「だから、テルと話すとなんだかほっとして。すごく心地よくて」


「俺もアンナと話すと、何か......自分の国を思い出したよ」


俺は正直に答えた。


しばらく沈黙が続いた後、アンナが小さな声で言った。


「私......あなたが好きよ」


その言葉に、息が止まりそうになった。アンナが自分に好意を持っていることは、なんとなく分かっていた。でも、こんなにはっきりと言われると戸惑った。


「やっぱり、困るわよね」


アンナが苦笑いを浮かべる。その表情には、悲しみと、自分を支えるような笑みが同居していた。


「いや、困らないよ。困らないけど......」


俺は言葉に詰まった。アンナの気持ちは嬉しい。心から嬉しい。しかし、俺の心の中には既にエマがいる。その現実を変えることは出来ない。


「分かってる、良いの。私は言いたいことを言っただけ」


その優しさが、かえって俺の心を苦しくさせた。


「ごめん」


俺は心から申し訳なく思った。


「なんでテルが謝るのよ」


アンナの手が俺の肩を押す。しかし、そこにはいつものような元気は感じられない。


「テルは、いつか私のことを忘れるかしら」


アンナが呟くように言った。


「忘れないよ」


俺は即座に答えた。


「でも、テルはほら、何か適当だから」


アンナが笑った。いつもの茶目っ気のある表情だった。その笑顔が、余計に胸を締め付けた。


「忘れないよ。忘れるわけないだろう」


俺たちは少し言い争って、そして笑った。不思議と、その瞬間だけは悲しみが和らいだような気がした。風が止まった。


「絶対忘れないように、プレゼントをあげるから、目を閉じて」


アンナが真剣な表情で言った。その瞳に、何か決意が宿っているのが見えた。


「分かった」


俺は素直に目を閉じた。


「やっぱり、テルは度を超して鈍感ね」


アンナの声が聞こえた直後、唇に柔らかい感触を覚えた。俺は驚いて目を開けた。


目を閉じたアンナの顔が俺の前にあった。月光が彼女の頬を柔らかく照らし、長いまつ毛が小さな影を作っている。金褐色の髪が夜風に揺れて、まるで絹糸のように俺の頬に触れた。


頭が真っ白になり、世界中の音が消え去ったような静寂に包まれる。時が永遠に止まったような感覚に襲われた。俺の肌に触れる彼女の体温だけが唯一の現実として存在していた。


やがて、アンナがゆっくりと離れた。


「ごめんなさい、テル」


アンナはうつむいてそう言った。


「ありがとう、テル」


その笑顔が、俺が記憶している最後のアンナの姿になった。


「さようなら、テル」


アンナは背を向けると、走り出した。金褐色の髪が夜風に舞い、その姿はあっという間に遠ざかっていく。まるで風に舞う花びらのように、美しく、そして儚く。


俺はその背中を見送ることしかできなかった。深く息を吸い込もうとしたが、胸が締め付けられて浅い呼吸しかできなかった。


頭の整理ができない。今起きたこと、アンナの境遇、これまでの思い出。全てが渦のように頭の中を駆け巡っていた。橋の上を吹く冷たい風だけが、燃えるように思考を少しずつ冷ましてくれた。


橋の上で一人、俺は長い間立ち尽くしていた。


明日からは、アンナのいない生徒会室での日々が始まる。彼女が持ち込んでくれた自由で情熱的な風は、もうそこにはないのだ。まるで、世界の色彩が一つ失われてしまったような気がした。



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