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第79話:テルと「大きな物語」

昼休みの中庭は、春の訪れを告げる暖かな陽射しに包まれていた。石造りのベンチに腰掛けて、俺は久しぶりにゆっくりとした時間を過ごしていた。左肩の傷もほぼ完治し、体調は良好だ。しかし、心の中にはまだ重いものが残っている。


そんな時、見慣れた小柄な影が俺の前に現れた。


「テル」


振り返ると、細いフレームの眼鏡をかけた、セミロングの黒髪の少女が立っていた。薄茶色の瞳が俺を見つめ、白すぎる肌が陽光に照らされている。王立学院の制服を着た小ジャンヌだった。


「小ジャンヌ。久しぶりだね」


「元気そうですね」


彼女は俺の隣に腰を下ろした。華奢な肩に制服のブレザーが美しく映え、いつものように知的な雰囲気を漂わせている。


「そういえば、あの時は、ありがとう」


俺は心から感謝を込めて言った。


「ローレンティアでは、本当に助けられた。君がいなかったら、作戦は失敗していたと思う」


小ジャンヌは静かに首を振った。


「ローレンティアは私の思い出の地ですから、できることをしただけです」


彼女の薄茶色の瞳に、かすかな懐かしさが宿っている。故郷への複雑な想いが、その表情の奥に隠されているようだった。


しばらく沈黙が続いた後、小ジャンヌが俺の方を興味深そうに見つめた。


「やはり、あなたの『実存』が見えます。前は見えなかったのに」


「実存?」


俺は首をかしげた。以前にも彼女からそんなことを言われた記憶がある。


「よくわからないけど、戦争の後、確かに何が変わったような気がする」


俺は正直に答えた。確かに、ヴァルドフェールでの戦いを境に、何かが変わった。それが何なのか、うまく言葉にはできないが。


小ジャンヌは静かに頷いた。


「どのように変わったのですか?」


彼女の質問に、俺は少し考えてから口を開いた。


「これまで俺は、世界という大きな物語の中で、取るに足らないモブ…無名の人間だと思っていた」


中庭の向こうで、生徒たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。平和な日常の音だった。


「だから、戦争で大活躍するような英雄に憧れていた。この世界の主要登場キャラ…人物になりたかった」


俺は苦笑いを浮かべながら続ける。


「でも、実際にその立場に立ってみて感じたんだ」


俺は空を見上げた。青い空に白い雲がゆっくりと流れている。


「俺は確かに、この国を守るのに貢献したかもしれない。その意味で、この国の多くの人を救ったかもしれない」


「でも、マキャベリア軍の兵士とその家族を間違いなく不幸にした。今でもそれを思うと苦しい。英雄には裏側があるのだと知った」


小ジャンヌは黙って俺の話を聞いている。薄茶色の瞳に、深い理解の光が宿っていた。


「大きな物語なんて必要ない」


俺は断言した。


「俺には、多くの人の運命を左右するような重責は負えない。それは、特別な才能、メンタル、血筋などを持った人がやれば良い。人を殺しても何とも思わないか、それを受け止められるような人間が」


俺は立ち上がって、中庭の向こうを見つめた。


「俺は、俺の物語を書ければいい。俺が主人公で、世界は変えられないかもしれないけど、読んでみると、意外に面白いような、そんな物語で良い」


俺は振り返って、小ジャンヌの薄茶色の瞳を見つめた。


「俺の知り合いが沢山出てきて、楽しいことが起これば良い。国が栄えたり滅びたりしなくてもいい」


小ジャンヌは静かに頷いた。


「今は、不思議なほど思わない。英雄になりたいとか、有名になりたいとか、何か大きな事をしたいとか」


俺は再びベンチに座った。左肩の鈍い痛みが、現実を思い出させる。


「むしろ、エマと一緒に穏やかに過ごしたり、生徒会のみんなと議論したり、ベル先生にからかわれたり、そういう日常が一番大切だと思えるようになった」


小ジャンヌは俺の言葉を聞いて、かすかに微笑んだ。


「あなたが本当にこの世界の人間になったのですね」


「え?」


俺は驚いた。彼女の言葉の意味がよくわからない。


「以前のあなたは、まるで『物語の外側』から世界を見ているようでした。だから『実存』が見えなかったのです」


小ジャンヌは眼鏡を直しながら説明した。


「でも今は違います。あなたはこの世界の中に確実に『存在』している。責任を負い、選択をし、その結果と向き合っている。それが『実存』です」


俺は彼女の言葉を噛みしめた。確かに、以前の俺はどこか他人事のような感覚で生きていた。しかし今は、この世界での自分の行動に重い責任を感じている。


「一つだけ、言わせてください」


小ジャンヌは立ち上がって、俺に向き直った。


「何?」


「あなたの『小さな物語』は、実はとても大きな影響を与えているのです」


俺は首をかしげた。


「エマ、ミル、ジーナ、ルーシー、アンナ、そして私。あなたと出会ったことで、私たちは皆変わりました」


小ジャンヌの薄茶色の瞳が温かく輝いていた。


「それに、貧民街の子どもたち、王立学院の生徒たち、戦争から守られた人々。あなたの『小さな物語』は、実は多くの人の人生に影響を与えているのです」


俺は少し恥ずかしくなった。


「でも、それは俺が特別だからじゃない。誰だって、周りの人に影響を与えながら生きているんだ」


「その通りです」


小ジャンヌは微笑んだ。


「だからこそ、『大きな物語』などというものは幻想なのです。すべての人の『小さな物語』が集まって、世界は動いているのですから」


俺は小ジャンヌの言葉に深く頷いた。


「ありがとう、小ジャンヌ。君と話していると、いつも新しい視点をもらえる」


「こちらこそ。あなたのおかげで、私も多くのことを学びました」


昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り響いた。


「それじゃあ、私は午後の授業に戻らないと」


小ジャンヌは軽く会釈すると、校舎に向かって歩いていった。制服姿の華奢な後ろ姿が、石畳の上で小さく見える。


俺は一人、ベンチに残って空を見上げた。


ふと、女神サンデラの言葉を思い出した。


「『自分を救ってください』って言われたんだっけ」


俺はスマホを取り出した。久しぶりに女神サンデラにメッセージを送ることにした。


「自分を救ってください、とはどういうことか教えて」


送信すると、すぐに返信が来た。


「文字通りです。それ以外の意味はありませんw」


俺は思わず苦笑いした。相変わらず、はぐらかすような返事だ。


しかし、今なら少しわかる気がする。


もしかすると、俺を救う必要があったのは、俺自身だったのかもしれない。


前の俺は、自分の人生を本当の意味で生きていなかった。いつも『もっと特別な何か』を求めながら、現実から逃げていたような気がする。


でも、この世界で多くの人と出会い、エマと過ごし、戦争を経験して、俺は本当の意味で『生きる』ことを学んだ。


大きな物語の英雄になりたかった俺を、小さな物語の主人公として生きることができる俺に変えること。それが『自分を救う』ということだったのかもしれない。


もう俺は、異世界転生した主人公として英雄になろうとは思わない。


ただ、この世界で出会った人たちを大切にし、自分らしく生きていく。


エマとの何気ない会話、生徒会でのにぎやかな議論、王立学院での穏やかな日々。


それが俺の『物語』だ。


そして、その物語は意外にも、読んでみると面白いかもしれない。


俺は立ち上がって、校舎に向かった。午後は生徒会室でみんなと過ごす予定だ。エマの美しい笑顔を思い浮かべながら、俺は軽やかな足取りで歩いていった。


スマホの画面には、相変わらずサンデラからの謎めいたメッセージが表示されていた。しかし、もうそれを深く詮索する気はない。


答えは俺の中にある。そして、それを見つけるのは俺自身の責任だ。


『自分を救う』という旅は、もしかするともう終わっているのかもしれない。


そんなことを考えながら、俺は生徒会室のドアを開けた。


「お疲れさま、テル」


エマの優しい声が俺を迎えてくれた。銀色の髪が午後の光を受けて美しく輝いている。


「ただいま」


俺は自然に答えていた。


「まあ、ここは、あなたの家ではありませんよ」


エマが笑う。


「いや、エマがいるところが俺の家なんだよ」


ここが俺の居場所だ。ここが俺の物語の舞台だ。


そして、この物語は俺が思っていたよりもずっと豊かで、温かく、価値のあるものだった。

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